9 雪別


 九時を指す壁掛け時計の、秒針がカチカチと動いていた。テーブルの端の胡椒瓶が、湾曲した表面に白い明かりを滑らせる。月のようだ。
 サボはやがて、意を決したように唇を開いた。
「君は、とても優しいと思う」
 思いがけない言葉に、瞬きをする。彼はユーティアの飴色の眸をまっすぐに覗き込んで、まるで自分でも戸惑いながらその先を探しているように、ゆっくりと続けた。
「とても、優しい人だ。僕がいつ来ても笑顔で招き入れてくれるし、それが仕事の帰りなら、とりわけ明るくお帰りなさいと言ってくれる」
「……」
「寒ければ温かいスープを作って、暑い夏には涼しげなハーブティーを淹れて迎えてくれる。春も秋も、いつも君は優しかった。こんなに宝物のように扱われて、それが僕で、本当にいいんだろうかと時々考えるくらいに」
 サボはそこでふと、自信なさげに微笑んで言葉を切った。あなたでいいのではない、あなただから私は優しかったのだと、口を挟もうとしたユーティアを手のひらで制して頷く。
「愛されていると思うことが、自惚れだと思っているわけではないんだ。時間も物も気持ちも、特別でなければあげられる量には限界があるだろう。君が僕にかけてくれたそれは、そんな限界は優に超えるものだったと僕は思う」
「サボ……」
「だけど。そんなふうに、何もかもを惜しみなく与えてくれるのに、君はいつまで経っても約束を果たしてくれる気配がないね」
 心臓がどきりと、押さえつけられたように跳ねた。
 向かい合って座ったときから、あるいはもっと前、夕食の間から。さらに遡ればもっとずっと前、彼と恋人になったときから、胸の奥に小さくあった予感が現実のものとなって現れた。ユーティアはついにこの時がきたのかと、静かに目を伏せた。
 グリモアを、いつか話すと約束してしまった。特別な人にしか教えないと決めている、とあのときは伝えた。真実ならば、今の彼にこそ、ユーティアは教えるべきなのだ。
 サボが耐えるように、じっとユーティアを見つめて待つ。しかしやがて、先に口を開いたのはやはり彼のほうだった。
「三年、僕は待った」
 ユーティアがぐっと、唇を引き結ぶ。
「本当のことを言ってほしいんだ。君に、グリモアを明かすつもりはあるのかないのか。……いや、違うな。最初から、あったのか、なかったのか」
「……」
「僕は別に、魔女だから君と付き合っていたわけじゃない。グリモアを知らなくたって、好きでいることはできる。だけど、君だって分かるはずだ。好きで、本当に近くにいるからこそ、秘密がそこにあるのが目についてしまう」
「……ええ」
「初めは見ないようにしていた。いつか君が教えてくれるくらいの、特別な一人に、僕がなれれば自然と教えてくれるのだろうと思っていた。でも、こんなことは言いたくないけれど、今はそれを疑っているんだ。初めから……僕がいくら待ったところで、君には教えてくれるつもりがなかったんじゃないかとさえ思い始めている」
 長い間、このことについて考え続けさせたのだろう。覚悟を決めたように口を開いたサボは、これまでの思いの丈を打ちつけるように、切羽詰まった声で饒舌に話した。声は時々震えて、ユーティアはそのつど、はっとして瞬きをしたが、サボは泣いているわけではなかった。ただ、泣き出さないように、あるいは激昂しないようにと、必死に抑えているせいで喉を震わせているのだった。
「君にもし、そのつもりがあるのなら。今、教えてくれないか。大切なものだから言わないと言っていた、あの言葉を僕は信じている。だから君がもし、僕にそのグリモアを教えてくれるのなら……」
「サボ?」
「僕は、生涯。君と共にいたいと思っているよ」
 驚きに、息を呑む。最後の言葉はユーティアにとって、予想外だった。ずっと、グリモアを気にされていることには気がついていたから、いつか訊かれるかもしれないということは分かっていた。でも、サボがこれほどの覚悟を持ってそれを訊きにきてくれるとは、考えたことがなかった。
 生涯、共に。その言葉が結婚を意味することくらい、ユーティアにも分かる。共に暮らし、朝と昼と夜を過ごし、彼と家族になる想像が一瞬にして脳裏を巡った。在りし日の父と母がそうであったように、血の繋がらない二人であることが信じられないくらいの、本当の家族に。


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