].帰還


 アーチ形の窓が並ぶ廊下はどこまでも穏やかで、魔界にしては明るい光が、白い石造りの床を照らしていた。空気が長い間、揺れることを忘れていたように密になってぬかるんでいて、前を歩くルクの長い髪の先がゆったりと動くたび、水中にいるような錯覚に陥りそうになる。
 温かい、春の湖底のような。遮る影の何もない城の最上階は、そんな不思議な優しい気配をもって私を迎え入れて、淡々と歩かせた。四階に、部屋は一つしかない。ドアもなく、長い廊下の正面に広間があるのがずっと見えている。
 窓の下には、石畳の道と一面の芝生が広がっていた。周囲を尖った木が囲んでいて、ガラス越しにも風の静かな日であるのが見て取れる。石畳の先は、黒い城門に繋がっていた。ジオラマのように小さな門番が二人、門の内側に立っているのがここからでも見える。
「どうした?」
 多分、外にはもう二人。あるいは四人。近くには巡回の兵士と、彼らをまとめる騎士が数人いるのだろう。見下ろしていると足が止まっていたらしく、私はルクに呼びかけられてぱっと顔を上げた。腕一本だった距離が、いつの間にかだいぶ離れている。
「ごめん」
「いや。いい景色だろう」
「……うん。ちょっと、気を取られちゃって」
「これだけ高いと、かなり遠くまで見渡せるからな。晴れた日のこの廊下は、城で一番眺めがいいんだ」
 窓ガラスに手のひらを当てて、ルクも隣に来て外を見下ろした。紫の濃淡が続く空の、淡い色の部分から射し込む日差しは、今日は比較的まぶしい。昼を前にした、世界が最も明るくなっていく時間帯だ。光の薄い魔界でもそれは同じようで、寮で荷物をまとめていた朝の空気とは、透明の中にある輝きの厚みが違う。
 城門の向こうに、少し離れて町があるのが見えた。地上とそれほど違わない、三角屋根の小奇麗な建物が並んでいる。城の近くはやはり、活気があるのだろうか。しきりに煙を出している煙突がある。何かの工房なのか、パン屋か何かなのか。
 どこまでも広がっている魔界の風景を、細い窓枠で連なるアーチ形の窓は、一続きの絵葉書のように途切れることなく見せてくれる。両手を窓についてしばらく眺めてから、私は瞬きをして、再び廊下を歩きだした。
「ゆっくり見ていってもいいんだぞ?」
「いいの。あんまり見ると、名残惜しくなっちゃうから」
 振り返ってそう笑うと、ルクも「そうか」と言って隣を歩き始めた。四ヶ月ぶりに着た自分の服は、メイド服に比べて丈が短くて、足元が落ち着かない。ショートブーツの踵は石の床を進むたび、こつこつと響くような音を立てた。下を見れば、エプロンではなくコートの裾が揺れている。
 私は今日、地上へ帰るのだ。
「忘れ物はないだろうな」
「うん、大丈夫。何度も確かめたし」
 四ヶ月前、上野からこの世界に来たときに持っていたバッグを掲げてみせる。私の荷物は、来たときと同じでこのバッグ一つだ。魔界ではずっと城の中で、服もメイド服ばかりを着て生活していたので、洋服や小物類といった荷物が増える機会もなかった。
 行きと違って増えたものは、目覚まし時計とポイントカード、それとネックレスだけである。目覚まし時計は城で働き始めたとき、ルクから用意してもらったものだ。この世界での日々を覚えていられるものがほしくて、持って帰りたいと言ったら快く了承してくれた。そして。
「タリファが、寂しがるだろうな」
「テティさんとか、シダさんじゃなくて?」
「彼女たちはもちろん、分かりやすく寂しがるだろう。引き留めてくれればよかったのに、と言われるのが目に見えるようだ。だが、あれで結構、タリファは君のことを可愛がっていたようだからな。彼女のことだから、多分、何も言わないだろうが」
「そうだね、タリファさんってあんまり色んなこと、あれこれ言わないし。……大事にしてもらってたな、っていうのは分かってる。私もタリファさん、好きだったから」
 鎖骨の間にある、細いチェーンに繋がった石の飾りを、洋服の上から握る。この魔界の空を小さくして、指先ほどの大きさに閉じ込めたような紫の石。城の皆からの、帰還祝いである。昨晩、パーティーの最後にタリファさんが代表してつけてくれた。
 昨日の昼下がり、掃除の仕事の最中に五千ポイントを達成した私のカードは、窓ふきをしていた私のポケットでピロリン、と音を立てた。前夜の時点で残り三十ポイントを切っていたので、そろそろだろうという予感はあったのだ。恐る恐る取り出して確かめた私を、メイド仲間の皆が一斉に囲んで、一緒にカードを覗き込んだ。彼女たちは口々に、おめでとう、お疲れさま、と祝福してくれた。そして今夜は皆で夕食を食べよう、と誰かが言い出し、私もそれに賛成して、約束をしたのだ。
 だが、待ち合わせの時間になって食堂に連れて行かれた私は、盛大な拍手とクラッカーの音で迎えられることになった。食堂にはおそらく城のほとんどの人が集まっていて、風船や花で色とりどりに飾られていたし、誰もが待っていましたと言わんばかりに私のほうを向いていた。混乱する私の肩を抱いて、シダさんが「せーの!」と叫び、ようやく状況を理解することができた。
 ――五千ポイント達成、おめでとう!
 その場にいた全員が、声を揃えてそう言ってくれたのだ。
 どうやら私の帰還が近いことを知り、数日前からメイドさんたちを中心に、皆で計画を立ててくれていたらしい。ゼンさんやタリファさん、ルクが座っている奥のテーブルに案内されながらその話を聞いて、城の人々の団結力に改めて驚かされた。


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