X.メイドの生活


「あっ!」
 考え事をしながら手を動かしていたせいか、布巾の間をするりと滑って、皿が落ちてしまった。ガチャン、と嫌な音がして、足元に白い破片が散らばる。
(また……)
 思うようにすんなりと上手くいかないのは、ポイントカードについても同じだった。カードには確かに、働き始めてからどんどんポイントが貯まっている。しかし今のように、悪意はなくとも良くない行いをすると、善行と同じでその大きさによって判定がされ、ポイントが削られてしまうのだ。うっかりすると三つ貯まって二つ減るようなこともざらにあり、そのたび元の世界に帰れる日が遠のいているのかと思うと、自分の不甲斐なさに焦りが生まれて、結局またこうして手を滑らせるようなことも少なくない。
「大丈夫ですか」
「テティさん……、ごめんなさい、割っちゃった」
「予備はありますから、あまり気にしないでください。それよりも、指を」
「指? ……あ」
 言われて初めて、人差し指の先が切れていることに気づいた。とっさに拾い集めてしまった、大きな破片で切ったのかもしれない。
 傷は小さなものだったが、ハンカチで拭ってみても滲んだ血が止まる気配はない。テティさんが、ポケットから絆創膏を取り出して渡してくれた。礼を言って指に巻く間にも、彼女は手際よくちりとりと箒を出してきて、片づけを手伝ってくれる。
 洗い物の仕事でいつも隣に立っている彼女には、配属されてから世話をかけてばかりだ。皿を割ってしまったのはさすがに初めてだが、布巾を落として汚したり、空になったカゴを引っくり返して拭きたての食器に水を飛ばしたりと、ちょっとした失敗をいくつも重ねてしまっている。
「どうかされましたか」
「え?」
「溜息をつかれましたので。お皿のことなら、故意に割ったわけではないのですから、そんなに落ち込まれなくても良いのですよ」
 指摘されて、思わず口許へ手を当てた。溜息をこぼしていたなんて、無意識だった。
 テティさんは再び視線を下へ向けて、黙々と片づけを再開する。ごみ袋を開けて、粉々になった皿が中に流し入れられていくのを見つめながら、私は小さな声で正直に白状した。
「なかなか仕事が身につかなくて、迷惑かけて申し訳ないなーって思ってたのと」
「……」
「あと、これでまたポイント減っちゃったんだろうなあって。自分のせいなんだけど、やっぱ少し苛立っちゃって。手伝ってもらいながら、こんなこと言ってごめんなさい」
 はは、と力なく笑って、頭を下げる。今度は手を切らないように注意して、まだ足元に転がっていた欠片を一つ、袋に放り込んだ。
「……お辛いのですか?」
「え?」
「いえ、すみません。何でもありません」
 ぽつりと、テティさんに訊かれたことが聞こえなかったわけではない。ただ、不意をつくような質問に、私はすぐに答えることができなかったし、テティさんはテティさんで、失言だったと思ったのか素早くそれを取り下げた。
 沈黙に、箒とちりとりの擦れる音だけが連なる。
 辛いのかと訊かれると、自分がどう答えたいのか、なんだかよく分からなかった。どうしてこんなことになっているのかと、仕事をしていると唐突に思うことがある。家族は今ごろどうしているのか、自分がいない家はどうなっているのか、それは毎晩ベッドの中で考える。その度、寂しいと思う気持ちが胸を過ぎるのは自覚していた。
 その状態を、辛い、と呼ぶのだということは忘れていたのか、気づかずにやり過ごそうとしていたのか。
「どうなのかなあ」
「マキさん……」
「あ、ねえねえ。貴方たちには、ポイントカードってないの?」
 分からなくて、ぼんやりと口にした言葉は向かい合う影の間を漂い、まるでテティさんを責めたようになってしまって、私は慌てて別の話を出した。え、と呆気に取られたような顔になってから、テティさんは静かに首を横に振る。
「ありません。私たちにとっては、ここが故郷で、ここより他に帰る場所はありませんから」
「そっか、そうだよね」
「どうして、そんなことを訊かれるのです?」
「うーん、何ていうか、元の世界に帰るための労働でも普通の仕事でも、やってることは同じ善行でしょ。だったら、皆にもカードがあって、同じようにポイントが貯まってたり、私と同じで貯めると何か良いことがあったりするのかなって、ちょっと思っただけ」
「良いこと、ですか」
「例えば何か望みが叶うとか、有給いっぱいもらえるとかさ」
 残った破片がないことを確かめながら言った私に、テティさんはくすりと小さく笑った。
 頑張りが目に見えるというのは、上手くいかなければ今の私のように落ち込むこともあるかもしれないけれど、やる気に繋がることだってあるのではないかと思う。ああでも、そうなるとポイントの稼げる仕事に拘る人も出てくるから、一概にいいとは言えないのかもしれない。ご褒美に貪欲な人は、多分どこの世界にもいる。
 テティさんは、少し考えるように「そうですね」と言ってから、小声で答えた。
「残念ながら、私たちにはそういったシステムはありません。でも、もしあったなら、私は望みとして太陽を見てみたいです」
「それって、地上に行ってみたいってこと? 行ける方法とか、ないの?」
「まったく無くはありませんよ。ただ、魔界は昔から、常に太陽の光が薄いですから。私たち魔族は、地上へ出ると眩しさで失明してしまうのです。刑罰の一種として、私たちには地上ゆきというものもあるくらいですからね」


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