千年キネマX

「物悲しい映画なのは分かっていたのですが、つい観てしまうのですよね」
 白い電球の入ったランタンのドアを出てきてすぐ、チケット売り場に寄って、ベンさんがそう言った。〈霧の夢〉を彼が観たのは、確かこれで三回目だ。
「不思議に惹かれるものがありますよね」
「ええ。〈三年姉妹〉のほうが私の好みだと思っていたのですが、何度も観たくなるのは〈霧の夢〉なのです。面白かった、という表現は相応しくない物語でしょうが……」
「分かりますよ。僕も、なんて言ったらいいのか分からないまま、今でも上手く言い表せないので」
 僕は過去に一度、たまたまテレビで放映されていたのを見たことがあっただけだったが、この映画のことはそれなりに記憶に残っていた。時々、そういうものがある。映画でなくてもいい。本でも音楽でも、あるいは人物でも。たった一度しか出会っていないのに、その一度が鮮やかに印象に残って、覚えようとして覚えたものたちを軽々と飛び越えて記憶の最深部までいってしまう。そういうものだ。
〈霧の夢〉はまさしくそれで、一度観てしまうと忘れることができない。冒頭の町に流れる霧の蒼さから、最後の波音と共に老人の呼吸が止まる瞬間まで、すべてが一瞬の出来事だったかのように凝縮されて、思い出として残り続ける。
「羨ましい映画です」
「え?」
「ああ、いえ。素晴らしい映画ですよね、やっぱりって。思って」
 ほろりと漏れてしまった本音を慌てて覆い隠し、僕は笑った。そうですね、とベンさんが頷く。長かった夏が終わり、秋が訪れようとしていた。彼のネクタイを飾っている琥珀色のピンを眺めながら、パンフレットを片づけていた手を止め、僕は訊ねた。
「それにしても、よかったんですか?」
「何がです?」
「〈霧の夢〉で。てっきり、こっちの〈クロス・ライフ〉をご覧になるかと思っていました」
 ベンさんがああ、と微笑む。九月に入って、〈鷹〉の上映が終わったキネマ連翹座では、また新しい映画を始めたところだった。八月の終わりから九月にかけては雨が少なかったせいで、ベンさんがここへ来たのは十日ぶりくらいのことだ。
 最新作を観ていくかと思った彼は、白の部屋で上映されているのが〈霧の夢〉だと聞くなり、迷わずそちらを選んだ。同じものしかなければそれを観るが、観たことのないものがあればそちらを好む人だと思っていたので、僕には少々意外だった。
「今日は見知らぬものより、見知ったものを大切に見ておきたい気持ちでしたので」
「そうなんですか」
「はい。ですから今日のプログラムが〈霧の夢〉で、本当によかった。あれを上映してくださって、どうもありがとう」
「お礼なんて」
 大げさだなあ、と思ったが、悪い気持ちではなかった。普段、映画の感想を言っていく人はたまにいるが、僕自身に何かを言おうとする人というのは少ない。せいぜい、ポップコーンを作っている間に話しかけられるくらいだ。どういたしまして、と素直に返事をすれば、ベンさんは残り半分ほどになった水をトランクにしまいながら続けた。
「ええ、本当に。どうもありがとうございます。あの、今夜のことなのですが」
「ああ、はい。僕は空いていますが」
「では、少し出かけませんか。映画館ではなく、レストランにでも」
「レストラン?」
 僕は思わず、顔を上げて聞き返した。ベンさんは「はい」と頷く。
「行ってみたい店があるのですが、一人では少々怪しまれないかどうか、不安でして。よろしければ、お付き合いいただけないかと」
「ああ、なるほど。全然構いませんよ。……あ、でも」
「はい?」
「僕、見ての通りの身ですので。服装としても懐としても、あまりいい店には行けないんですが」
 軽く答えてしまってから、ふと財布の中身を思い出してつけ加える。ベンさんのほうがどれくらいのレストランを想定しているかは知らなかったが、彼は僕の見る限り、だいぶ良い身なりをしていた。店によっては、ベンさんは断られなくても、僕は入れてもらえない可能性もある。映画館の制服の下は、ただのTシャツだった。
「ご心配なく。それほど敷居の高いところへ行くつもりではありません」
