9 雪別
それが、自分にとって最後の、サボという人の記憶になるだろう。ありがとうと言い、焼きつけるように瞼を閉じたユーティアを見て、ベレットがわずかに眉を寄せた。
「あんた、それでいいの」
「うん」
「そう」
迷いなく、頷く。ユーティアの表情はまだ晴れなかったが、その目には昨夜よりも力が戻って、サボとの別れという決断を全うしようとする意思が宿っていた。ベレットはそれ以上、何か言おうとはしなかった。ユーティアにはそんな彼女の、潔い理解がありがたかった。
「さ、お礼に何か作るわ。なんでもリクエストを聞くわよ」
「本当に?」
「もちろん。あ、昨日のスープもまだ残っているの。食べていくでしょう?」
袖をまくって、切り替えるようにキッチンへ立つ。食べる、と返事をしてコートと帽子を脱ぎ、ベレットは長い髪を一つに結んで隣に立った。
チーズオムレツが食べたいという彼女の要望に応えて、新鮮な卵を割る。その一瞬にふいに寂しさが込み上げたのを、ユーティアは微笑んで喉の奥へ呑み下した。
幸福であってほしい、本当に特別な人だった。だからこそ、言えなかった。多分、一生かかっても自分はサボにグリモアを教えることができなかっただろう。
元気でいてほしいと願うことも、今となってはおこがましい話かもしれない。けれどそれでも、一日も早く、彼には幸せになってほしいと思う。そのためならば、忘れられてしまったとしても構わなかった。この三年間、自分はとても幸せだった。
ユーティアは久しぶりに、心の中で自分の名を呟いた。どうか私から遠く離れたあの人が、当たり前の幸せに恵まれて、末永く生きてくれますようにと強く願った。
熱したフライパンの上に、卵が流される。あっという間に火の通る音がして、夕食の香りが部屋に満ちた。
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