ブラウンシュガー・テイルY

「今日はどの辺りの本をお探しですか」
「六号室イの十六、それとハの二十七じゃな」
「最初から番号で言われてしまうと、僕の仕事は半分なくなるのですが」
「ああそれと、二号室に少し寄る。行くぞ」
 迷路のような書架の間を、キヲトは一度も間違えることなく先導していく。後ろに並んでリコと歩きながら、いつもこうなんです、とこぼしたマルクに、リコも思わず苦笑を漏らした。
 確かにこれでは、指輪があろうとなかろうと、どちらが司書なのか分からない。指輪さえ貸し与えられていれば、案内も護衛も、まったく不要だろう。
 でも、とリコは先日の〈銀の月〉での会話を思い出して、隣を見た。キヲトは彼を、とても信用している。そして多分、キヲトの担当司書が彼でなければ、館長からリコを同伴させる許可は下りなかった。
「これとこれと……、ふむ、リコ」
「はい?」
「この辺りの本ならば、そなたの世界の文字と近いものが使われているはずじゃ。好きなものがあったら何冊か選べ。先に言っておくが、小生は話し相手にはなれん」
 六号室で二冊の本を選び、マルクに預けたキヲトは、次に向かった二号室で十冊あまりの本を抜き出した。驚いて確かめてみると、表紙は読めないと思ったのに、中の文字はリコの使用しているものとよく似通っている。どうやら表紙は飾り文字で、通常の頁はどれもそんな、何となくだが見覚えのある文字であるらしい。
 リコは数頁ずつめくってみて、図鑑を一冊と物語を二冊、絵本を一冊選んだ。
「どうぞ」
「あ、でも」
「今日はこれくらいしか、仕事がありません」
 すでにキヲトの本を抱えているマルクが、リコの本も上に載せるよう腕を差し伸べてくる。断りかけてから言われたことに思わず笑い、リコはそれじゃあと、図鑑だけは自分で持っていくことにした。

 天空図書館の本はどれも見たことのないものばかりで、手始めにこれからと思って絵本を開いたリコは、思いがけず読書に熱中してしまった。二冊の物語のうち、表紙が好みのほうを取って黙々と読み進める。広いテーブルの向かいに腰かけたキヲトは、宣言通り椅子についてからというもの一言も喋らない。けれど彼の選んでくれた物語は、その沈黙の存在を忘れさせるくらいに面白かった。時々読めない文字をマルクに教えてもらいながら、いつしかリコは最後の頁をめくり終わっていた。
 いつにない集中力で本の中を駆け抜けた達成感と、物語の余韻と疲れとが一斉に押し寄せてくる。頭の半分がまだ架空の世界を構築しているような錯覚に浸されながら、リコはのろのろと本を横へ置いて、辺りを見回した。
「どうかされましたか?」
「あ、ええと……」
 すぐにマルクが声をかけてくる。ちらと向かいに視線を向けたが、キヲトは正面で二人が話していることすら耳に入っていない様子だ。口ごもりながら入り口のほうへ目をやったリコは、控えめな案内板のかかる狭い通路に気づいて顔を上げた。
「すみません、ちょっと化粧室に。あの、すぐそこみたいですから、一人で」
「ああ……、申し訳ありませんが部屋を出られるのでしたら、原則付き添いを怠ってはならない決まりです」
「じゃあ、後にしようかな。邪魔したくないですし」
 リコの言わんとすることを察して、マルクも返事に困ったように眉を下げた。目の前でこれだけ話が展開しているのだが、キヲトは一向に気がつく気配がない。それだけ集中しているということだ。ちょうど少し疲れたこともあり、一度歩きたかったのだが、そんな理由で遮るのもはばかられる。黙って腰かけ直そうとしたリコの背中を、マルクがとんとんと叩いて「お静かに」と言った。
「足音をあまり立てないで、そのまま歩いてください」
「え……?」
「大丈夫ですから」
 促されるがまま、ゆっくりとテーブルを離れる。そのままキヲトの視界の端を通り抜け、慎重な足取りで、気づけば部屋の入り口をくぐっていた。
 まさかそんな、と思って振り返ると、キヲトは変わらず一身に本を読み続けている。
 驚きと呆れが同時に襲ってきて口を開けたまま何も言えなくなったリコに、一緒に出てきたマルクは苦笑して、部屋の扉をそっと閉めた。
「いつものことながら、すごい集中力ですよね。僕が悪人で、ここが図書館でなかったら、閉じこめられてしまいますよ」
「ほ、本当に気づかなかったんでしょうか?」
「気づいたら、どこへ行くんだの一言くらいお訊ねになるかと。どうぞ、化粧室はこちらです」
 目測にして五十メートルもあるかどうかの距離を、人に連れていってもらうのは何だか変な感じだ。こそばゆさをごまかすように鞄を抱いて歩きだしてから、リコははっとして、前を歩くマルクを呼び止めた。
「あの、キヲトさん!」
「いえ、ええと」
「あ、いや、そうではなくて。キヲトさん、一人にしてしまって良いんですか? 危ないから、ばらばらに動いたらだめだって」
「ご心配なく。そのためにドアを閉めてきたのですよ。それに、貴方を待っている間も僕は外に立っています。あの部屋に何かあれば、十分駆けつけることはできますよ。この辺りからなら、よく見えますね」
 手のひらで示されたほうを見てみれば、壁面のガラスを越えて、書架の間からキヲトの後ろ姿が目に入った。珍しく帽子を脱いで、金茶色の猫のような髪が照明にさらされている。
 リコはなるほどと頷いて、化粧室へ入った。ついでに緩んだシュシュを結び直し、思い切り伸びをしておく。
 外へ出ると、化粧室に背中を向けて立っていたマルクが足音に気づいて振り返った。
「お待たせしました」
「いいえ」
「……あの、マルクさん」
 歩きだした彼を、数秒迷ってから引き留める。リコはちらとガラスの向こうのキヲトを見て、訊いてよいものだろうかと躊躇いながら口を開いた。
「キヲトさんは、わりとよくここへ来ているんですよね。いつもあんなに熱心に、本を読んでいるんですか?」
「ものによります。でも、イーリア伝承に関する内容のものを読んでいるときは、大体あのような具合ですね。イーリア伝承、ご存じですか」
 リコはこくりと、詳しいわけではないですが、と頷いた。
「空想巡業だって、大抵の人は詳しいとは言い難いです。とても昔の出来事で、記録書を読むだけでそれなりの知識が求められる。伝承として、おとぎ話のように語ることはできますが、歴史としてそれを解明しようという人はとても少ない」
「もしかして、キヲトさんはそれを……?」
「ええ。もう何十年も、個人で調べ続けているそうです。天空図書館には、他にない書物もたくさん揃っていますからね。特に古い時代の本に関しては、この世界で群を抜いて収集に力を入れています。必然的に、イーリア伝承の記録はここが一番多い」
「……」
「まあ、あの方はそれと渡り合うくらいの、個人収集家でもあるのですが」
 歩調を緩めて歩きながら、マルクはそう言って少し笑った。館長が寄贈をお願いしているのですけれど、いつも一蹴されてしまうんですよ、と、キヲトの背中を眺めてくたびれた声を出す。何日前だったかここで借りた本を手にして、イーリア伝承のことを口にしたキヲトの表情をふと思い出した。
 珈琲を間に挟んで、リコの相談やお喋りに付き合っていたときとはまったく別の、問い直すのを躊躇うような真剣な表情を。
「〈世界を通過するもの〉は、現代に残ったイーリアの遺伝子そのものです。彼らはときに僕たちの想像を超える事象を起こしながら、僕たちよりも長い時間を生きる。あの方は、自分たちが長く生きることには何か意味があるはずだと考えていらっしゃるのですよ」
「意味?」
「……先祖であるイーリアの遺した世界を、生命の長さに見合った知恵を持って、良い状態であり続けるように導き、維持していくこと。それが〈世界を通過するもの〉の生まれてくる理由ではないかと、前に仰っていたことがあります。知識を求め続けているのは、きっとあの方の中に、その結論が今も立っているからなのでしょう」
 かたんとかすかな音を立てて、扉が開かれる。マルクはリコを先に通して、後に続くように中へ入った。傍を通り抜けたときにようやく顔を上げたキヲトは、どこかに行っていたのかと驚いたように目を丸くする。リコはええ少し、と笑って、もう一度席についた。
「――――……」
 図鑑を広げると、名前も知らない植物や見たこともない鉱石が溢れている。すべてこの世界の、イーリアが最初に創り最後に見つめたと言われる世界の、固有のものだ。
 ぼうっと見ていると沈黙に突然、それらが躍り出てきて自分を飲み込んでしまうような錯覚に陥って、リコは二度三度、瞬きをした。視界の端に焦げ茶色の、頁をめくる袖が揺れている。

 天空図書館を出ると、空はすでに彼方が橙を帯び始めて、眼下に広がる雲海もその光を受けて金色に波打っていた。送迎の飛行船が黄昏を藍色に切り取って浮かび上がり、航路を定めて静かに下降していく。天空図書館の大地は、みるみる頭上になっていった。見送りに立っていたマルクの姿も、光に溶けて小さく、遠くなっていく。
「楽しかったですねえ」
 空想巡業の大地に降り立ち、再び昇っていく飛行船を見送ったリコは、空の眩しさに目を細めながら言った。
「それはよかったの」
「ふふ」
「何じゃ、いきなり笑いよって」
 キヲトの抱えた紙袋は、彼が振り返るだけでがさがさと音を立てる。貴重なものはほとんどが持ち出し禁止に指定されている図書館で、彼が最後に見つけだした三冊の本だ。いずれもイーリア関連の書物にしては珍しく、貸し出しが許されている。どれも以前に読んだものだが、久しぶりに読み返すと新たな発見があるかもしれないと言って、彼は退館時刻ぎりぎりに慌ただしく手続きを済ませた。
 どこかの土産物屋らしき、丈夫な袋に入っている。カウンターの灰影の女性が、よろしければとくれた袋には、掠れた青のインクで帆船が印刷されていた。
「何でもありませんよ。ただ、キヲトさんって親切だなって、改めて思っただけです」
「親切?」
「はい。図書館に行けたのは、キヲトさんのおかげですし」
「……手を貸したことは事実だが、ただのついでじゃ。お主も分かっておろう」
「ええ。でも、私にとってはとても親切でした」
 やんわりと繰り返すと、キヲトは怪訝そうに眉を寄せる。その疑わしげな顔が何だか新鮮で、リコは思わず笑いをこぼしながら、短く付け加えた。
「でも、迷惑ではありませんか」
 一瞬、向かい風に乗せられてその言葉は風下へ流されていったかに思われた。歩きだしたキヲトが、一拍遅れて振り返る。帽子のつばが風に煽られて、裏地の紫が露わになった。夕暮れに染まり葡萄酒のように、赤みを帯びて翻る。
「なぜそう思う」
 立ち止まられて、正面から問われると答えないわけにはいかなくなる。リコは言葉を選び、ゆっくりと口を開いた。
「キヲトさんが私に優しくしてくださるのは、キヲトさんが〈世界を通過するもの〉で、私が観光客だからなのでしょう? ブラウン・カフェで初めてお茶をしたときも、言っていました。観光客は一層の心構えでもてなせ、って」
「……」
「〈世界を通過するもの〉だから、この世界のために、ここを訪れる人には親切に接していらっしゃるんですよね。旅行とか、観光とか、外からきた人には」
 親切な人だとは、出会ったときから感じていた。大きな手助けだけではなく、彼はいつも、それに伴う些細な事象も含めて気遣いをくれた。どうしてこうも面倒を見てくれるのだろうと、安堵する傍らでふと思ったことは一度ではない。今日、天空図書館でマルクの話を聞いて、それが分かった。
 空想巡業は、観光を主な産業として成り立っている街だ。〈世界を通過するもの〉である彼は、空想巡業を守るため、自分の行き着いた使命の一環として、観光客であるリコを助けてくれたにすぎない。
 そのことに気づいたとき、とても合点がいったけれど、同時に胸が痛くてすぐには言い出すことができなかった。雲を針で突くような、かすかなものだけれど確かに痛みがある。どうしてそんなふうに感じるのかは分からない。けれど今も、リコの胸は同じ痛みを覚えている。
「私、大丈夫ですよ。心配しなくても、もう充分よくしていただきました。もう一人でもきっと、多分、迷子にはならないし、楽しい思い出もたくさんいただきましたし」
 言葉が、思うように上手く繋げられない。いつもは意識などしなくても喉を通ってゆく声が、意識しなくては赤信号に止められたように停滞してしまいそうだ。
 リコの思いと言いたいこととは、それぞれ一つずつ。迷惑に思われるほど、これ以上キヲトを拘束したくないという思いと、自分は大丈夫だということだけだった。
 飛行船で地上に戻る間、ずっと考えていたのに、何だか上手く伝えることができなくてもどかしい。ごまかすようにえへへ、と笑ってみせれば、キヲトは長いため息をついて帽子を押さえた。
「……やれやれ。何を黙り込んで、真剣に考えておったかと思えば」
「ふふ」
「しかし、そうじゃの。少々疲れたかも知れぬ」
「……っ」
 微笑みを浮かべたまま、リコは穿たれたような胸の痛みに息を止めた。あれ、と困惑して、心臓を隠すように両手を握りしめる。
 自ら言ったことが肯定されただけで、なぜこんなにも悲しくなりそうなのだろう。俯いたリコの視界の中でブーツが一歩動き、去っていくかと思われた爪先が、再びこちらへ向けられた。
「――珈琲が飲みたい頃合いじゃ。少し付き合え」
 自分がどんな表情をしているかも忘れて、驚きに顔を跳ね上げる。してやったりというように笑みを浮かべて、キヲトは赤く染まる階段を背に、リコへ向けて口を開いた。
「小生は確かに、この空想巡業が良き姿であり続けるためには観光の力が不可欠であり、それを維持することも我が努めの一つだと思っておる。だがな、観光客の一人一人を自ら案内して回るほど、暇なわけではないぞ」
「え、えっと……?」
「第一、責務で連れていったのなら、小生の都合に合わせて読書などさせるわけがなかろう。もてなす立場で見ているうちは、目の前で本など読まん。構わぬと思ったから、連れていったまでじゃ」
 淀みなく遠回りに語られる言葉を、理解できるまでに一瞬の間が開いてしまう。瞬きをすると彼は背中を向けて、今度こそ階段を上り、石畳の路地を目指して歩いた。
 追いかけると、わずかに歩調が緩められる。話は終わったとばかりに口を閉ざしてしまったキヲトを見て、リコは初め、彼が何か怒っているのかと勘違いしそうになった。だが、ふと隣へ立ったとき、そうではないのだと分かった。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -