\.ブルーベリーブルー


「お疲れ様です、また明日」
 夜、皿洗いの仕事を終えて、挨拶をしながら厨房を出る。水に濡れて冷たくなった手を乾いたタオルで包んで拭き、弛んでいたエプロンの紐を蝶々に結び直した。
 とんとん、と肩を叩かれて振り返る。
「お疲れ様です」
「テティさん。お疲れ様」
 そこにいたのは、先ほどまで隣で洗い物をしていたテティさんだった。仕事が終わって、タリファさんに報告をしたり蛇口の周りを拭いたりしているうちに見えなくなっていたので、今日は先に帰ったのかと思っていた。どうやら彼女も、道具を片づけにいっていただけらしい。綺麗にたたんだハンカチで手を拭いて、エプロンについた水滴をはらう。
「今日の仕事もおしまいですね。寮へ戻るなら、一緒に帰りませんか?」
「え? ああ、えっと――」
 うん、と頷きかけて、私はこの後にも用事があったことを思い出し、慌てて首を横に振った。声をかけてもらえたことは嬉しいのだが、今日は先約がある。
 周りを見回して言葉を濁した私の様子に、テティさんは何かを察したようだった。ブルーの眸をかすかに見開いてから、思いきり細めて微笑む。
「気にしないでください、お約束は大切ですから」
「ごめんね? また明日」
「ふふ、お構いなく。夜も遅いですから、足元に気をつけて行ってらっしゃいませ」
「うん、ありがとう。テティさんもね」
 小声でそんな会話を交わしながら歩いた私たちは、おやすみなさい、と挨拶をして厨房からほど近い角で別れた。廊下の明かりがぽつぽつと消され始める。
 洗い物を終えたメイドたちが次々に厨房を出て、寮へ帰る足音と話し声を聞きながら、私は人気のない廊下を足早に歩いていった。花篭の絵がある曲がり角を目印に、影を伸ばしながら左へ折れる。背中に届いていた話し声が小さくなった。給湯室のプレートを下げた、白いドアが見えてくる。

 ワゴンは長い絨毯の上を、静かに進んでいった。銀のスプーンが時折、わずかな振動でかちゃりと鳴る以外、余計な音は一切響かない。三階は何度来ても、先ほどまでいた厨房が階下にあるとは思えないくらい、物音のしないところだった。
 階段を二つ上る間に、別の建物に来てしまったかのようだ。スプーンの上に溜まっては零れていく琥珀色の光に、覗き込んだ私の顔が逆さに映って揺れている。
「こんばんは」
 鎧に身を包んだ兵士が二人、盾を下ろして頭を下げた。私も会釈をして、彼らの間を通り抜ける。万華鏡のように広がる絨毯の模様の、ある一点でワゴンと足を止めた。小さく息を吸って、宙に向かって口を開く。
「タカクラマキ」
 星の紋章が浮かび上がって、青白く輝きを放った。声紋認証が無事に許可されたのだ。光の収縮が穏やかになるのを待って、その上を通り抜ける。
 突き当たりに佇むドアは、ノックするとすぐに返事があった。ノブを回すと、薄暗い廊下に光が零れ出す。ぱたぱたと足音が近づいてきて、内側からドアが引かれた。蝶番がキィと音を立てて、かすかに流れたインクの香りがワゴンの上のコーヒーの香りと混じり合う。
「マキ」
「こんばんは、入っていい?」
 顔を覗かせたルクは、もちろんと頷いてドアを広く開けた。廊下よりも柄の少ない、アイボリーとグリーンの絨毯の上へ、ワゴンを押して入る。背後でドアが閉められると、たちまち室内はコーヒーの香りに染まった。温かい、白い湯気が冷めてしまわないうちにテーブルへ運ぶ。
「今日は、思ったより早かったな」
「そう? 仕事が終わった時間は、いつもと変わらなかったんだけど……あ、コーヒー淹れるのに慣れたのかも。味のほうはどうか分かんないけどね」
 ピッチャーとシュガーポットを真ん中に並べて、給湯室の篭の中から持ってきたシナモンビスケットを二枚ずつ、カップの横に添える。ルクがテーブルの上の書類を、紐で閉じ直して脇へ片した。テーブルには今日も、きちんと手入れのされた花瓶が置いてある。白いユリが五本、外側を向いて咲いていた。
「いただきます」
 席に座ると、どちらからともなくそう言ってシュガーポットを開ける。私の座る場所は、最初にこの部屋へ来たときから変わらず、いつもルクの右斜め隣だ。理由は単に片づいているからだが、これが結構いい距離感で何となく落ち着いてしまっている。真向いよりも気が楽で、隣よりも話がしやすい。
 以前に一度、ポイントの話で呼び出されて以来、私は度々ルクの部屋へお邪魔するようになっていた。元はといえば、タリファさんがやっていた仕事を任されたからなのだ。皿洗いの終わる頃、厨房の見回りにやってくるタリファさんから、寮へ戻る前にルクの部屋へ飲み物を届けてくれないかと頼まれた。
 道順を覚えて間もなかった私は、特に難しく考えることもなくそれを請け負い、前回と同じように給湯室でコーヒーを作った。その際、失敗を恐れてタリファさんに習った通りの分量で淹れたせいで、二杯目ができてしまったのである。
 どうしようかと迷いながらも、こっそりとワゴンの端にのせて部屋の傍まで持っていってから、兵士さんたちの姿を見て声紋認証の存在を思い出した。だが、心配は無用だった。彼らから教えてもらった通り、声紋認証にはいつのまにか、私の声と名前が登録されていたのだ。私の声に反応して星の紋章が光ったときは、まるで自分が呪文を唱えて、魔法を使ったかのようで頬が緩んだ。


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