千年キネマY

「長らく文明の頂点に立っていた貴方がたを失った世界では、知恵のある生き物や力の強い肉食獣などが、我こそはとその座を狙って争うようになりました。やがて彼らが傷つくと、今度は体の大きな草食獣が好機を逃すまいとして、自分たちの理想郷を求めて彼らを滅ぼしにかかりました。
 争いは激化して、何十という世代に渡って生き物たちは戦い続け、必ずや頂点を手にするのだと信念を互いに揺るがしませんでした。結果、残ったのが私たちのような、争うすべを牙も爪も持たなくて、草葉の陰で震えながら進化を続けてきた生き物だけです。力あるものはみな絶えて、無力なものだけがそこに残った」
 脳内に、どこまでも続く荒れ果てた草原が浮かび上がった。草原は青々としている。生き物たちの争いで空気は乾ききって血の匂いがするのに、科学のない戦いで、緑は焼けることを知らないのだ。その草原の片隅に、一匹の蛙が跳ねている。
 一足、彼が踏み出した瞬間、怒涛のように時間が流れた。
「私たちの祖先は、大型動物に比べれば進化の速度が速かったのでしょう。三百年前――今この場所からは七百年後になりますが、それくらいの頃にはもう、今の私のように二本の足で立っておりました。荒れた地の上で、私たちの祖先が頼りにしていたものが、人間の残した文明です。頑丈な建物、肉食獣を通さないドア、生で食せないものに火を通す発明や、不思議な道具の数々。何もかもがなくなったという形で収束していく争いを背に、私たちはそこで、人間の文化を紐解く活動を始めました」
 草葉の陰から飛び出した蛙が、みるみるその背を伸ばして歩き出す。彼は腕を動かし、服を纏い、靴を履いて、僕の頭の中で僕のよく知る目の前の人の姿に変わって、迷いなく草むらを進んでいく。緑がかった褐色の膚を、太陽が照らした。その人はふと、何かを感じたように振り返って、帽子を被った。
「今、私たちの世界では、多くの生き物が協力し合って、貴方がたの残した文化を日夜研究しています。正しくは貴方より、もう少し先の人々が残したものですが、文字と言語をありのまま活用して、私たちは多種族との意思の疎通を可能にしました。崩れかかった建物を修復して、研究施設を造っています。人間の生活とはどういうものだったのか、滅びの道を辿らず貴方がたのように発展していくには、どうしたら良いのか。それを探るために」
 そして今、千年という長い時間を飛び越えて、帽子を脱いで僕と向き合っているベンさんを見つめる。研究。繰り返すように舌の上で確かめた僕に、彼は深く頷いた。
「私の家は代々、その研究施設の一つに資金を提供しているパトロンでした。主にコンピューターの研究と再生を試みている施設で、幼いころからその画面に囲まれて育った私は、人間が作り出す映像というものに強い興味があったのです。施設を見学していて耳にした、動く物語という言葉を元に、修復されたあらゆる書物の中から映画というものの存在を知りました。私はその映画を研究する者たちを集めて、そこにも資金の援助を続けました。――すると、あるときついに、廃墟と化していた建物の地下から、映画が記録されたディスクを発見することができたのです」
 ベンさんは動き始めたばかりのコンピューターでそれを観て、大いに感動したのだという。見つかった映画は一本ではなく、二十本近くあり、半数近くは雨風と時間の経過による傷みでどうしても観ることができなかったが、残りは再生することができた。
「私たちは、娯楽というものに到達しました。それまで何に使うのか分からなかった道具や書物の中に、楽しむことを目的として作られたものがあったのだという可能性に、やっと気がついたのです。
 私はパトロンを続ける傍ら、自分でも映画の研究に着手し、新たな映画を発見しては何十回と見直して調査を重ねました。中でも一つ、本当に好きな作品があり、私はそれを二百回は観たでしょうか。何度観ても素晴らしく、次にやってくる台詞の抑揚の一つ一つまで頭に入ってもなお、その映画を観ることは私にとって新鮮な喜びに満ち溢れていました。そうしているうち、次第にその魅力に囚われ、願うようになったのです。
