千年キネマV

 蛙の紳士が次にキネマ連翹座を訪れたのは、それからちょうど十日後の雨の日のことだった。本降りというには軽い雨と、雨どいを鳴らす程度の強い雨とが交互に降り続ける。
 降らない時間帯は本当に降らなかったので、僕はこんな中途半端な雨の日は、紳士は来ないかもしれないなと思っていた。だが、その予想がそろそろ当たりに近づき始めた午後五時。
 キィ、とドアを開けて、彼はやってきた。
「こんにちは」
「……いらっしゃいませ」
 決まりの悪い気持ちで、挨拶をする。紳士はそんな僕の様子に気がついたようだった。いつもより手早くトランクを拭いてから、チケット売り場まできてそれとなく首を傾げる。
「どうか、されましたか。もしかして、今日は私が観に来ていると、都合の悪い事情がございますか」
「いえ、そういうことではなくて」
 蛙の紳士の控えめな問いかけに、僕は首を横に振った。団体客がいるだとか、彼の正体が知れてしまいそうな人がいるだとかではない。ただ、今日は来ないのなら来なくていいかもしれないと、心の中で思っていたことも一つ、事実ではある。
 僕は彼に、理由である今日のプログラムを差し出した。
「〈鷹〉と〈耳のうら〉です」
「おや」
「あちらの部屋のプログラムは、ちょうど十五種類を順番に回しておりまして。以前、もうご覧になっていましたよね」
 紳士は僕の出したプログラムの脇に手をついて、ふむと唸った。
 彼は前に、〈鷹〉も〈耳のうら〉もすでに鑑賞している。どちらも僕がチケットを切ったので、記憶に残っていた。〈鷹〉はそれなりに楽しんでいた印象だったが、〈耳のうら〉は〈三年姉妹〉や〈霧の夢〉に比べると、彼の中で好みではなかったふうである。
 プログラムを用意しているのは岩井さんなので、アルバイトの僕では、例え彼のほかに客がいなくても、勝手に上映を変えることはできない。今日のキネマ連翹座は、せっかく足を運んでもらっても、彼にとってあまり魅力的なものではなかっただろう。
「では、お尋ねしたいのですが」
「はい」
「この近くに、他に映画館はありますか? できればあまり明るく、大きくない、人の少ないところだと良いのですが」
 なんだか悪いな、と自分のことでもないが残念に思っていた僕は、遠慮がちにかけられた紳士の言葉に顔を上げた。頭の中を四方に探ってみて、あ、と一軒の建物が思い当たる。
 そこは以前に一度、ここでは上映の予定のなかった映画が観たくなって訪ねていった、キネマ連翹座と同じくらいの大きさの映画館だった。
「楠シネマという映画館でしたら、一駅先の賽来町にありますよ」
「一駅先……それは、電車に乗っていく場所ということでしょうか?」
「はい。でも、この時間の各駅列車なら、乗客は少ないです。その……それほど目立たずに、行くことはできると思います」
 僕は自転車で行った距離だったが、蛙の紳士が自転車を漕ぐところはどうも想像がつかなかったので、列車を使うほうを紹介した。幸いにして、今の時間帯は車内も空いているだろう。会社帰りの人たちは、大抵、もっと大きな駅から快速列車に乗ってくる。連翹駅で乗り込むような人はほとんどおらず、各駅に乗って、連翹駅まで座ったきりで乗り続けてくる人というのもあまり見かけない。
 だが、蛙の紳士は少し困ったように、そうなのですかと言って頬を掻いた。
「お恥ずかしながら、私は列車を利用したことが一度もないもので、乗り方がよく分からないのです。どなたかに訊ねようにも、あまり近くでお話をすると、やはり違和感を覚えられてしまうでしょうし」
 紳士はぽんぽんと、手袋を嵌めた手で自分の喉元を叩いた。確かに僕も、初めはその首が印象的で、彼を覚えるに至ったのだ。紳士は軽く笑って、僕に頭を下げた。
「教えてくださって、ありがとうございます。今日は、これを返しにこられただけで良かったと思うことにしましょう」
「え? あ」
「驚きましたが、このタオルというものは、吸水性が素晴らしいのに乾燥も早いのですね。おまけに、色や形にも富んでいるようです。実は先ほど、私もこういったものが欲しいと思い、近くで探していくつか購入してみました」
 紳士はそう言って、トランクを開ける。中には数軒の店を回って手に入れたものだと思われる、半透明のビニールに入ったタオルや、雑貨屋の紙袋らしきものが詰め込まれていた。
 その一番上に、丁寧に畳んで入れられているタオルを取り出す。彼の出したそれは、以前に僕が貸したハンドタオルだった。
「こちらは洗ってきましたので、お返しします。非常に助かりました」
「わざわざすみません」
「いいえ、おかげさまで良い買い物にも繋がりました。どうも、本当にありがとうございます」
 タオルからは、ほのかに野の草のような、瑞々しい草むらの香りがした。よほど大切に洗ってもらったのか、タグまでぴんとして新品のようになっている。蛙の紳士は色とりどりのタオルが入ったトランクを、宝箱のように優しく閉めた。先の丸い、水をかくための手をしているのに、彼の指は人間の作り出したものをとても器用に扱う。
 でも、列車もタオルも知らないのだ。
「あの、すみません」
 僕は荷物を手にして帰ろうとする紳士を呼び止めて、躊躇いながらも思い切って訊ねた。
「よかったら、僕が一緒に行きましょうか。楠シネマ」
「え?」
「その、六時まではバイトなので、お時間があれば……ですけど」
 紳士は心の底から驚いたような顔を、帽子で隠すことも忘れてまじまじと僕を見た。
 出過ぎた申し出だっただろうか。言ってしまってから、口にしたことを多少後悔する。僕はどうも昔からお節介なところがあって、そのくせ、世話の焼きどころを見極めるのがあまり上手くない。
 身近な例で言えば、良かれと思って初老の人に席を譲ったら、まだそんな歳ではないからと断固として拒否されるようなことが比較的よくあったり。同様に、妊婦だと思って声をかけて、恰幅のいい女性に恥をかかせるような真似をしてしまったり。とにかくあまり、親切の使いどころが上手くないのだ。
 この紳士に対しても、僕は大した知り合いでもないくせに、私物を貸したり案内役を申し出たりと、つい手を出そうとしてしまいがちである。要領よく、器用には一つもできないくせに、人が気落ちした表情を隠そうとしているところを見ると、何かしようとせずにはいられない。
「貴方が、よいと仰るのであれば」
 互いに窺いあうような沈黙の後、蛙の紳士が口を開いた。
「お願いしても、よろしいでしょうか。キネマ連翹座はとても良いところですが、ここ以外の映画館というものにも、前から興味があったのです」
 紳士の声音はわずかに弾んで、嬉しそうだった。
 僕はすぐに「はい」と頷いて、彼と一時間後にキネマ連翹座の裏口で待ち合わせをする約束をした。その間、紳士はどこへ行こうか迷っている様子だったので、ここから歩いて少し先の洋服店に行き、夏用の薄いストールを買っておくことを勧めておいた。
 列車に乗るのであれば、目立たないに越したことはない。僕は常々、彼には何か首元を隠すものがあれば、自分のように違和感を覚える人も少なくなるのではないかと、そう思っていたのだ。

「ああ、お疲れ様です」
 ペンキの剥げた細い手摺の階段を下り、裏口を出たところで声をかけてきたのは、シックなグレーのジャケット姿に華のあるストールを巻いた、小洒落た紳士だった。ベンさん。思わず僕がそう呼ぶと、蛙の紳士は軽く帽子を上げて笑う。
 ベン・フロッグ――待ち合わせにあたって教えてもらった、彼の名前だ。
 ベンさんはその首に、薄いモカと花紺の生地を重ねた、品のいいストールを巻いていた。生地の端にフリンジがあり、それが目を引いて、幅のある首の印象を上手く覆い隠している。長いものを探してきたのか、ストールは彼の体にも若干の余裕を残して巻かれているおかげで、結び目はゆったりとして窮屈そうにも見えない。
 そのふんわりとした結び目を落ち着きなくいじって、ベンさんは照れたように言った。
「とびきりおかしくさえなければ、いいんです。お店の方に巻いていただくと、帽子を取ることになってしまうかもしれないと思い、マネキンの見よう見まねで巻いてみたのですが」
「おかしくなんてありませんよ、似合います。巻き方も変じゃないと思いますし」
「それならよかった。何せ、初めて買ったものですから、使い方が間違っているのではないかと不安で」
「苦しくないですか?」
「ええ、お店で一番長いものを買ってきました。足りてくれて、ほっとしています」
 話をしながら歩き出し、僕たちは連翹駅を目指した。雨の夕方である。人はまばらで、傘を差して並んで歩いても邪魔にならない程度だ。時折、雨粒から追い立てられるように自転車を漕ぐ人と擦れ違った。
「人間は、雨が嫌いなのでしょうか」
「ベンさんは、好きそうですよね」
「はい、勿論」
 連翹駅で傘を閉じ、二人分の切符を買う。
「僕は、嫌いっていうわけではないんですけど。雨の音とか、晴れた日と違う湿った空気って、気持ちが濡れるような感じはします」
「憂鬱になるのですか」
「いえ、なんて言ったらいいのか」
 一時間に二本の各駅列車が、ちょうどもうすぐやってくるようだ。踏切がカンカンと、淑やかな雨音の中に吸い込まれながら鳴り響いた。
「感傷的になって、ふと、本当の自分に戻ってしまうような感じです。晴れの日は笑ってごまかせることを、雨の日はごまかせない」
 人の数より多い明かりをたっぷり灯した列車が、ホームに入ってきた。
 映画を上映するのではなく、鑑賞しに行くのはいつ以来だろう。多分、前回、楠シネマに行ったとき以来だ。
 銀幕、という言葉が今なお似合う楠シネマは、キネマ連翹座と違って、一つしかない部屋で、最新の話題の映画を上映する。建物自体の郷愁と流れる映画の新しさは、僕にとってスクリーンの世界を、手に届く近さにも永久に届かない遠さにも思わせた。小さいのに気高い、指輪の箱のような場所だ。中にあるものは特別でなくてはならず、決して平凡ではないのだと、まざまざと教えてくれる。

 楠シネマで上映されていた映画は、海外の豪華なスターが活躍するアクション映画だった。日頃は比較的、日本の映画を上映している映画館なのだが、夏休みということで若年層向けのものに切り替えているのかもしれない。
 館内はキネマ連翹座に比べれば賑わっていたが、一列の座席に客が一組ずつという程度の賑わい方で、僕たちにとっては居心地がよかった。それくらいの人数だと、チケットを売る人も映画を観に来た人たちも、誰か一人の顔を気にすることがない。
 唯一、チケットを確認する係の女性が訝しむようにベンさんを見たので、僕は咄嗟に彼を「父さん」と呼んで、身内のふりをしてその場を逃れた。おそらく、ベンさんがあまりに顔を隠しているので少々不審に思ったのだろう。僕たちが堂々と親子として振る舞っていると、女性は安堵したように笑顔になって、チケットを切った。
「おかげさまで、楽しい時間を過ごすことができました」
 連翹駅で降りて別れ際、ベンさんはまだ夢の中にいるような、ふわふわとした様子で嬉しそうに言った。
 キネマ連翹座の映画しか知らなかった彼にとって、海外の派手なアクション映画は新鮮に映ったらしい。映画には実に色々な傾向のものがあるのですね、と、映画館を出てからもしきりにパンフレットを見直して、列車の中でこれまでに見た映画と今日の映画の話を代わるがわるしていた。彼は本当に、映画が好きなようである。
「あの、ベンさん」
「はい」
「僕と一緒にここで降りて、よかったんですか? 家はこの辺りで?」
 タオルとパンフレットの詰まったトランクを大切に提げているベンさんに、僕は列車の中からずっと気になっていたことを訊ねた。
 賽来駅で帰りの列車に乗るとき、どこまでの切符を買いますかと聞いた僕に、彼は同じところまでで大丈夫ですと答えたのだ。そういえば列車に乗るのは初めてだと言っていたし、キネマ連翹座にもよく来ていたし、もしかしたら連翹駅の周辺に暮らしているのかもしれない。
 ふと、そんなことを思ってみてから、僕は無性に気になってしまった。ベンさんが、普段どこに住んで、何をして暮らしているのか。これまで何となく、訊くことではないと抑え込んでいた疑問が一気に膨れ上がる。列車の中で映画の感想に返事をしながらも、僕の内心はそのことでいっぱいだった。
 彼はいつも、どこからやってきて、こうして僕と顔を合わせていたのだろう。
 蛙の紳士と一言でいうが、僕は彼のほかに、彼のような人が生活しているのを見たことなどない。

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