ブラウンシュガー・テイルX

「明明後日は、何か予定はあるのか?」
「いえ、まだ何も」
「ならば行くか? 天空図書館へ」
「……へっ?」
 一瞬、何を言っているのか分からなくて、声が裏返ってしまった。たった今そこに行くのが予約制だとか難しいとかいう話をしていた気がするのだが、どこかで食い違いがあっただろうか。
 ですから私は予約が、と戸惑うリコをじっと見て、キヲトは「ただし、」と口を開いた。
「書架の間ではふらふらするでないぞ。あの中で迷子は洒落にならん。一度でもはぐれたら紐を結ぶ。よそ見はほどほどに、見たいものがあるときは声をかけてから立ち止まれ。中では三時間ほど過ごすが、あまり自由に歩き回らせてはやれん。読書が得意でないなら、何か時間を潰せるものを持ってこい。――これだけ条件が増えるが、行きたいか?」
「そ、それで行けるなら……?」
「そうか。では担当の司書に交渉しておく。明明後日の昼に、ここで待ち合わせるぞ」
 キヲトはそう言って、珈琲カップを傾けた。数秒、ぽかんとしていたリコがようやく時間を取り戻したように目を見張る。最初にしたことは、満月ケーキを飲み込むことだった。噎せなかったことが奇跡だと頭の片隅で思う。
 それくらい、衝撃の大きな約束が今、された。
「え、ええっ!? そんなこと大丈夫なんですか……? だってさっき、司書さんが一人に一人ずつつかないとならないって……!」
「原則、と言ったじゃろう。ようは別々に動かなければ良いだけの話じゃ。まあ、本来は友人であろうと親子であろうと夫婦であろうと、人数に応じた司書が対応するものだが」
「やっぱり……、それ、許してはもらえないような気がするんですが」
「いや、九割がた可能だと思うぞ。幸い、小生の顔見知りの司書は優秀でな。あれの担当だと言えば、恐らく特例で許可が出るじゃろう。あとは一つ、理由を挙げるならば――」
 カップがソーサーに戻される音が、小さく響く。
「小生自身、昔は天空図書館の司書をしておった。つまり、本来は護衛などつく必要がないのだ」
「は……」
「マルク、ああその担当の司書の名じゃが、マルクは実質そなただけ護衛しておけば良い。これで許可が下りないのであれば、天空図書館は相当頭が固いとしか言えんの」
 リコはもはや何から言えばいいのか分からなくなって、呆然と目の前の人を眺めた。〈世界を通過するもの〉、ブラウン・カフェのオーナー、天空図書館の元司書で、読書と珈琲の愛好家。情報が些か混乱しそうだ。頭がそろそろぐらつきそうになってきている。
 何かと特筆すべき点の多すぎる青年を見つめて固まっているリコに、マスターが苦笑して、水のおかわりを注いだ。
「旦那さま、お嬢さんが動かなくなっていますよ」
「彫刻のようじゃな」
「そりゃ、誰でも驚きますでしょう。貴方は色々と、経歴が多いのを自覚されてください」
「ふむ、そうなのか? 長く生きておると、仕方なしに手を出したものも少なくないのでな。司書だって百年は昔の話じゃ。あの頃は、内部に入るしか禁書庫を開ける手だてがなかった」
「それでスペアキーを作ったのが発見されて、辞めることになったのですよね」
「けちくさい話じゃ、あるものを読んで何が悪い。もっとも、今は申請が通れば大体は読むことができる。禁書とは名ばかりの、良い時代になったの」
 満足げにそう言って、キヲトは二杯目の珈琲を所望した。マスターが再び、カウンターに背を向ける。リコはまだ少なからず驚きを引きずってはいたものの、満月ケーキを頬張れる程度には持ち直していた。カフェオレはまだかすかに、温かさを残している。
 ふと、キヲトがリコの手元に向いていた視線を落とし、瞬きをした。
「む?」
「どうかしましたか?」
「そなたのそれは、雫石か?」
 それ、と指し示された方向を目で追いかけて、リコも思わずあっと声を上げた。カウンターにかけた日傘の、柄に寄せて束ねた骨の先で雫石が点々と輝いている。
 珊瑚の群生する浅瀬を思わせるエメラルド・ブルーの光は、この街に雨を降らせるヲルガンクジラが近づいている証拠だ。
 リコは日傘を握りしめて、跳ねるように椅子を降りた。
「通り雨だと思うぞ? 慌てずともすぐに――」
「ヲルガンクジラが見られるかもしれないんですよねっ?」
「は?」
「あの、マスターさん! すみません、すぐ戻ってきますから、外を見てきてもいいでしょうかっ」
 いてもたってもいられずに、カウンターの奥に向かって頭を下げる。マスターは「どうぞ」と振り返って、足下から透明の傘を出してリコに渡した。
「その傘では濡れてしまうでしょう。よかったら、こちらをお使いください」
「いいんですか?」
「ええ。傘の向こうに雨を見るのも、なかなか良いものですよ。ドア、開けたままで構いません」
 礼を言って受け取り、厚い木のドアを押し開けて外へ出る。すでにぱらぱらと、小雨が降り始めていた。リコは借りた傘を広げようとして、自分の日傘まで抱いたまま飛び出してきてしまったことに気づいたが、構わず上空へ目を凝らした。雫石は輝きを一層目映いものにしている。どこか近くの空に、鯨のお腹が見えるはずだ。
「先ほどまで固まっていたのが、嘘のようですね」
 マスターがくすりと、キヲトに珈琲を出しながら言った。
「まったくだ。好奇心旺盛で、犬のような娘じゃの」
「ははは、可愛らしいではありませんか」
「……面倒なことだ。ここまで手を貸すつもりで助けたわけではなかったのだが」
 頬杖をついて外へ目をやり、キヲトは焦げ茶色の髪が流れる千鳥格子の背中に言葉を区切った。透明の傘の向こうで、リコが頭を上げる。
「……ヲルガンクジラの、鳴き声じゃの」
 どこからか高く、柔らかい音が雨と共に流れてきた。薄い水たまりがリコの足下で光る。
 キヲトはふと笑みをこぼして、珈琲に手を伸ばした。空気のように身に馴染んだ香りに紛れて、わずかな雨の匂いが漂っている。


