千年キネマW

 ベンさんは訊ねてから視線を逸らした僕に、察したように笑って、帽子を深く被り直した。
「そうですねえ。どこだと思われますか」
「えっ」
「何でも構いません。何か一つ、予想をしてみてください」
 思いがけない返事に、言葉に詰まってしまう。女性に「何歳に見える?」と訊ねられてしまったときと同じ、何とも言えない緊張が腹の奥に座った。
 ええと、と口を開いてから、ちらとベンさんを見てみる。彼はどこか楽しそうに、僕が何かしら答えるのを期待しているようであった。
「……か」
「か?」
「川、とか。すみません、失礼かもとは思ったんですけど、それくらいしか」
 浮かばなくて、と語尾が徐々に小さくなっていってしまう。ベンさんは一息あってから、ストールの巻かれた肩を揺らして笑った。
「そうですね。謝らなくても、私でもきっとそう答えます」
「すみません……」
「でも、残念ながら。川はとても好きですが、そこで暮らしてはおりません」
 蛙、という姿がどうしても頭にあって、水の中に住んでいる想像しかつけられなかった。よく考えてみれば、服が濡れていないのだから、そんなことはありえないだろうに。
 自分の思考の硬さに呆れて唸った僕に、ベンさんは頷いて、穏やかな声で言った。
「いつか、きちんとお教えしますよ。そう遠い、いつかではありません」
「本当ですか?」
「ええ。多分、本当にもうすぐ」
 はぐらかされているだけにも思える言葉だったが、僕は彼に嘘を感じなかった。快速列車が連翹駅を通過していく。カンカンと鳴る踏切の、上がっていく遮断機の先に月があった。オムレットのような、半月よりも大きくて、満月よりは欠けた月である。
「それならいいです。雨も上がってしまったので、少し心配で。気をつけて帰ってください」
「はい、ありがとうございます。そちらも、お気をつけて」
 閉じた傘をそれぞれに持って、僕たちは軽くお辞儀をして別れた。線路に沿った道を歩きながら、街灯の下で一度だけ振り返る。
 ベンさんは、空を眺めながらゆっくりと歩いていた。

