10 赤と青


 ユーティアにはサボと別れてから、恋人はいない。ベレットとの付き合いは変わらず続いていて、そういう意味ではこの十一年で最も大きな変化といったら、彼女という友人に出会ったことだろうか。
 母は先日、長らく続けていた自宅の無花果園を手放し、サロワの親戚の家に身を寄せた。父方の兄弟の家だが、父が亡くなってからずっと無花果園を手伝ってくれていた一家でもあり、安心できる。コートドールへ来て共に暮らすことも提案したが、住み慣れた土地を離れるつもりはあまりなさそうだ。
「水道、貸して」
「どうぞ」
 計量スプーンを洗いに、ベレットが隣に立った。冷たい水に両手を浸しながら、ユーティアの手元を見て、あ、と口を開ける。熟れた苺を一つ押し込んで、どう、と尋ねるとこくこくと頷いた。美味しいものにうるさい彼女からも、評価は上々である。
「この間ね」
 苺を飲み込んで、思い出したようにベレットが切り出した。
「市場で、見慣れない店ができてて。お一つどうですかって、苺をもらったのよ。美味しかったんだけど、なんだか果物とか、生活用品とか、寄せ集めみたいになんでも売ってたから、あなた何屋さんなのって訊いてみたのね」
「うん」
「そうしたら、セリンデンの魔女だって言うのよ」
 ユーティアは思わず、手元に落としていた視線を上げた。
「まだアルシエに来たばかりで、ひとまず遠い親戚とかその知り合いとかを頼って、市場で店をやらせてもらえることになったところなんですって。仕入れ先の伝手がまだきちんと決まらなくて、何でも屋みたいになっちゃってるけど、早いうちにちゃんと契約をもらって、市場で働いて商人として暮らしていきたいんだって」
「それ、セリンデンには帰るつもりがないってことよね? どうしたのかしら」
「ううん……、はっきりとは言わなかったけどね。どうも今、向こうじゃいよいよ居心地が悪くなってきたらしいのよ。風当たりがきついっていうか、迫害の一歩手前っていうか」
「迫害って、魔女が今さら?」
 驚きに目を見開いたユーティアに、ベレットは言い難そうにしながらも頷いた。私もあくまで噂でしか知らないわよ、と前置きして、落とした声で続ける。
「元々、セリンデンってあまり魔女を必要としてこなかったじゃない? 医学の発展が早かったから、アルシエみたいに民間療法が広く残ってなくて」
「ええ……」
「魔女が薬草魔女として活躍していた時代っていうのが、どうもほとんどないみたいなのよね。迫害がやむころには、医学が出てきてあっという間に取って代わられちゃったらしいの。だから、魔女に対する認識が、アルシエとはちょっと違うみたいっていうか……」
「……」
「ただの、本を持って生まれてくる特殊な人たち。そういう認識のほうが、強いみたい」
 ユーティアは少なからず、ショックを受けた。セリンデンでは医学が強くて、薬草魔女が生きにくいということはこれまでも知っていた。だが、そもそもの魔女に対する感覚が、アルシエとセリンデンでは大きく違っている。
 アルシエは魔女を、使命を持って生まれ、人間の歴史に良い変化をもたらす女性たちである、と教える。その過程で、魔女が薬草の知識によって身を守り、迫害を乗り越えて人々との共存を真剣に考えたことも歴史として教えられる。だが、ベレットの言い方から想像するに、セリンデンでは「異端」という印象のほうが強いのだ。魔女が持つグリモアや、迫害を乗り越えた知恵のことを、国全体がアルシエのように認知していない。
 異なるものは、いつも危うい立場にある。セリンデンほどの身近で大きな国が、いまだに魔女をそんなふうに見ているということが、アルシエで守られて暮らしてきたユーティアには暗く悲しい現実に思えた。
「はっきり言っちゃえば、逃げ出してきたみたいなのよね。アルシエはどうやら、黙認してるみたいだわ」
「そうなの」
「ええ。彼女の他にも、何人かいるみたい。品物はごちゃごちゃだったけど、市場での正式な許可証も持っていたし……、不正入国ではなさそうだったわね。たぶん長期滞在の商人とか、何らかの扱いで王様が認めているんじゃないかしら」
 一度は終わったはずの迫害の時代が、もう一度やってくるのは辛いことだ。ユーティアは同じ魔女として、そのセリンデンの魔女の無事にほっと安堵し、彼女が故郷を逃げ出さざるをえないことに胸を痛めた。同時に、彼女を迎え入れたアルシエ国王の判断を誇りに思った。
 魔女は確かに、歴史の様々な転換点に関わってきたかもしれない。だが、それによって起こる変化は、いつだって未来を良くしてきたはずだ。迫害される理由など、どこにもない。アルシエでは人々がそれを、当たり前のこととして理解してくれている。セリンデンからやってきたという魔女たちにも、アルシエの人々は寛容に接することだろう。
 ――でも、セリンデンはそれを良く思うだろうか。
 ユーティアはふと、最後に浮かんだ疑問が黒い染みのように胸に広がっていくのを感じた。シンクに苺のへたが落ちて、赤い果汁が指を伝う。白い指と苺の赤が、なぜだかふいに怖くなって、苺をかごに放り込んで手を洗った。透明な水滴が、手の甲に丸く吸いつく。
 獅子の目にでも見つめられたように、ユーティアはその水滴から目が離せなかった。
「貸して」
「……えっ?」
 右耳から流れてきた声にも、一瞬、反応が遅れてしまった。慌てて顔を上げると、ベレットの海のように青い眸がユーティアを見下ろしている。
「布巾、貸してくれない? どうかしたの、びっくりした顔して」
「え、ああ……、ごめんなさい。はい」
「ありがと」
 近くにあった布巾を渡すと、彼女は計量スプーンを綺麗に拭いて戻っていった。
 ユーティアはベレットが離れてから、心臓の上を押さえてそっと息を吐いた。わずかな間だが、とてもぼうっとしていた気がする。声をかけられてほっとしたような、暗闇から助けられたような、そんな心地がした。


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