千年キネマU

 その日から、僕は彼のことを「蛙の紳士」と名づけて、心の中で呼ぶようになった。蛙の紳士はあれからも数回、キネマ連翹座を訪れては、何食わぬ様子で水を買い求め、映画を見て帰っていく。
 初めの一、二度は彼が何か言い出すのではないかと気が気でなかった僕も、次第にその不安は必要ないのではと思えるようになってきていた。蛙の手を見てしまったことも、おそらくはそれが手だけではなく、全身に及ぶ姿であり彼の正体なのだろうと察しがついていることも、僕たちは互いに何も言わなかった。
 紳士は時々、口元だけ見せて笑うようになった。会計の最後に、よくありがとうと言った。
 僕は今のところ、彼の秘密を誰にも口外はしていない。口止めをされたからというよりは、話す相手がいないのだ。
 アルバイトが休みの今日、僕はワンルームアパートの部屋の掃除をしながら、ふとそのことに気がついて顔を上げた。
 窓辺に置いた写真立ての埃をはらいながら、淋しいものだと一人、日だまりに自嘲する。写真立ての中には、大学時代の友人たちと行った最後の旅行の写真が入っている。確か、四年に上がる前の春休みのことだった。三年は前になるのだろうか。彼らの名前は今でも全員覚えているが、どこで何をしているのか、連絡を取れる相手はもういない。
 写真の中にいる六人のうち、五人は卒業後、就職をした。僕だけがそこで彼らと足並みを共にしないで、今に至っている。就職活動に失敗したのではない。僕は就職活動そのものを、放棄していたのだ。彼らが四年に入ってから僕と次第に距離を置くようになった理由は、大方そこにあった。
 写真立てを棚の上に戻し、その下に入っているアルバムを一冊取り出す。
 表紙はだいぶ古臭くなってきているが、大切に扱っているおかげで、十年以上前のものにしては傷みも少ない。開くとかすかに、実家の箪笥に入れられていたころのラベンダーのサシェの香りがした。一人暮らしのこの家に持ってきてから結構経つのに、染み込んだ香りは取れないままで、僕はその度、少しだけ笑っているのに後ろめたくなる。
 母とはもう、連翹町に来てからほとんど顔を合わせていない。父とはそれ以上に、この二年ほどは一度も連絡さえ取っていなかった。
「冬間ミチル……ねえ」
 肺を圧迫するラベンダーの香りを押し出すように、わざと口に出して言う。アルバムの中では、かつてその名前で子役をやっていた頃の僕が、幼い自信と明るさに満ち溢れた顔で笑っていた。
 映画やバラエティーに出演するほどの有名子役ではなかったが、七年間でドラマに数本と、コマーシャルに何度か出た。舞台の端でちょっとした役を演じたこともあったし、ドラマではシリアスなテーマのものからお茶の間向きの温かいコメディまで、比較的色々なものに呼ばれていた記憶がある。
 一番大きなもので言えば、小学校四年生のときに、ドラマで主役の俳優が出会う捨てられた子供の役をやった。反響はそれなりにあった。視聴率は毎週安定していたし、放送が終了する頃には「冬間ミチル」の名前を知る人も少なくはなくなっていた。
 ただ、僕はその二年後、中学校に進学するにあたって、芸能界を一度引退した。
 今になって思えば、当時は名前が知れているということの価値を計りきれていなかったのだ。加えて、僕は冬間ミチルというもう一人の自分の存在を過信していた。僕自身はごく普通の子供だったが、冬間ミチルはそうではない人間だったのだ。
 冬間ミチルであるときの僕は、僕にとって完全だった。だから数年離れたところで、彼が芸能界や、ドラマを見ていた大勢の人々の頭の中から消えていくという事実を想像できなかったのだ。例え中学高校時代を友達と遊んだり、部活動に熱中したりして過ごしたところで、冬間ミチルはいつでも冬間ミチルのいた場所に帰ることができる。当時の僕は本当に、そう思っていた。