 僕たちはそれからというもの、映画友達になった。
 世間一般に思い浮かべる、友達、という言葉が、僕とベンさんの間に正しいかどうかは微妙なところだ。僕たちは互いに敬語を崩さなかったし、一定の距離があるし、知らないこともたくさんある。
 けれど、それでも僕たちは有り様を変えつつあった。ベンさんは夕方近くにキネマ連翹座へ来るようになり、そこで映画を一つ観て、僕のアルバイトが終わるのを待つ。僕は雨の日になると、彼が来るものだと思って待っている。僕たちは変わらぬチケットと水の販売のやり取りをして、わずか二時間くらい後に、裏口で待ち合わせをした。
 そうして、電車で十五分か二十分以内で行ける範囲の、小さな映画館で色々な映画を観て回った。流行りの恋愛映画から、夏らしいサスペンス、子供向けのアニメ映画も観たし、時には壮大なファンタジーの世界に胸を躍らせた。
「どうぞ」
「ああ、すみません」
 ごとん、と自動販売機の取り出し口に落ちた水を、ベンさんに手渡す。連翹駅のホームにある自動販売機を、かなり久しぶりに使った。
 ベンさんは自動販売機の使い方に興味を持っていたようだったので、彼には僕の缶コーヒーを買うボタンを押してもらった。晩夏の夜は蒸し暑く、列車の中は冷房が効きすぎて、外に出れば喉が渇き、中に入れば膚が乾く。九十分に及ぶ映画を二つ隣の駅で観てきて、連翹駅に戻った僕たちは、それぞれに手と喉を潤した。水分はどんな生き物をも生き返らせる。どちらかと言えば寒がりな僕は、夏でも温かい缶コーヒーが好きだった。
 列車が去ったばかりのホームの静けさの中を、ベンさんのストールがぬるい風に煽られて舞っている。夜に溶けていこうとする花紺を、モカの生地が緩やかに絡んで引き留める。とうに午後九時半を回った連翹駅はいつにも増して静かで、薄い布地のはためく音さえ、喉を通るコーヒーの合間に聞き取れるほどだ。
 三日前に落ちたオーディションのことが、ふと頭を掠めていった。キネマ連翹座で働き始めてから、しばらく受けていなかった俳優のオーディションである。
 結果は別に、ブランクがあって上手くいかなかったというわけでもなく、いつも通りの実力で僕は落選した。一次選考である。大多数が篩にかけられる最初の選考で、こうも呆気なく散っていくことは、いっそ潔いほどに僕がその大多数の一人でしかなかったという証だ。何がいけなかったのだろうと、落ち込む結末ですらない。ただ平凡で、目に留まるものが何もなかったというだけの、そんな証明である。
 無、ほど切ないものが、他にあるだろうか。
 線路をぼうっと見下ろしながら、僕は考えた。今日の映画は、お世辞にも洗練されているとは言えないものだった。ストーリーや描写、台詞回しは味があったと思うのだが、主役の演じ方がいまいち美しくなかったのだ。
 架空の世界がモデルになったストーリーだったせいだろうか。まだ若い主演の俳優の演技に、時々、彼自身の照れや疑問が見え隠れしていて、終始主人公の表情が安定しなかった。笑ったかと思えば目が戸惑っており、怒ったかと思えばその表情が緩んでしまうのを堪えている。大切な台詞は妙に軽く、そうかと思えば、何ともいえず寒い間のため方をしているときもあった。
 でも、である。それでも彼には、一際大きな華があった。
 スクリーンの中で彼が動くとき、未熟な口調や神経の届ききっていない手足とは裏腹に、画面に広がる景色のすべては彼のものだった。草木の一本、水の煌めきの一点までもが、彼の醸し出す特有の空気の中にあり、他の演者たちの作り出す空気すらそれに寄り添って味方をしていた。圧倒的な存在感。それが彼にはあった。
 空になったコーヒーの缶を、ごみ箱に放り込む。底まで空っぽだったのか、思いがけず大きな音が立った。ごちそうさま。残響をごまかすように、わざと声に出して言う。僕の作ってしまった空気の振動が、いつまでもそこに残っている気がした。
「行きましょう」
 ペットボトルの蓋を閉めたベンさんを呼んで、改札を出る。彼はこのところ、切符の扱い方にも慣れてきた。明かりの消えた商店街が見える。連翹駅の周辺は、どこも夜が早い。
「ああ、星が出ていますね」
 屋根の下を抜けて、ベンさんが言った。
「メイリルでしょうか。いや、リピック……」
「なんですか、それ」
「あの星の名前です。何でしたか、急に忘れてしまって」
 ベンさんが指差した星を見て、僕は思わず、その指の先を二度追ってしまった。中天近くにある、今日の天気にも消しきれない明るい三角形の、そのまた一番明るく輝く、青白い星。
「ベガじゃないんですか」
「ベガ? ……ああ、そうでした。ベガ。そうですね」
 あまり詳しく知っているわけではなかったが、夏の大三角形で最も強く輝く星の名前は、何となく憶えがあった。たぶん昔、学校で習ったか、そんな台詞のあるドラマでもやったのだ。反対に僕は、ベンさんの口にしたメイリルやリピックという名前は知らない。
 僕にはそれが有名でない星の名前なのか、ベンさんの知る呼び方なのか、あるいはただ名前が出てこなかっただけの適当な言い方だったのか、どれとも分からなかった。
「明日もお早いのでしょう。お付き合いくださって、ありがとうございました」
「あ、いえ。こちらこそ」
「おやすみなさい。私ももう帰ることに致します」
 トランクを片手に、霧雨の下に傘を広げて、ベンさんは頭を下げる。僕も傘を広げたので、星座はすぐに見えなくなった。
「おやすみなさい――冬間ミチルさん」
「……えっ?」
 帽子を外して、ベンさんは微笑んだ。一瞬、はい、と答えかけてから、その顔を振り返る。
 今、彼は僕をなんと呼んだか。
「どうして、その名前を」
 掠れるように訊ねた僕に、彼は相変わらず、微笑んだだけだった。僕はベンさんに、過去、子役だったことなど話したことはない。知っていたのだろうか。しかし当時と今とでは、容姿もだいぶ変わっている。彼が例え、昔の僕を知っていたとして、簡単に気がつけるとは思えなかった。
「いつか、分かりますよ」
 困惑する僕に、ベンさんはそう言って頷いた。なんだか前にも、聞いた覚えのある台詞だ。
「そのいつかは、遠いんですか」
 デジャヴのような感覚に囚われながら、僕は訊ねた。ベンさんは少し、考えるそぶりを見せた。傘をくるりと一回転させて、帽子を被って僕を見る。
「私の故郷を貴方が知るよりは遠く、私と貴方の出会う距離よりは、遥かに近い。そういう時間にあるでしょう」
「どういう意味ですか」
「そのままです。このいつかは、これら二つの出来事の間にあります」
 謎かけのように、意味が分からなかった。あまりにはっきりとした答えがもらえないので、僕には一瞬、彼が出会ったばかりの頃の、得体のしれない「蛙の紳士」に戻ったように思えたくらいだ。だが、それにしても。
「僕らは、もう出会っているのではないですか?」
 現にこうして、目の前にいるのだから、僕たちは出会っているのではないだろうか。真正面から訊ねると、ベンさんは深く頷いた。
「そうですね、幸福なことに」
 踏切がカンカンと音を鳴らし始める。あんなに先だと思っていた次の列車が来る時間が、いつの間にか迫ってきていたのだ。通り過ぎる列車の音を聞きながら、僕とベンさんはそこで別れることにした。彼はそれ以上のことを、今、僕に教えてくれる気はないようだった。

