蝶に背骨はない、ということを教えてくれたのは夜鷹だった。夏、僕らが未明の庭の、烏瓜を実らせたパーゴラの下で英語の筆記を勉強していたときのことだ。一匹の揚羽蝶が、芝生の上を横切っていった。
「あの翅の中って、さぞかし細い骨なんだろうね」
教科書をひたすら書き写す作業から、ふと顔を上げて目に入った鮮やかな蝶が、いつになく綺麗に見えたのが理由だと思う。はばたきの一瞬が目に焼きついて、透けるような翅の芯まで見通したような気分になって、僕は言った。
ペンを動かしていた夜鷹の手は、一秒か二秒あって止まった。
「ないよ」
「え?」
「蝶に、骨はない」
僕がさぞかし驚いた顔をしたのだと思う。夜鷹はノートの一番最後のページを開いて、おもむろにペンを滑らせた。
「外骨格といって、体の外側が硬くなってる。人間のように、体内に骨はないんだ」
「あの、翅も」
「うん」
「体も?」
「うん」
「背骨なんかも、ないの」
「うん」
僕は自分の体の中で思いつく、一番大きな骨を挙げた。夜鷹は頷きながら、するすると模様を描いた。黒の濃淡だけで描かれた揚羽蝶が、ノートを舞う。
「硬いといっても、翅よりは硬い、ってくらいだけど」
「……」
「骨の役割を外側に備えているなんて聞くと、強そうに思えるけれどね。あんまり強く、掴んだらいけないよ」
黙々と、描き込まれる。夜鷹の絵はとても上手かった。あんまりにそれが上手いので、白昼に飛び立つ想像をしてしまった僕は、ノートの上で滑る夜鷹の手をぼんやりと見ていた。夜鷹の手は白い。肌の色とペンの漆黒と金が、すべて合わさって作り物のように映える。
突然、彼の手がページを捲った。
「樹?」
暗に、どうした、と問われて我に返る。夜鷹は元の英文が並ぶページを広げて、小さく首を傾けた。黒髪が首にさらさらと纏わりついている。夏だというのに、はっとするほど汗のない、皮膚と思えないほどに白い皮膚だった。
――外骨格といって。
脳裏に、夜鷹の言葉が甦る。頭がぼうっとして、ずきずきと痛んだ。どうした、樹。心配そうな夜鷹の声がする。抑揚に乏しい彼の声が珍しく焦っていて、僕はそれが少し、……
気がつけば、寮の青いカーテンがはためく部屋で寝かされていた。目を開けて起き上がろうとし、額から何かが落ちたことに気づく。ベッドの下まで落ちたそれは、手拭いだった。額が冷たく濡れている。僕は、倒れたのだ。
「気がついた?」
「え? ……わっ、寮長! すみません、まさかこれ、寮長が」
「ああ、気にしないで。いいから」
自分以外に人がいたことに気づかなくて、動転した僕をみて東雲寮長は笑った。元気になったみたいじゃないか、と言われて、頭痛がなくなっていることに気づく。
よく眠っていたからね、と寮長は手拭いを拾って、僕の部屋の水道で濯いだ。ポケットの鍵を勝手に使わせてもらったから、と詫びる彼に、こちらこそ迷惑をかけてと謝ってから、ふと気になって訊ねる。
「あの、寮長」
「ん?」
「僕、パーゴラで倒れたように思うんですが……ここへは、誰が?」
手拭いを絞って、寮長は「ああ」と笑った。
「君と勉強していたっていう、黒髪の一年生がおぶってきてくれたよ。青寮の子ではなかったね。名前を訊くのを忘れてしまったんだ。今度、おれの分もお礼を言っておいてくれるかな」
ああ、そうだったのか。僕は、はいと答えてカーテンの外を見やり、目蓋を半分ほど下ろした。あのとき、意識がうやむやに混濁していく中で、純白の、冷たい蝶に背負われていく夢をみた。
あれは、霞む視界で僕が見た、夜鷹の項だったのだ。夜を飛んでいると思ったのは彼の髪で、骨のない生き物だと聞いたばかりなのに、不思議と怖くはなかった。
「まだ少し休んだほうがいい。二時間と経っていないから、大丈夫だよ」
「はい」
「校医の先生の見立てでは、水分と塩分の不足だって。水は飲めるかい?」
冷たいコップに水を注いで、寮長は渡してくれる。僕はそれを、背骨を伝わせる想像と共に飲んだ。
窓の下を、蝶が一匹飛んでいく。瞬きをすると目の奥が、まだ少しじんじんと痛い気がした。パーゴラのテーブルに投げ出していた鞄が、口を開けたまま、ベッドの脇に置いてある。
黒の濃淡だけで描かれた揚羽蝶が、ノートの間に挟まれていた。
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