 結果として、残ったのがこの今である。子役という仕事から離れて、解放されたように自由な六年間を過ごし、大学に合格後、僕は真っ先に役者への復帰を果たそうとした。かつてと同じ名前を口にすれば、事務所くらいすぐに決まるだろう。そう信じていた僕の応募用紙は、以前の事務所にも受け取られずに、不合格の通知ばかりが延々と返ってきた。
 そうなって初めて、二十歳を目前にした僕は目が覚めたのだった。自分はとっくに、どこにも求められてなどいなくて、忘れられて久しい存在なのだと。
 一生、いつでも隣にいてくれると疑っていなかった「冬間ミチル」が、いつの頃からかいなくなっていたことに、僕は気がつかなかった。
 僕はそれでも希望を捨てきれず、一度は成功していたのだからと思い直してオーディションを受け、俳優を目指し続けた。いつからか、夢ばかりが膨らんで、ドラマもいいけれど今度は映画に出てみたいと思うようになっていた。映画への夢を語ることに、僕は積極的だった。友人は皆、すごいねと笑って応援してくれていた。
 しかし、大学も三年の夏になると、彼らは僕に当たり前の顔をして訊ねた。就職は、どういうところを目指すのか、と。僕は迷わず、映画俳優になるのだと答えた。
 彼らは笑った。いつもと何ら変わりのない、悪気のない顔で笑った。僕はそのときになってようやく、彼らが今まで、僕のことを冗談ばかりいう面白いやつとして扱っていたのだという可能性に気がついた。
 以後、少しずつ疎遠になっていった彼らのことを、恨みがましく思うことはない。実際、彼らは堅実な道を歩み、先の明るい選択をした。僕は卒業してからというもの、宙に浮いたような日々を送っている。誰とも深い交流はなく、仕事もこの春に生活費が尽きて始めたアルバイトだけ。
 そのアルバイトにさえ、ささやかな望みをかけているのだから救いようがない。映画館にいれば、映画を好きなどこかの偉い人が現れて、ある日突然、僕のことを俳優にしてくれるような奇跡が起こるのではないか――ばかばかしい話だが、僕はそんな一縷にも満たない青空のごとき希望に縋って、淡々とした毎日を暮らしている。
 あまりに平坦で、その日を限りに終わっても支障のないような毎日を繰り返していることが、どうしようもなく辛いという叫びに頽れそうになったことは、多分まだない。枯れかけていても、俳優の夢を追っている間は、僕は無ではないと自分に言い聞かせることができる。ただ、母に同じ言葉を言うことは胸が締めつけられるようであり、父には尚更、就職をしなかった時点で合わせる顔をなくしてしまった。
 僕はとてつもなく、一人でいる。そのことを、時々思い出す。
 蛙の紳士のことだって、かつての僕ならどんなに脅されたとしても、誰かに話さずにはいられなかっただろう。今の僕では、絶望を拗らせて虚言症にでもなったとしか思われそうにない。それくらい、僕はもう誰とも長い話をしていなかった。皆、そろそろ僕を忘れる頃かもしれない。
 そうなったら、僕はこの世界から、冬間ミチルとしても僕自身としても消えてしまうのだろうか。透明人間になる日は近く、夏の日差しはそんな僕の体に強すぎた。
 冷たい水を飲みたくなって、アルバムを閉じる。喉の奥に張りついたラベンダーの香りを、水道水は緩やかに洗い流した。

 翌日は昨日の眩しさが嘘のように、朝から夏特有の、叩きつける雨が降っていた。上映の合間にサンドイッチで軽い昼食を摂って、マットを掃除したりペットボトルの飲料を補充したり、手持無沙汰にパンフレットをぱらぱらと捲ったりして時間を過ごす。
 そうしながらも心のどこかで、僕はそわそわしていた。以前なら憂鬱なだけだった雨音が午後になってもやまないことにほっとしながら、蛙の紳士がやってくるのを期待しているのだ。
 時計の針がちょうど、午後一時を指したとき。キィ、という音と共に、外に響く雨音が大きくなった。
(来た!)
 やはり、蛙の紳士は今日もやってきた。心の中で賭けに勝ったような気持ちになりながら、僕はあくまで平静を装って、彼を観察する。
 今日は焦げ茶色のジャケットとズボンだ。トランクが似たような焦げ茶色をしているせいで、彼のシルエットはビターチョコレートの彫刻のようである。靴はそれより明るいキャメルで、帽子が同じキャメルに水色のリボンを一周させた遊び心を感じるデザインだった。
 雨音を小さくしながら、彼が振り返る。ネクタイは深い葡萄色だ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
 頭を下げると、そう挨拶される。彼はもう、僕が彼のことを記憶していることを疑っていないようだった。こんにちは、と返すと、少しばかり嬉しそうにする。分かるのは目深に被った帽子の下から覗く顎が、口元が動くときはそれに合わせて、ふわんと動くからだ。
「モノクロのほうでしたら、今日のプログラムは〈霧の夢〉です」
 僕はあまり迷うことなく、白い電球のほうのプログラムを紹介した。オレンジのほうは相変わらず、〈鷹〉を上映していたからだ。
「〈三年姉妹〉と同じ監督の、晩年の作品です」
「それは素晴らしい。先日の〈三年姉妹〉が、私は本当に好きでした。ぜひ、それを」
「はい」
「ああ、それと水を一本。お願いします」
 紳士はあまり、同じ映画を何度も見ることはないようだった。それよりも彼は、時代に囚われず、様々な映画を見ることを好んでいた。故に、彼は白い電球の入ったランタンの下がるドアを頻繁にくぐった。オレンジのほうは最新の映画の中から選ばれたものが、最短でも一ヶ月ほど上映されているが、白は何種類か用意された古いプログラムを日替わりで上映していた。
「千五百円です。……あの」
「なんでしょう?」
「オレンジジュースや、お茶もありますが」
 語尾がだんだんと小さくなりながら、僕は言った。
 年配の人には時々、飲み物をくださいという意味で「お水」という人がいる。僕の祖母がそうだったので、ふと、もしかしたらこの紳士もそうではないだろうかと考えてしまったことが、つい口に出た。本当は他のものでもいいのに、水といったら僕がミネラルウォーターを出したから、何となくそれを買っている。そうだとしたら飽きないだろうかと思って、他の飲み物は嫌いなのかな、と考えた結果だった。
 蛙の紳士は一瞬、きょとんとしたように沈黙した。それから彼は、僕の言わんとしたことを察したように「ああ」と笑って、喉を揺らした。
「いいんです。水を買うのは、飲むためだけではありませんから」
「え?」
「この世界はどうも、クウチョウというものが効いているそうですね。お陰様でとても快適ですが、定期的に水をつけないと、膚が乾燥して引き攣ってしまうのです」
 そう言って、蛙の紳士はトレーに千五百円をぴったり出した。その手袋の下の皮膚を思い出して、事情を察する。蛙は本来、水辺の生き物だ。暖冷房の効いた室内で、乾いた椅子に座って長時間を過ごす生き物ではない。
「お気遣い、ありがとう」
 蛙の紳士は僕が切ったチケットを受け取ると、水を片手に、白い電球のドアへ向かって歩いていった。映画はあと十分ほどで始まる。
「あの」
 僕はその背中を見送ろうとして、一瞬ためらってから声をかけた。紳士が振り返る。
「よかったら、これ使ってください」
「え?」
「館内は暗いから、水を直接、膚につけたら、よく見えなくて襟や袖口を濡らしてしまいませんか。これに含ませて首や手にのせたら、きっといいと思います」
 カウンターから腕を伸ばして、僕が差し出したのはハンドタオルだった。僕の鞄に入っていたものだが、幸い雨も汗も拭いていないから、洗濯をしたあとの綺麗な状態のままだ。
 キネマ連翹座の空調は非常に古くて、微調整というものがとにかく利かない。あんな冷やせといったら凍えるように冷える冷房の下で、首元に水でも被っては、いくらなんでも冷えすぎてしまうだろう。
「いやはや、これは」
 蛙の紳士は戸惑ったように言ってから、そっと手を出して、僕のタオルを受け取った。
「なるほど、こんな優れた生地のハンカチがあるのですか。感謝します、優しい人」
 彼はそう言って帽子を脱ぎ、綺麗な動作でお辞儀をした。蛙の紳士が顔を上げる。僕は初めて、彼の顔の全体を見た。
 雨蛙よりは褐色に近く、蟇蛙よりは愛嬌のある顔立ちをしている。二つの黒目は照明の下で焦げ茶色に輝き、穏やかに細められていた。

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