 ある人は夜ごと、夢を見ている。もう数十年前に、自分が置き去った町の夢を。正確にはそこに残してきた人の夢を見ている。つばの広い帽子の似合う、口笛の上手な若い女性の夢を。
 その女性は、ある人の恋人だった。彼女は身分の高い家の娘で、そのことをずっと隠していた。彼女は聡明で、自分の家柄がどれほど価値のあるものか、よく分かっていたからだ。本当のことを打ち明けるのは、何も持たない自分でも結婚しようと謂ってくれた人にだけ。そう決めていた。
 ある人の夢はいつも、彼女を探して無人の町をさまようところから始まる。町は夜明け前の霧に満ちて、足元さえも霞む視界の悪さである。ある人はそこでいつも、前にもこの道を通った気がするぞ、と思う。彼は毎夜、そこを夢で歩いているのだ。
 しかし、夢の中ではどうにもそれがいつのことだったか、必ず思い出せない。ある人はそんなことより、彼女を探さなくては、と歩き続ける。気がつくと手に花束を持っている。自分はこれから、彼女に結婚を申し込みにいくのだと、強く自覚する。
 ある人はどんどん歩いていく。やがて町が拓け、海が見えてくる。ある人は迷わずその海を右に見て、港へ向かって歩いた。港の傍の、波の音が聞こえる貝殻の中のように小さな喫茶店。そこが彼と、彼の恋人の待ち合わせの定番だった。
 ドアを開けると、店主がわずかに頭を下げる。ある人を手振りだけで、窓辺の席に案内する。
 つばの広い帽子が、足音に振り返る。紅を引いた唇が、彼の名を形作って開いた。顔の片側に落ちる帽子の影は、彼女がそれを脱いだことで波が引くように晴れる。薔薇色の頬と、くっきりとした睫毛に縁取られた眸が現れる。
 ある人はその目に向けて、大輪の薔薇の花束を差し出した。

 そして、彼の夢が覚める。
〈霧の夢〉はそんな冒頭の情景から始まる、盲いてゆく老人の目が見始める幻と、それが次第に侵食していく彼の現実の物語だった。景色を失った目の奥で、彼は五十年以上も前に自分が愛し、打ち明けられた事実の重さに耐えかねて逃げ出した、古い恋人の微笑みを描き続ける。医師や家族の説得に反して、彼は治療を拒み、両目が完全に見えなくなることを望む。現実の面積が少なくなるほど、彼の目の中は、遠い昔の思い出に埋もれていく。
 朝起きてから眠るまで、食事のときも風呂のときも、彼はだんだんとその思い出のことばかり思うようになっていき、日がな一日、椅子に座って夢と日常の間をさまよい始める。痴呆の症状が出ていると医師が言う。やがて、彼の目は完全に見えなくなる。
 光をなくした世界の中では、思い描くものがすべて、一層の真実味を持った。ある人はそうして、数十年前の霧の中を駆け続ける。妻が呼ぶのにも、子供たちが呼ぶのにも気づかずに。病院のベッドに横たわって、点滴を通され、開いた目でもう映らない天井を見つめながら。
 彼は波の音を聞いて、そうだ、彼女を探しにいかなくてはと花束を掴んだ。あれほど絶えず響いていた波の音が、ぱたりと止まる。凪いだ海の輝きに、彼はピーっという口笛を聞いて笑みを浮かべた。
 光に灼かれてしまう前に。
 彼はふと、そう呟いた自分の思考の意味が分からなくなって首を傾げる。振り向けば霧の向こうに、何かを置き去ってきた気がしたが、もうそれが何であるのかは思い出すことができないのだった。

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