「巴先輩」
階下へ向かって均等に並んだ細い黒鉄の手摺は、葵の季節だというのに芯から冷えていた。追いかけてきた足音に、呼び止められて顔を上げる。黒縁の、見覚えのある眼鏡をかけた少年がそこにいた。タイの色から、青寮の生徒であることが分かる。
「お前は、確か」
「青寮の啓です。お引き留めしてすみませんが、うちの寮長を見ませんでしたか」
「東雲を?」
「今日は青寮の勉強会なんですが、寮長以外は集まっていて。あの人だけ、どこへ行ったか分からないので探しているんですが」
言葉にわずかな刺を感じて眉を寄せると、啓はふと口調を和らげて「ご存知ありませんか」と訊いた。西日が強く当たっている。階段を下るにつれ、影に等しかった彼の姿は色を取り戻す。
ああ、と脳裏に、この生徒に見覚えのある理由が思い出された。彼は以前も、東雲を探していると声をかけてきたことがあった。
「仕方ないな……」
「巴先輩?」
「俺が連れていく。お前は戻って、勉強会を先に始めているといい」
長い前髪と眼鏡のせいで眸の半分が隠されたこの後輩は、申し出ると、控えめながら迷う気配はなく礼を述べた。背中を向けて歩き出し、校舎を真っ直ぐ東へ抜ける。
他学年の、それも他寮の生徒で、関わりの少ない者に関しては、顔は分かっても名前はそこまで把握していない。赤寮の寮長である以上、自分が優先して把握すべきなのは赤寮の生徒のことであり、他寮のことは他寮の寮長が責任を持つと割りきっている。
だが、それでも啓のことを確かに記憶していたのは、以前にもまったく同じ状況でこの道を歩いたことがあるからだろう。
「――東雲」
校舎から回廊伝いに中庭を抜けると、学院の所有する礼拝堂に辿り着く。祭礼の際には百五十余名の生徒が一堂に会する礼拝堂だが、ドーム状に広がる建物の中はそれほど広さを感じさせず、むしろ小ぢんまりとした印象を与える造りだ。
等間隔に並んだ椅子の一点で、光を浴びて茶色く透ける頭がこちらを振り返った。
「巴」
またか、と喉元まで出かかった言葉を、飲み下させる気の抜けた声。手招きをしたところで動かないのは分かっているので、こちらが歩み寄る。東雲は待っていたように隣を開けて、やあと笑った。
「懺悔?」
「阿呆か。お前を探しにきた。分かっているだろう」
「おれを」
「……その顔は、まさか忘れているのか? 青寮の勉強会だそうだ。後輩が探し回っていたぞ」
「ああ、そうか。もうそんな日だっけ」
忘れてたなぁ、と笑う友人の顔を見るのは、これで二度目だ。定期勉強会の日付くらい、六年にもなれば体が覚えてくるだろう――というような理屈が、通用しない。
ははは、と笑って東雲はゆるやかに伸びをした。パイプオルガンの跳ね返す光が、彼の横顔に落ちる。
「行って、教えてやったらいいだろう。お前がいないで誰が勉強会をみるんだ」
「上級生は、他にもいるよ」
「白々と。その上級生にも、お前を待っている者はたくさんいるだろう」
「んー」
俺は、東雲が決してすぐには頷かないことを知っていた。知っていたが、それは寮長として褒められた態度ではなかった。すぐにではなくとも、程好い頃合いで頷くのが東雲だ。礼拝堂は昔から、彼の昼寝と少しの逃亡の箱である。
「誰が呼んでた?」
「啓という、眼鏡の」
「うん、やっぱりねえ。律儀な子だな」
ことんと、肩に頭を寄せられた。振り払ったが、二度は落とせなかった。
子供のように体温が高く、すぐに右肩だけが熱をうつされる。眠いんだな、と思う。同時に欠伸が聞こえた。
「あいつは、前にもお前を探しに、俺をあてにしてきたが」
「うん」
「……どこにいるのかくらい、本当は分かっているんじゃないのか。校舎と寮を探しておいて、礼拝堂を考えつかなかったとは思いにくい。何だったんだ」
東雲は昔から、すぐいなくなる。けれど彼の行き先は、さほど多くはない。
探そうと思って見つからなかったことはないし、人に頼らなくては探せないほど、あちらからこちらへ動き回る性分でもない。大抵はこの場所で眠そうにしている、日溜まりの猫のような者だ。
「分かっているのと、見つけられるのは別の能力なんだと思うよ」
「なんだそれは」
「巴は、確信なんかないけど、いつもおれを見つけるでしょ。あの子は、おれを見つけたくはないから、代わりに巴を見つけるんじゃないか」
気の長い、猫のように。この男の言わんとすることは、たまに焦点がぼかされていて分からない。
「何だか知らないが、つまり俺の仕事が増えているだろう、それは」
「はは、」
「笑う場合か。ほらそろそろ行け」
肘で押しやると、ようやくしょうがないなあと笑って立ち上がった。シャツの上にまだ外套を重ねている後ろ姿は、日差しに覆われると右肩の温度を思い起こさせる。
「あれ、巴も来る?」
「……連れていくと言った以上、寮生に引き渡すまでが俺の仕事だからな」
「うん、そうか」
「だから、笑う場合か。今のは嫌味だ」
朗らかに笑う、その足がなぜ、東雲をいつもここに運んでくるのか俺は知らない。暴こうとは思わない。暴きたいのはむしろ、それを飽きもせず拾い上げにきている、自分のほうで。
「東雲」
「うん?」
呼び止めれば、回廊を歩く足を止めずに彼は振り返った。
「明日は、赤寮の勉強会だが。お前はどうする」
「遊びにいっていい?」
「勉強に来い」
俺は多分、東雲が頷くことを知っていたのだと思う。
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