「それなら、ぜひ」
「はい。何せ私も、帽子を脱ぐわけにいきませんからね。コート、ストール、帽子、と丁寧に持っていかれてしまっては、多分、食事どころではなくなってしまいますので」
 それもそうだった。僕は苦笑まじりに言ったベンさんに、同意して笑った。丁重すぎる店に行けないのは、僕だけではなかった。
「いいんですか、映画でなくて」
「ええ、今日はもう」
「じゃあ、また六時に上がりますので、裏口で待っていてください」
 パンフレットの束を揃えてカウンターの下に入れ、グッズを並べているガラスケースを拭くためのはたきを探す。あった、と掴んだとき、ちょうどドアが開いて一組の客がやってきた。
 僕たちは手早く待ち合わせの約束をして、それでは後で、と別れた。二人組の女性が話しながら歩いてくる。彼は入れ違うように、雨の降る外へ出ていった。

 ベンさんが僕を連れていったレストランは、連翹駅から十分ほど歩いたところにある創作料理の店だった。連翹町に引っ越してきて二年になるが、今まで来たことのなかった店だ。創作といってもそこまで奇をてらった品書きではなく、和食とイタリアンを融合させたような、柚子やかぼすの香りをふんだんに使った料理が自慢のようだった。白木の内装に、ガラスの小鉢と和紙を張った照明が溶け合う。
 僕は柚子と山椒の効いたペンネサラダと、サーモンの包み焼きを頼み、付け合せに小ぶりのガーリックトーストを選んだ。ベンさんは檸檬醤油で食べる刺身の盛り合わせと、比較的シンプルなサラダを二種類選んだ。炭水化物や肉は食べられないようだった。注文を取りにきた店員さんには僕がまとめてオーダーを言ったので、男のわりにサラダの好きな人たち、程度にしか思われなかったと思う。
「良い店でしたね」
 すっかり暗くなった歩道を歩きながら、ベンさんが満足そうに言った。九月といってもまだ上旬だ。雨が上がってしまうと、夜は涼しさより蒸し暑さのほうが勝る。
「また行きましょう。そのうち、僕がご馳走できるようになりますから」
「ははは」
「笑うことじゃありませんよ。そりゃあ今はですね、まだちょっと厳しいですけど」
 いずれは、と言って、閉じた傘を片手にぶら下げて歩く。夕飯は結局、ベンさんにご馳走になる形になってしまった。創作料理の店は確かに、僕にも支払えない金額ではなかったが、出していたら少なくとも三日は豆腐とおにぎりだけの生活を課していただろう。一介のアルバイトには、少々贅沢な夕食となった。ベンさんは初めから、そのつもりだったらしい。
「いいんですよ。たまには、降って湧いた喜びもなくては」
 独り言のように、ベンさんは正面を向いたまま言う。一本一本の間にたっぷりとした暗闇を持って並ぶ街灯が、また一本、電信柱に寄り添って白い光を放っている。
「あ」
「はい?」
「……メイリル」
 その上を見上げて、僕は呟いた。雨雲は去ったのだろうか。微かだが、ベガが輝いている。振り返れば、帽子を浅く被ったベンさんは呆気に取られたように僕を見ていた。笑ってみせると、トランクを抱えて我に返ったように笑い返す。
「そうです」
「間違いじゃなかったんですね」
「ええ。あれはメイリル。……私たちは、そう呼んでいます」
 僕たちはどちらからともなく、足を止めた。
「それは、種族の言葉ですか」
「いいえ。これは時間の言葉」
「時間の?」
「はい。貴方がたがあの星を、ベガと呼んでいるように。私たちの時間では、あの星はメイリルと呼ばれているのです」
 空に浮かぶ一つの星を通して、僕は彼に、その星以上のことを訊ねようとしていた。彼は僕に、おそらくは同じことを教えようとしてくれていた。
 ベンさんは帽子を被り直して、湿り気の残るアスファルトに視線を落とす。レストランにいたときからずっと、彼が何かを噛み締めるように、伝えるべきことを伝えるときを見計らうように穏やかにしているのを、僕は分かっていた。連翹駅に着いたら、僕たちは別れてしまう。
 だからメイリル、その前に。君の名前から、この話を始めさせてくれないかと、星に願った。
「貴方は、時間旅行というものを聞いて、どう思われますか」
「時間……旅行?」
「私たちの間にある最も大きな違いは、姿かたちでも、生き物としての種族でもありません」
「はい」
「本来、生きている時間が違うのです。私はここより遥か遠い未来――千年の先から、この世界へやってきた生き物です」
 街灯の下で向かい合い、真剣な顔をしてベンさんは言った。
 目に映る景色がすべて、形を持たない色の塊に変わってしまいそうなほど、僕は驚きに染まった目でベンさんを見つめる。周囲に音は何もなく、暗闇と明かりだけが静かに連なっていた。
 温い風が頬を撫でる。にわかに水の匂いを運んでくる。
 ベンさんはその風のやってきたほうを見て、落ち着いた声で続けた。
「信じていただけないかもしれませんが、私の姿こそがその証拠です」
「ベンさんの……」
「この時代に、私のような者が他におりますでしょうか。貴方がたと同じくらいの背格好を持ち、言葉を知り、二足で歩行する貴方がた以外の生き物が」
 自分の胸に片手を当て、促すように彼は言った。僕はゆっくり、首を横に振った。彼のような存在を、見たこともなければ聞いたこともない。
 現に、目の前にいるベンさん一人を除いては。
「ご存じないはずです。なぜなら、私たちの祖先が前足を水から離し、このように立ち上がったのが三百年ほど前のこと。この世界から見れば、七百年先の未来の話となるのです。かつて、私たちは今のように、言葉を交わすこともできない小さな生き物だったとか。貴方がたが知る我々とは、そういうものではないでしょうか?」
 僕は黙ったまま、今度は首を縦に振った。
 蛙は本来、水辺に棲み、両手足をぺたりと地面につけて跳ね回る。指の先ほどしかないものが多く、この辺りでは大きいといっても手のひらに収まるサイズがほとんどで、人間と同等の大きさを持つことなどまずありえない。
 そういう認識以外を持ったことなどなかったから、僕は初めてベンさんを見たとき、声も上げられないほど驚いたのだ。
「生物は皆、進化の途中にあります」
 僕と自分の間にある透明な空気を見つめるように、ベンさんは言った。
「しかし、終わりのないものはありません。ここより四百年先の未来で、貴方がたは一度、絶えることになる」
「それは、どうして」
「行き過ぎた進化によって、遺伝子が複雑化して細胞がエラーを起こし、自然な自我を保つことが難しくなって。細く縒りすぎた糸が切れるように、私の知る未来では、人間は滅びを迎えます。脳や体に機械を取り込みすぎたことによって、子孫を残すという本能を失っていったと伝えられております」
 不思議なことに、背中を這い上がるような恐怖はなかった。ただ、ああ、そうなのかと思った。突き詰めすぎたものは、やがて細く薄く尖りすぎて弱くなっていく。彼の例えは分かりやすいものであったし、人間の滅びる理由が本能を失ったからというのも、人間らしい理由だと僕は思った。
 四百年という未来は、滅亡にはあまりに早く、科学が人間を食うには長かった時間なのではないだろうか。僕たちという生き物がいなくなると思えば悲しく、僕たちがこのままのスピードで、進化を続けていったと思えば恐ろしい。
 滅亡だってするだろう、と本能はそれを納得する。寂しがっているのは僕の、今はまだ人類が科学に食われていない時代を生きる僕の、感情の部分だけだ。
「貴方がたは、この地球上でまだ他の生き物たちが辿り着いたことのない、進化の最先端を切り拓いていった生き物だった」
 遠く、僕たちが博物館の石や巨大な骨を見るのと同じ、憧憬と哀れみと懐かしさと崇拝を込めた目をして、ベンさんは僕を見た。それは僕個人というより、人間という生き物全体に向けられた眼差しだったように思う。
 今、彼は朽ちていったものを見ているのだと、その胸の中にある様々な感情が僕にも伝わってくる気がした。ベンさんはしばらく黙ってから、そっと口を開いた。

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