 ――人間が映画を生産し、新しい映画というものが当たり前に増え続けていた時代に行ってみたい、と」
 年代も傾向も様々な映画を見続けていくうち、ベンさんの中に生まれたその願望は日増しに強くなっていった。時計の針がどんどん早まっていくように、遠い時代へ馳せる思いは速度を増していくばかりだった。朝も昼も夜も、その願いは揺るぐことがなかった。
「そんな折、私のもとにある情報が流れ込んできました」
 ベンさんはこつん、とアスファルトに傘をついて、微笑んだ。
「近くの研究施設が、タイムマシンの復旧に成功したかもしれない、という噂です」
「タイムマシン?」
「ええ。ここよりしばらく先の貴方がたが残した装置で、大きな卵型をしていて、発見された当初はボタンが錆びついて、内部の機械もだいぶ壊れていました。しかしどうやら、それを修復したようだというのです。私は彼らと内密に連絡を取り、噂が真実であることを知りました。
 そして、彼らの研究の最終段階に私を使ってほしいと、時間旅行の実験台に志願したのです」
 僕は大きく両目を見開いた。遠い時間からここへやってきたというベンさんの言葉が、過程を聞いたことによって、ようやくそのことの重大さを伴って理解できた瞬間だった。そう遠くない未来、人間が造ったタイムマシンを、遠い未来でベンさんたちのような人々が修復し、取り戻す。造られたものには何でも、それを最初に使う人が存在する。
 それが今、僕の目の前にいる彼だったのだ。
「成功したんですか。ベンさんが、ここにいるっていうことは」
「はい。それも一度ではありません」
「え?」
「通算二十九回。私は自分の時間とこちらの時間を往復し、貴方と会い、映画を観て無事に戻りました。前に、貴方は私がどこへ帰るのかと尋ねられましたね。答えは千年先です。私はこの鏡を利用して、向こうの世界のタイムマシンの内部にある鏡と繋がり、二つの世界を往復しながら、貴方とお会いしておりました」
 胸ポケットから取り出した手鏡を見せて、彼は言う。僕は恐る恐る、それを受け取って覗き込んだ。
 見た目には全く普通の鏡だが、じっと持っていると指の先にぱりぱりと静電気のようなものが流れてくる。あまり長く見ていると、向こう側へ行ってしまうかもしれませんよ。ベンさんは僕の手から鏡を取って、再びポケットにしまった。
「どういう仕組みなんですか」
「技術についてお話しすることは、未来を早めてしまう可能性がありますから、固く禁じられております。私も実験がすべて終わるまで、詳しくは教えていただけない約束で」
「すべて終わる?」
「はい。一定の安全が保証されるまで、三十回の時間旅行を行うこと。――これが、私が実験に参加させていただくにあたって取り決められた条件です」
 僕は思わず、え、と瞬きをした。胸の奥が急速にざわめいてくる。
 ベンさんはそんな僕の様子を察したように、穏やかな顔で笑って、そっと目を伏せた。
「タイムマシンはまだまだ、改良の途中にあります。今のままでは、行きたい時代によほど強く目標となるものがないと、どこの時間に不時着してもおかしくはない」
「そんな……」
「行く者のイメージする力が非常に強く求められるため、脳への負担が大きく、移動にはとてつもない疲労感を伴います。幸いにして、私はある映画に出てくるものを目標に定めていたため、イメージに困らず、三十回ともかなり正しい地点に降り立つことができました。……感謝しているのです」
「そうだったんですか。そんな大変な様子、全然見せなかったから何も知らなくて」
「そうですね、毎回それどころではなかったんですよ。命をかけても見たかった時間が、目の前にあるのです。疲れなど、この世界にいる間はまるで感じていませんでした」
 ベンさんはそう言って、晴れやかに顔を上げる。その顔は僕に、彼からの後悔のない別れを予感させるには充分だった。
「タイムマシンはこの先また、改良へ向けての研究期間に入るでしょう。しばらく、何年か、何十年か。利用できない時間が続きます」
「……はい」
「利用が再開されてからも、今度は安全性が確立されるまで、使うつもりはありません。……私は、映画を作りたいのです。元の時間に戻ったら、映画監督として仲間を集めて、私たちの世界にも映画を作りたい。この時間にやってきて、曖昧に抱いていたその夢に確信が持てました。生涯をかけて、映画を作ります。そのためにも、無茶をするのは今日が最後になるでしょう」
「はい」
「ありがとうございました。短い時間でしたが、私と友人になってくれて」
 中心から丸く綻ぶように、僕は自然と笑みを浮かべていた。友達だと思っていたのは、僕だけではなかったようで安心した。差し出された手を握り返してから、ふと気づいて手元を見る。
 僕たちは手袋を外して、もう一度しっかりと握手をした。
「僕も、貴方と過ごしたことを忘れないと思います」
「はい」
「だから、もしもまた何十年か経って、タイムマシンに乗ることがあったら会いにきてください。今日から先、どんな時間の僕も変わらず、貴方を覚えていますから」
 ほのかな冷たさを残して、緑の手は離れていく。温い夜の風が再び、僕たちの間を浚うように流れた。
 トランクと一緒に帽子を抱えたまま、ベンさんは深くお辞儀をする。遠く旅立つ人の匂いを、彼はその一仕草に連れていた。
「ありがとう。……さようなら、冬間ミチルさん」
「え……っ、あ! そうですよ、どうしてその名前を――」
「拍手を送っていますよ。例え、どんなに離れた時間にいても、ずっと」
 ベンさんは微笑んで、ポケットから手鏡を取り出す。青白い電気が目の前で弾けて、街灯よりも遥かに眩しく夜を照らした。
 辺りが音もなく、花火の中に放り込まれたように光る。
 再び目を開けたときには、最後まで彼の抱えていた帽子が一つ、足元に落ちているだけだった。

 連翹駅のホームを、快速列車がまっすぐに走り抜けていく。停まらない列車から降りる人はおらず、改札口を抜けたのは、先の各駅停車で降りてからホームでコーヒーを飲んでいた僕一人であった。掠れた声の蝉が鳴いている。アスファルトに照りつける日差しはまだまだ夏の顔をしているが、ひとたび木陰に入れば光は、篩にかけられたように細かくなって柔らかく降り注いだ。
 連翹町にきて三度目の秋が、もうすぐやってこようとしている。
 捨て損ねたコーヒーの缶を片手に、短い交差点を渡ってアパートを目指した。今日はアルバイトが休みの日だ。買い物がてら楠シネマへ行き、新しい映画を一本観てきた。なかなか好みだったのでパンフレットとグッズを一つ買ったが、ポップコーンはやはり、キネマ連翹座で作ったもののほうが香りも味も勝る。今度、昼の休憩に一つ、自分のために作って買おうか。バターの塩味が恋しい辺り、季節はまだわずかに夏の終わりである。
 緩やかな風にキャメルの帽子を押さえて、僕はアパートの前の道を渡った。連翹駅からアパートまでは、徒歩三分ほどと非常に近い。入り口に並んだ銀のポストの、106と番号が振られた扉を開ける。
 見慣れた公共料金の請求の封筒を取り出すと、その奥に一通、茶封筒が落ちているのが見えた。指を伸ばして取り出し、あれ、と瞬きをする。
「〈冬間ミチル様〉……」
 裏面に記された差出人は、先日オーディションを受けた事務所であった。かすかに重いその封筒を、僕はその場で開封する。
 止んでいた蝉の声が、またどこからか聞こえてきていた。今日は本当に、蒸し暑い日だ。長らく消えていたはずのもう一人の僕の声に、僕は高鳴る胸を抑えながらそうだねと返して、封筒に手を入れた。


〈千年キネマ/終〉

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