T.地獄の門


 日曜日の上野公園は、曇天だというのに想像以上の人出で賑わっていた。家族連れ、若い男女、そして自分たちと同じくらいの世代の学生グループ。
 高校生というのはどうして、制服を着ていなくても通じ合うものがあって、多分同級生くらいだということが眺めているだけで分かるのだろう。ミニスカートとショートパンツの短さを競い合うように、女の子が三人、後ろを男の子が二人。手を引っ張ったり声を上げて笑ったりしながら、入場口へ吸い込まれていくのを黙って見送った。
〈上野動物園・チケット売り場〉
 大きな文字でそう書かれた看板と、止め処なく流れる人の波を見て、携帯をバッグに滑り込ませる。腕時計の針は午後一時前。予定通りならちょうどもうすぐ、私もあの波に乗って、子供の頃にどこかで見た以来のパンダなど見物する列に紛れていたはずだった。
 携帯がディスプレイに友人の名前を光らせ、メールの着信を告げたのが五分ほど前。正直な文面に、何とも言えない気持ちになった。
『今、起きた』
 前々から所々、自分勝手なところのある友人ではあった。
 普段の私はメールの一通や二通で腹を立てたりしない。ごめんの一言と、暖かいところで待っていてくれるかという気遣いでも添えてくれれば、動物園に行けないくらいで拗ねたりはしなかったろう。ただ、一月の寒空の下、待たせるというのならせめて何分後に着くのかくらい教えてほしかった。
『じゃあ、今日は一人でいく』
 別に、パンダが見られなかったことに怒りを覚えているわけではないのだ。ただ、そういうことにしないと収まらない気持ちがあるのも事実で、私はそう返信してしばらくは携帯を見ないことにした。手は悴んで、あまりくどくどとメールで謝りを求めるのも面倒くさい。
 漠然と、ぶっきらぼうな虚しい気持ちが込み上げる。
 ごめんねと言われなかったことが悔しくて泣きそうなのだと、自分で分かった。五つ離れた兄がおり、家族の中で両親からも兄からも可愛がられてきた私は、自分がぞんざいに扱われたかもしれないと思うことにめっぽう弱かった。放置されることや気にかけてもらえないこと、実はあまり大切に思われていないのではないかと感じてしまうことに、他の出来事に比べて気丈でいられない。
 行き場のない悔しさは涙や怒りになるということも、私は充分知っていた。往来で泣くのは、もう恥ずかしい歳だ。まして動物園の前など、お父さんに手を引かれた子供に「あのお姉ちゃん泣いてるよ」などと声を張り上げて言われ、お母さんがそれ以上に大きな声で「指を差さないの」と叱るのが目に見えている。居もしない彼氏に振られたのでは、と、数名の名前も知らない人々に同情され、無遠慮な人が顔を覗き込む。そんなのはごめんだった。そして、一度は切り捨てた怒りを今さら友人へぶつけるのも、子供じみている気がした。
「どこ、行こうかなあ」
 パンダが見られないのは素直に残念だ、と思った。兄がパンダよりハシビロコウを熱烈に推していた。そんなの知らないよ、と笑って出てきた昼前には、今ごろとっくに楽しくはしゃいでいられるものだとばかり思っていたのだ。友人はもしかしたら、私の普段より愛想のないメールを見て、急いでやってきてくれるかもしれない。でも、動物園に入るにはもう遅い時間になるだろう。一人で行くとは連絡したが、本当に入ったら虚しさが増してしまう。
 萎れた気分を引き摺って帰って、家族に心配をかけるのも気恥ずかしい。動物園には行かなかったけれど、別によかった、同じくらい楽しかった、と言える何かを探しに、私は入場口に背中を向けて歩き出した。
 買い物か、お洒落なカフェか。あいにく上野の土地にはあまり詳しくないので、駅周りの雰囲気からしてありそうなものといったら、それくらいしか浮かばない。どちらも魅力的だが、動物園へ向かっていた心を塗り替えるにはやや弱く、今日はあまり気が乗らない。
 あそこで少し、考えよう。
 駅へ向かって人波の中を逆行していたとき、左手にふと人の少ない一角が見当たった。このまま上野公園を出たところで、まだ向かうあてが思いついていないのである。そこならゆっくり、人目を気にせず携帯で地図を見ることもできそうだった。石の階段を数段上って、植え込みのある広場に入る。
〈国立西洋美術館〉
 銀の看板に、そう文字が彫られていた。見れば正面に、立派な建物が置かれている。西洋ということは、ヨーロッパの絵を飾っているのだろうか。モナリザが頭の中に、ぼんやりと浮かんで消えた。
 見れば、この建物にも人が入っていく。動物園ほどではないが、それなりに多くの人がガラス戸の向こうに進んでいった。美術品への感心が高い人というのは本当にいるのだな、と妙な納得を覚えて頷く。もう少し歳を重ねれば、私もそういうものへの興味が湧いてくるのだろうか。今、身近にいる友人たちの間では、こういった話題は影の一つもない。
 警備員の一人が、立ち止まっている私に目を向けた。
 入り口が分からないのでは、と思われている可能性に気づき、慌てて反対へ歩き出す。バッグから携帯を取り出して、迷っている客ではない素振りを見せた。その拍子にディスプレイが目に入ったが、メールの受信はないようだった。ちくりと痛む胸に無視を決め込んで、上野の観光スポットでも検索しようと意気込む。
 しばしそうして俯いたまま歩いたとき、階段が目に飛び込んできて足を止めた。


- 1 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -