Y.真価


 その日から、最初の頃よりも前向きな気持ちで働くことができるようになった。毎朝、目を覚まして真っ先にカーテンを開け、薄紫の空から差し込むわずかな太陽を浴びて、ベッドを降りる。顔を洗って歯を磨く間に、空気の入れ替えをする。メイド寮からは、窓を開けるとすぐそこに裏庭を見ることができた。中庭ほど整然としておらず、所々に草が伸びているが、大きな木が何本も並んでいて風が心地いい。
 着替えて外へ出ると、いつもシダさんと一緒に洗濯の仕事へ向かう。仕事の開始は八時半からだ。週に一度、メイド寮全体での朝礼があり、この日だけは集合が八時だった。最初に聞いたときは寝過ごしやしないかと緊張したが、相棒となってしまったあの目覚まし時計のおかげで、今のところ遅刻をしたことはない。
 洗濯、掃除、皿洗いと毎日同じ配属先へ出入りしているうち、顔見知りになったメイドさんたちともずいぶん打ち解けてきた。最近、仕事が前より楽しいのはそのおかげでもある。
 元々、気が塞いでさえいなければ、人と話すのは好きだったのだ。洗い立てのシーツの端と端を持って広げながら朝食の話をしたり、山のように積まれた食器に顔を合わせて「まったく」と言い合ったり。他愛無い言葉のやりとりが自然になることは、私にとって本来の私の姿を再確認できる、楽しい瞬間だった。そうしてみれば周囲は意外にあっさりと、私を「人間の新人」ではなく、「仕事仲間」として輪に入れてくれた。
 気づけば、この城で働き始めて、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。
 シダさんを含む洗濯仕事の数人と昼食を共にして、私は一人、次の仕事である掃除担当の集合場所へ向かいながら、それに気づいた。魔界の暦はひと月が三十六日から三十七日、一年間が十ヶ月という、地上とは微妙に違った作りでややこしい。どうも馴染みきれずに、私は自作のカレンダーで今までと同じ日付を数えている。地上はもうすぐ、バレンタインだ。あの上野公園で〈地獄の門〉に触れたときの、一月だったという事実が妙に懐かしく感じられる。
 魔界へ堕ちてきた当初は一ヶ月先のことなど想像もつかなかったが、過ごしてみると地上も魔界も、一ヶ月は一ヶ月だ。あっという間に過ぎたようであり、あるいは長く感じることもあったが、無為に過ごせばきっと長くて、何かを成し遂げるには短い。それは同じだった。
「千三百、か」
 ばたばたと日々を送るうち、入り組んだ廊下も難なく一人で歩けるようになった。もう城中で迷うこともないし、書類を届けにお使いだっていける。でも、まだまだ先は長そうだ。ポケットから取り出したカードを見て、私はつきかけた溜息をわざと短く吐き出し、うんと頷いた。
 妥当なポイント数だと思う。予定よりは少ないが、初めは慣れないこと続きであまりたくさん働けなかった上、元より家事の経験が浅いのだ。文句を言っても、嘆いても仕方ない。これが今の私の、精一杯の結果である。
(焦らない、焦らない。五分の一は超えたんだし、ちゃんと進んでる……)
 カードの左端に出た、千の位は見間違いではない。着実に、元の世界へ近づけているのだ。言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返して、私は大切にポイントカードを両手で持った。
「――わ……っ」
 瞬間、ふいに黒い影がその手元を覆って、頭上でそんな声が聞こえたと同時に、目の前が真っ暗になった。
 一瞬、ゲームオーバーが現実になったかと思ったが、ぼふんと顔から突っ込んだ先にあった感触は柔らかい。洋服だ。こめかみのあたりを、何かふわふわしたものが掠めてくすぐったく、跳ね返されそうになった背中を誰かの手が慌てて支えてくれた。
「すまない、思い切りぶつかったな……」
 聞き覚えのある声に、顔を上げる。灰色の髪の間から覗く紫の目が、申し訳なさそうにこちらを見下ろしていた。
「あ、ル……」
「ルク様!」
 ルクだったんだ、と。出かかった言葉は、唐突に飛んできた別の声にかき消されて、私は思わずびっくりして舌を噛みそうになってしまった。見れば、彼の後ろに鎧を着た兵士が控えている。
 供をつけているなんて珍しい。それともまたいつもの通り、たまたま顔を合わせて一緒に歩いているだけか。槍を持っていないところを見ると、護衛というわけではなさそうである。
 大丈夫ですかとルクに駆け寄ったその兵士は、彼と一言二言交わしたかと思うや否や、勢いよく私へ振り返って、鎧兜ごしにも伝わる鋭い視線を向けた。
「どこのメイドか知らないが、せめて先に頭を下げないか!」
「え?」
 突然の怒号に、頭が真っ白になってしまう。
「え、じゃない。主に正面からぶつかっておいて、何をぼさっと――」
「止せ、アル」
 畳みかけようとする声を遮ったルクの声は、アルと呼ばれたその人の半分の大きさにも満たなかったが、彼ははっとしたように口を閉ざした。怒られたことに驚いてしまい、固まっていた頭が緩やかに動き出す。
 カードが足元に落ちていた。私とルクのすぐ傍に、ちょうど廊下の曲がり角があった。
「私なら平気だ。少し当たったくらいで、そんなに大袈裟に騒いでくれるな」
「で、ですが……」
「これだけ大勢が生活しているのだ、たまにはそういうこともある。君だって、自分のことだったら別に怒らないだろう? 大したことじゃない」
「は、それは……」
「話し込んでいて、足音に気づかなかったのは私たちも同じだ。――マキ、すまなかったな。君もあまり、余所見をして歩いていると危ないぞ」
「あ、うん」


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