[.「ナハトのルクシオン」


 ルクの部屋は城の三階、ペルシャ風の絨毯を敷かれた北への廊下の突き当たりにあるという。城主の部屋というと、最上階の四階にあるのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
 階段近くの小さな部屋でワゴンを借りて、銀のお盆に載せてきたコーヒーを置く。絨毯はワゴンの滑りを少しだけ重くしたが、その分、車輪の回る音はすべて吸収されていった。
 三階は部屋がほとんどなく、人の気配も格段に少ない。とても静かなところだった。廊下の両側に灯された明かりが、壁を伝い伸び上がって、交差するように天井を照らしている。その一つ一つの隣には、細く黒い影があり、何十センチと置かずにまた光が現れる。薄い翅が重なるように、その光と影の模様はどこまでも繋がっていった。
「着きますよ」
 まるで鏡の中だとか、瓶の底だとか。人の足では行けない世界にいるみたいだ、と考えて、天井を見上げていた私はタリファさんの声に視線を下ろした。正面に、一際大きな柱が二本構えている。それぞれの根元に、銀の鎧に身を包んだ兵士が一人ずつ立っていた。
「タリス=ファリンデン=ロア」
 彼らと軽くお辞儀を交わして、タリファさんは足元の絨毯に手をかざし、自分の名前を口にする。途端、そこに六角形の星を模した紋章が浮かび上がり、青白く輝いた。驚きに息を呑む私の前で、光は徐々に収縮していき、細かな文字や図形の書き込まれた星の輪郭だけが青く残る。
「……魔法を組み込んだ声紋認証による、侵入者防止の結界です。今、解きましたので、私と共に入れば弾かれることはありません。こちらへ」
 タリファさんに招かれて、私はワゴンを押して、その光の星の上を通過した。弾かれることはおろか、静電気程度の衝撃もなかった。靴の下がふんわりと、青白く輝いている。両足が完全に通り越してからまじまじと振り返ると、こちらを見ていた兵士さんたちの、目元を覆う鎧から覗く唇が少し、弧を描いた。
 明かりの間隔が広くなった廊下を、突き当たりへ向かって進む。やがて目の前に、一枚のドアが浮かび上がってきた。タリファさんがゆるりと、足を止める。
「お帰りのときは、ルク様に通していただいてください」
「え?」
「私はまだ仕事がありますので、ここで」
 潜めた声でそう言って、タリファさんは私に一礼した。そしてそのまま、踵を返して今きた道を戻っていってしまう。
 明かりの黄色と影の黒を何度か交互に落とされた背中が、完全に暗がりに消えるまで、私は思わず立ち尽くしてそれを見送ってしまった。――なんだか、いらぬ気を遣われている気がしないでもない。
(いや、まさかね。タリファさんまで、そんな誤解をしてるわけじゃ……ない、よね)
 頭の中に浮かんだ可能性を振り払って、私は改めて目の前にあるドアを眺めた。木製の、ノブの根元にほんの少し、金の細工が施されただけの質素なドア。間違いなく、私がこの城で見てきた数々のドアの中で、群を抜いて飾り気がない。メイド寮のドアと同じくらい、と言いたいところだが、白のペンキで色が塗られている分、メイド寮のほうがまだ手を加えられている。
 まるで、元の世界で日常的に使っていたような。
 どこか懐かしささえ覚えるそのドアを、私はそっとノックした。こんこん、と指の骨に木の感触が伝わってくる。中から「はい」と返事があった。入っても構わないのだろうか。ノブを握って、躊躇いがちに向こうへ押し開ける。
「お邪魔します。……ルク?」
 一歩、足を踏み入れてすぐ。正面に見えた景色に、私は思わず目を奪われた。広々としているが華美なもののほとんどない、シンプルな部屋。その壁の中央に、大きな窓がある。黒のカーテンを両側に開いたガラスの向こう側に、黒く生い茂る木々の影と深紫の夜空を従えて、白金の満月が煌々と昇っていた。
「仕事終わりに、わざわざこちらまで呼び出してすまないな」
 手前から聞こえた声に、はっと我に返ってそちらを向く。部屋のほとんど中央、窓から少し離れたところに据えられた広いテーブルで、ルクは手にした書類の束をとんとんと揃えた。
「執務室はどうも、整然としすぎて落ち着かなくてな。つい、早々に引き揚げてしまうんだ」
「あ……」
「適当に座ってくれ。ああ、コーヒーを持ってきてくれたんだな」
 ローブを脱いで、白いシャツにリボンタイを着けただけの格好を見たのは久しぶりだ。日頃、背中に流れるままにされている長い髪を、今日は片側に寄せて結んでいる。
 顔にかかる影がいつもより少ないせいか、中性的で儚げな雰囲気が薄れて、年頃の青年らしいさっぱりとした気配が纏われていた。ただ、不思議なことに、どちらが「魔王」らしいかと言われると、いつものルクのほうが女性的であるのに王的だ。
 今の彼はなんというか、ごく普通の、どこにでもいる気さくな青年のようだった。近所に暮らすお兄ちゃんだとか、よく行く店の店員さんだとか。貴族的な雰囲気が一切なく、王様であることを忘れてしまいそうな身近さがある。
 私はふと、テティさんが以前に言っていた話を思い出した。ルクは魔界の田舎のほうにある普通の村の出身で、城にやってくるまでは、これといって何の肩書きもない人だったという話を。
「どこに座る? といっても、そこくらいしかないか」
「え? あ、ごめん。コーヒー」
「いや」
 ぼんやりしている間に、ワゴンからコーヒーを下ろさせてしまった。慌ててテーブルを見回し、近くの席を借りる。六人がけの四角いテーブルには花瓶と資料が積み上げられていて、一番片づいているのは先ほどまでルクが作業をしていたところだったので、次に片づいている右手の斜め前に腰を下ろした。
 ことん、と目の前にコーヒーが置かれる。いやこれは、と思って顔を上げると、ルクの手にももう一つのコーヒーカップがあった。


- 37 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -