ブラウンシュガー・テイルZ

 夕日はリコの体に遮られているのに、帽子の影の下、わずかに覗く彼の頬が妙に赤い。あれ、と数秒驚いてから先ほどのやりとりを頭の中で反芻し、はたと気がつく。
 つまり自分は今日、単純に、彼の友人として誘われたのだ――という可能性に。
「……っ」
 淡い熱がさあっと全身に広がって、着物に隠れていない頬にまで昇ってくるのを感じ、リコは目を背けた。彼が言ったのはおそらく、そういうことだ。観光客ではなく、知人として連れていった。〈世界を通過するもの〉の使命ではない、キヲト自身の意思が突然はっきりと感じられて、今日一日の光景が一斉に甦ってくる。
 心臓が、どうしてと思うくらい高鳴っていた。嬉しいという感情の上に花を咲かせたような、ふわふわと浮かれた気持ちが広がっていく。少々浮かれすぎていて、堂々と見せるのを躊躇う感情だ。あの昼市の風船売りの手放した束が、丸ごと一つ、この胸の中に収まってしまったような。
 視線を合わせたらそれが明るみに出てしまいそうで、リコは二人並んでいた足を、半歩後ろへずらした。図書館では何とも感じなかった沈黙が、今はどうしてだか気恥ずかしく思える。
 リコはそうして〈銀の月〉へ着くまでの間、ずっと斜め後ろを歩いていた。
 キヲトは何も言わなかった。何も言わず、二度三度、角を曲がるときにリコがついてきているのを確かめるように振り返りながら歩いて、〈銀の月〉へ着く頃にはすっかり、何事もなかったような顔を取り戻していた。


 空想巡業での最後の一日は緩やかに過ぎて、八日目、リコが元の世界へ帰る日がやってきた。寝台飛行船の水色のチケットは、正午の出発を刻んでいる。降るような日差しの射す空は青く、待合室の天窓に切り取られて、六角形の星の形を描いてリコの目の中に飛び込んできた。
「到着の船は、十一時四十分発××行き――」
 アナウンスが流れ、窓辺に座っていた家族連れが立ち上がる。大きな旅行鞄に加えて、揃いのタグのついたたくさんの紙袋を提げていた。
「チケットを先に拝見してもよろしいでしょうか?」
 待合室を確認しにきた灰影の駅員が、一人だけ残っていたリコを見て声をかける。端を三角に切って返し、十二時ちょうどですね、次の船です、と微笑んだ。彼はリコの横に置いてある荷物に目を留め、白い手袋をはめた手で指し示す。
「そちらのお荷物、積み込みの手続きはお済みですか」
「あ、まだです」
「では、少し早いですが先に済ませてきましょう。お預かりしていきますね」
 三つに分かれたリコの買い物を一つずつ丁寧に腕へかけて、彼は最後に「日傘はいかが致しますか」と訊ねた。寝台飛行船ではタグをつけた荷物だけ、貨物室で預かってもらうことができる。リコは少し迷ってから、それも預けることにした。手元にはここへ来たときと同じ、がま口形の鞄だけが残る。そこに入った折れ線のついた地図が、再び誰もいなくなった待合室の中で、一週間の思い出をすべて共有して笑うようにかさりと音を立てた。
「……ふふっ」
 楽しかったな、と、地図を撫でて思う。
 昨日、最後にブラウン・カフェでキヲトとお茶をした。二時間足らずのその間に、顔見知りになったカフェの人たちが代わる代わる休憩を取って会いにきてくれ、別れを惜しんでくれたりまたおいでと言ってくれたり、絶えずテーブルは賑やかだった。
 キヲトはあまり喋らずにずっと珈琲を飲んでいたが、昨日は本を持っていなかった。読書家が本を持ち歩かないのは、初めから読まないと決めてきたときだけだ。喉が渇いたら水を飲むように、時間さえあれば文字を追う人々にとって、それがある種の誠意とも言うべきものであることは分かっている。誰と話していても意識のどこかで、繋がっている感じがした。そう思ってキヲトのほうへ目を向けると、彼もたまたま顔を上げているときがあって、そういうときの葡萄色の目は出会いの日より幾分か優しく見える。
 リコは最後、お礼として用意していた真鍮の星飾りを彼に渡した。好みが分からないのに形が残るものを贈るのは、と散々悩んだのだが、他の何よりもキヲトに似合う気がして、選ばずにはいられなかったのだ。星形の薄い真鍮の板をレリーフのような細工で透かしてあって、厚みをつけて二枚を張り合わせ、立体的にしてある。
 雑貨屋で見かけたとき壁際に吊り下げられていたそれが、足下に紋様のような影を落として、一目見て美しいと思った。この星が欲しい、ではなく、あの人に手渡したい、と思った。直感的な思いは時として、熟考よりも強く輝く。
 つまり、それ以上のものは何も思い浮かばなかったので、朝一で店に行って包んでもらい、難しいことは考えずに渡してしまうことに決めた。
 結果としては、思ったよりも好評だったような気がする。両手を上げて分かりやすく喜んでくれる人ではないので、確信はない。けれど包みを受け取って、周りに押される形でそれを開いたキヲトは、指先に星をかけて一回転させ「光の通る場所に飾らせてもらおう」と微笑んだ。〈銀の月〉でお気に入りの珈琲を頼んだときと同じ笑顔だったと、そう思うのは都合のいい話だろうか。ただの気のせいでなかったら、あの星も自分も幸せだと思う。
 前の飛行船が飛び立っていったのが、窓から見えた。ガラスのモビールが光を受けて、鱗のように煌めく。あの家族連れの少年は、飛行船の中からこの窓を見ているだろうか。それとももっと雲や空、遠ざかるこの世界の大地を見るだろうか。
 ごうんと、飛行船の降りてくる音が聞こえた。
「十二時ちょうど発、寝台飛行船××行きが到着いたしました。ご乗船のお客様はチケットをお持ちの上、乗り場へお集まりくださいますよう、ご案内申し上げます。繰り返します、ただいま到着の寝台飛行船は十二時ちょうど発――」
 待合室にアナウンスが流れ込んでくる。リコはカメラを取り出し、窓辺の風景を一枚収めてから、着物の襟を軽く整えて立ち上がった。濃い桃色の千鳥である。見た目には変わるところなどないのだが、この色がすべて褪せて空想巡業の大地に溶けたと思うくらい、一週間で様々な経験をした。自分は今後、この着物を着るたび、この場所を思い出すだろう。これから染み着く太陽や珈琲の匂いはあちらの世界のものであっても、袂に残った風の感触や袴を濡らした雨の涼しさは、布地の重みと共にリコの手足に記憶されて、簡単に消えることはない。
 待合室から乗り場までは、緩やかなアーチを描く橋で繋がっていた。遠くに中央広場があり、螺旋状の樹が一本伸びているのが見える。風がリコの髪を舞い上げ、袴を膨れさせた。押さえようと手を伸ばした、そのとき。
「リーコーさーん!」
 欄干の向こうに見えた人たちに見覚えがある気がして、目を見開く。中の一人がこちらに気づいたように、大きく手を振って声を張り上げた。行き交う人々が何だ何だと彼らを振り返ってから、橋の上のリコを見て納得したように通り過ぎていく。
 ブラウン・カフェのキッチンにいた白影の女性が、華やかなボルドーの帽子をとって、リコに向かって振っていた。
「皆さん……!」
 隣にいるのも、その隣にいるのも、皆カフェで働いていた人々だ。リコが一日アルバイトをさせてもらった日の、従業員がほとんど揃っている。彼らは白影の女性に続いてわっと手を振り、口々に「気をつけてね」と叫んだ。
 驚きに立ち止まっていたリコはその奥、彼らの最後尾に立っている人に気づいて、目を丸くした。焦げ茶色の、先の折れた三角の帽子。真昼の光の似合わないローブを着込んで、一人腕を組み、こちらを見上げて立っている。
「ありがとうございます、皆さん――キヲトさん」
 声を張り上げると、彼はあからさまに「呼ばんでいい」と言いたげな顔をした。前列に立つ従業員たちが笑って手を繋ぐと、あっというまに後ろの人たちまで広がって、彼らは万歳するように皆で手を上げた。逃げ遅れたキヲトがそれに飲み込まれ、袖を掴まれてもがいている。
 思わず笑ってしまったリコに、誰かが叫んだ。
「また来てね!」
 いつの間にかリコより遅く乗り場についた人たちが、乗船手続きを済ませて飛行船へ乗り込んでいる。到着を案内するアナウンスが、辺り一帯に何度となく繰り返されていた。名残惜しいが、行かなくてはならない時間だ。
 再び手をほどいて、見送ってくれる彼らを目に焼きつけるように微笑む。たくさんの手が揺れる景色の向こうでキヲトと目が合ったとき、彼は静かに手を伸ばして、帽子をとった。
「××行き、まもなくの出発となります」
 葡萄色の双眸がリコを捉え、真昼の光に淡く透ける。その一瞬に、リコはああと気がついて自分の胸を押さえた。
 もしかしたら自分は、彼のことが好きだったのかもしれない。一週間という短い時間の中では、まだその気持ちが芽吹いているのかどうかさえ定かではないが、種は存在している。最後にもう一度会えたというだけで、今この瞬間が奇跡のように嬉しい。それは他の人たちに覚える親愛とはまた別の、こみ上げる感情で息の止まるような、特別な想いだった。
「また、会いにきます!」
 淡い情熱に身を任せて、さようならの代わりにそう叫ぶ。気づいたことに後悔はなかった。手を振ると、仕方なくといった様子で振り返してくれる。その唇がわずかに、弧を描いた。
 寝台飛行船はリコが乗り込んで間もなくドアが閉められ、上昇気流に翼を広げてゆっくりと飛び立った。カフェの人々は飛行船の窓から彼らの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれていた。
「お飲物は、いかがですか?」
 船内販売のワゴンが、ベッドの間を通り過ぎる。
「すみません、珈琲をひとつ」
「ミルクとお砂糖はおつけしますか?」
「……いいえ」
 財布からコインを一枚出して、温かい珈琲をもらう。数年ぶりに飲んでみたブラック珈琲はやはり苦く、リコは一口飲んで窓辺に置き、雲海を見下ろしてくすりと笑った。


 パーッとクラクションを響かせて、赤信号に変わりかけた交差点を自動車が走り抜けていく。銀杏の木の並ぶ歩道は午後の光を照り返して続き、緩やかな上り坂を降りてくるビル風が、ふもとの本屋の外に置いた雑誌をぱらぱらとめくっている。自転車に乗った若い学生たちがその前を通り過ぎ、信号を颯爽と渡っていたずらにベルを鳴らしていった。遠ざかる音はすぐにまた車の音にかき消され、どこかで移動販売のアイスクリーム売りが、アコーディオンを鳴らして子供たちを誘っている。
 四角く重い学校鞄を肩にかけて、リコは交差点の向こうに立つ煉瓦の大時計を見上げた。もうじき午後三時だ。いつもより早く出られたな、と思い、手帳を確認して坂の上を見上げる。ちょうど上りきった辺りに、リコの勤め先の喫茶店があるのだ。ただし今日はアルバイトがない。リコの勤める喫茶店はマスターが高齢のため、週に三日しか店を開けないという、営業日より定休日のほうが多い店である。
 急ぎの予定も特にない。思いがけず開いた午後の時間を、せっかくなのでどこかに立ち寄って過ごそうと、リコは坂道の手前を右へ曲がった。こちらはリコの暮らすアパートと反対方向にあり、時々学校の課題のために画材屋を覗きに行く以外では、あまり行ったことがない。近くに住んでいても馴染みの薄い場所というのは、新しい発見が多くて楽しいものである。
 さっそく、街路樹が植え込みに変わって銀杏の日陰が途切れた。手にしていた白い日傘を広げ、リコは躑躅の植え込みと街灯が交互に並ぶ道を歩いていく。雫石が視界の端で、ちりちりと揺れた。
 空想巡業への旅行から帰って、早くも一ヶ月が経とうとしている。長かった夏休みは先週で終わって、学校にアルバイトに、いつも通りの日常がまた戻ってきたところだ。夏は盛りを越えたというが体感的には暑い日が続き、リコのバイト先でもメニューには未だ、かき氷が載せられている。いちごのシロップはもうすぐなくなるが、メロンはまだ少し残るだろう。おそらくそれもなくなる頃までは、夏が続いていくのだ。学校向きの質素で涼しげな、藍色の着物に藤の袴を合わせたこの格好も、もうしばらく続く。
 山吹のリボンで結んだ髪が風に舞うのを押さえ、整備された道を歩きながら、リコは空想巡業の石畳を思い出していた。古くてでこぼこした、商店街の道。〈銀の月〉の前の、細く眩しい通り。方解石の交じった噴水前の石畳。象牙色に磨き上げられた、天空図書館の大理石の床。
 あの世界での思い出はどこを切り取っても印象的で、この一ヶ月、一体何度思い返したか分からない。戻ってすぐの頃よりは夢に浮かされたような心地も落ち着いてきたが、それでもこうして些細なきっかけから思い出しては懐かしさに似た気持ちを抱く。瞼に焼きついたもの、心に刻まれたもの。それらを思い出すときに糸を辿っていくと、いつも最後に思い浮かぶ人が今日も出てきて、リコは元気にしているだろうかと心の中でその名を呼んだ。
(――キヲトさん、)
 この一ヶ月、彼を思い返して雛鳥のように温かくなる胸の高鳴りは、緩やかにではあるが大きくなってきているようである。会えなくなったら種のまま眠る、そんな恋である可能性も考えていたのだが、どうやら自分で気づいていたより深く根づいた想いだったらしい。記憶は彼と過ごした時間を手放したくないと大切に守っていて、忘れるどころか日毎に鮮やかになっていく。
 リコは冬休みにもう一度、空想巡業へ行くことを目標に決めた。あの世界は決して近くない。学校の都合にしても、旅行の手配にしても、半年後に行ければ頑張ったと言えるほうだ。現実的には短く、気持ちの上では長い半年である。本当は半年などと言わず、今すぐ世界を通過して会いたい。あの人のように。
 会ってたった一言、あなたに会いたかったのだと言ったら、彼はそのときどんな顔をするのだろう。
 考えながら橋を渡って、大通りへ出たリコは、いつもの画材屋に背中を向けて足の向くままに歩いた。気分転換を兼ねて、あえて知らない道を進んでいく。歩道はいつの間にか、再び植え込みから街路樹に変わっていた。今度はケヤキだ。日傘を畳み、木陰の風を頬に受けてみる。空気はお世辞にも澄んでいるとは言えない。けれど確かに、緑の匂いがした。
 信号が点滅を繰り返して赤になる。足を止めたリコは、向こう側にある煉瓦の建物に目を奪われた。外に出ている黒板の雰囲気からいって、カフェだろうか。西洋風の二階建ての、窓から蔦の下がった洒落た建物である。
 ちょうど喉が渇いてきて、何か甘いものでも食べたい頃合いだ。ぼんやりと入り口を見つめていると、ガラス戸の向こうから誰かが出てきた。ドアを開けた店員と短い挨拶を交わす姿が、往来する自動車の向こうでちらちらと霞んで見える。リコは初め、それを錯覚としか思わなかった。焦げ茶色の服を着た、彼とどこか似た人。
 服の色だけで思い出すなんてどれほどだろう、と苦笑を隠すために、髪をとかすふりをして下を向く。信号が青になって、車の行き来する音が止まった。顔を上げずに、白線を数えるように横断歩道を渡る。
 そのつま先がもうすぐ対岸へ着くというとき、正面から歩いてきた人が、リコの視界の中で足を止めた。
「……やれやれ、世界が変わると人格まで変わるのか? 挨拶もなしとは、素っ気ないことじゃの」
 通り過ぎそうになった足が、ぴたりと止まる。信号が再び赤になって、自動車が走り始めた。焦げ茶色のローブが風に煽られて、紫の裏地が日の下に覗く。
「久しぶりじゃな、リコ」
「キ……」
「下ばかり見て、また財布でも落としたか? まさか、この世界でも迷子になっておるわけではあるまいな」
 跳ねるように顔を上げたリコに、キヲトは帽子を小さく上げて笑った。金茶色の癖のある髪、葡萄色の目。錯覚などではない、空想巡業で出会ったときとまるで変わらない彼がそこにいた。
 驚きに声も出せず固まっているリコを眺めて、キヲトは帽子を被り直し、口を開く。
「イーリアが創った数多の世界の中で、ブラウン・カフェの支店を持つ世界はたったの十五。支店の数は三十に及ばぬ。よもやその一つにこの世界があろうとは、何の縁か因果か知らぬが、そなたとはよく会うさだめじゃの」
「キヲト、さん」
「ようやく思い出したか、ぼんやりしおって」
「ちが、違います! 忘れてたんじゃありません、びっくりしすぎて……っ」
「分かっておる」
「へ?」
「お主があんまり面白い顔をしておるものでな、少々からかっただけじゃ――リコ」
 日差しが合わせた視線の間を、まっすぐに貫いて照りつける。キヲトが指し示した煉瓦の建物は、ガラス越しにもたくさんの植物に囲まれて、涼しげな景色を覗かせていた。
「アンズのビスケットは?」
 その入り口の上にかかった看板を見て、目を見張る。黒い鉄のプレートに、シンプルな銀で〈ブラウン・カフェ〉の文字が刻まれていた。
 遠い世界の風の匂いが、足下を駆け抜けていく。リコは高鳴る胸を押さえるように鞄を抱いて、これから始まる午後の約束に応えるため、唇を開いた。


〈ブラウンシュガー・テイル/終〉

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -