Z.冥夜祭


「冥夜祭?」
 その日、掃除の仕事で執務室を訪れた私は、片手にはたきを、片手に雑巾を持ったまま、耳慣れない言葉に首を傾げた。本棚の掃除を頼まれて、読めない背表紙をはたきで払っていたところだった。図書館の隅のほうに置いてあるような、布張りの重くて厚い本だということは分かる。それ以外はさっぱり分からない。
「年に一度、不定期にやってくる祭日のようなものだ」
「何、それ」
「空がとにかく真っ暗になる」
 思い出したように私を呼び止めて「近々、冥夜祭があるぞ」と言ったルクは、書類の判を乾かしながらそう答えた。これといった代わり映えもない、穏やかな午後だ。きっともうじきシダさんが、三時の紅茶を運んでくる。
「暗くなるって、これ以上?」
 窓からそんな、いつも通りの午後の空を見上げて私は訊いた。空は今日も、深い紫と薄い紫が入り混じった紫空で、所々にラベンダー色の雲らしきものが泳いでいる。だいぶ見慣れてきた景色だが、地上であったらどんな嵐の前触れかと思うような曇り空だ。お世辞にもこれを、明るいとは言えない。
「確かに魔界の空は暗いが、それでもいつもは光があるだろう? 昼間なら君が洗濯をしているように、外で何か作業をすることだってできるし、暗いといっても顔や足元が見えないわけじゃない」
「ああ……」
 そういえばそうだ、と私は頷いた。魔界の昼は暗いというより、正しく言うならば光が弱い。空を直視しても、眩しいと思うことがまず一度だってないのだ。だが、言われてみれば、それが原因で生活に不自由したことはなかった。光が弱くて目が利かない、という暗さではない。
「地上とは違うかもしれないが、魔界にもちゃんと昼と夜がある。冥夜祭は一年に一度、この昼がなくなって夜になってしまったように、光の全く届かない暗闇が丸一日続くんだ。朝から晩まで、新月の夜のように空は黒く、視界は利かなくなる」
 それって、結構な出来事ではないだろうか。
 思い出したように教えられたにしては、非日常が過ぎる。一日中続く夜なんて、経験したこともない。想像がつくような、つかないような、曖昧な感覚にううんと眉を顰めた。
 魔界の昼に太陽はないが、夜には月がある。夜の暗さは地上とそれほど変わらなかった。ただ、新月の夜ということは、そのわずかな月明かりさえもないほどの、まったくの闇、ということだ。中学で習った理科の知識を呼び戻して「新月」まではイメージしたが、地上は信号機や街灯が並んでいて、そういえば真っ暗闇というものを感じたことなどあまりない。
 ――停電、が一番近いのかな。
 なんだか風情のない想像だ、と自覚しながらも、意識したことのない新月よりは簡単に思い描くことができた。
「地上の人々よりは夜に強い我々の目ですが、冥夜祭の日ばかりは普通の生活が難しい。ならばいっそ、魔界全体に一千万の明かりを灯して、祭りにして楽しんでしまおう――という日ですね。不定期な上、直前にならないと兆候である月の翳りが現れないので、いつやってくるか分からないのが困った祭日ではありますが」
 門の見回りを交代して、執務室に顔を出していたゼンさんが教えてくれた。背伸びをした私に代わって、本を棚の一番上へ戻してくれる。
 自分の身長が特別低いと思ったことはなかったのだが、魔界にきてから度々、こういうことがあった。どうやら、魔族の人たちは老若男女を問わず、人間よりも若干背が高いようだ。メイドの中でも、目立つほど小さいとまではいかないが、並んでみると小さいほうに入る。あと三センチ、あと五センチ、皆が普通に使っている棚に手が届かないということがたまにある。特に、魔族の中でもかなりの長身とみられるゼンさんと私では、頭二つほどの差があった。
「城は毎年、自由参加の舞踏会を開いているんだ。内輪だから規模はそれほどでもないが、もてなさないとならない招待客もいない」
 ペン先をインクにつけて、ルクが言った。舞踏会。現実として初めて聞いた言葉に、驚いて瞬きをする。例えるなら絵画の林檎がそのまま、ぱっと目の前に飛び出してきたような、鮮やかで明るい驚きだった。いつからか読まなくなった絵本の記憶と共に、多分このまま非現実として、私から遠ざかっていくはずだった響き。
「祭りに出て行くのは危険だが、城内の催しなら君も楽しめるだろう。しばらくは準備で忙しくなるかもしれないが、よろしく頼む」
 不覚にも心奪われた自分がいて、気がついたら首を縦に振っていた。口角が無意識に上がっている。ゆるんだ顔を見られるのが恥ずかしくて、私は早口に分かったと答え、止まっていた本棚の掃除を再開した。

 翌日からの一週間は、本当に慌ただしく過ぎていった。城内が舞踏会の準備一色に染まり、メイドも兵士もいつもの仕事の時間帯を調整して、代わる代わる準備に参加した。
 私も洗濯の仕事としてテーブルクロスを洗ったり、皿洗いの仕事として予備の食器を出してきたりする傍ら、飾りつけやテーブルの運び込みなど、できることを探して手伝って回った。人手はいつ行っても、いくつあっても喜ばれる状態だったので、初めはパーティーの準備なんて何をしたらいいのか分からないと足手まといになることを危惧していた私も、気づけばすっかりその慌ただしさの一員となって動いていた。


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