 翌日は気温も低く、日傘のいらない曇り空だったので、リコは思い切って瑠璃の森を歩くツアーに参加した。最深部までは行けないが、途中の湖畔で休憩を挟んで、半日かけてたっぷりと近くの遺跡も巡る。手土産に一つずつ、瑠璃の森で貝殻を拾うことができた。リコはニッコウガイのような薄紅色の貝を拾って、小物入れに加工することもできると聞いたが、これはそのまま持ち帰ることにした。
 五日目は午前中を西の一帯で過ごし、ブラウン・カフェに寄って昼食を取った後は、宿に帰ってしばらく昼寝をした。蛍石公園で開かれる、夜市に行ってみたかったのだ。
 夕方に起きて服を整え、心なしか大人びて見えるように髪を低い位置で結び、昼市の明るさとはまた違った賑わいの中へ出かけていった。煌びやかでどこか怪しげな、色とりどりの布や骨董を売る店に紛れて、芸や歌、お芝居などが実演で売りに出されている。見たら買ったことになるんですかと訊ねたところ、契約をする相手は酒場やサーカスだから、見ていくだけならキャンディでいいよと言って鞄を指さされた。
 一体、どうして鞄の中にミルクキャンディが入っていることを見抜かれたのだろう。まるですべてが一連の手品だ、と感嘆しながら、リコは拍手と共に彼へキャンディを贈った。
 夜市は昼市よりも華々しく目を奪うものが多く、気づけば零時はとっくに回って、リコが宿へ帰って眠る頃には深夜二時に近くなっていた。夜市そのものは、明け方の四時まで続いている。さすがにそこまで起きている自信はないものの、横になって目を瞑ると赤や黄色や紫が飛び交って、気分が高揚してなかなか眠れなかった。
 そして、六日目の今日。いつもより何時間か遅く目を覚ましたリコは、食事と身支度を済ませて予定通り、昼の少し前に〈銀の月〉を訪ねた。
 今日はキヲトと、天空図書館に行ける約束の日である。

「うわああ……!」
 ごうんごうんと左右に広がった、胸びれのような羽を動かして、今しがた自分たちを乗せてきた飛行船が遠ざかってゆく。浮遊都市である空想巡業の、そのまた東の上空に浮かんでいる天空図書館へは、三時間に一度のペースで送迎の飛行船が出されていた。地上へ戻る客を乗せて、ゆっくりと降下していく。リコは追いかけるように石の塀へ駆け寄って、格子になったその間から真下に広がる景色を見下ろした。
 眼下には空想巡業の街が、ジオラマのように浮かんでいる。一昨日あれほど時間をかけて歩いた瑠璃の森も、すっかり慣れた商店街も、ここから見ると一皿の上の料理のように小さく見える。昼市の風船売りが、七色の点のように立っていた。地図を見ても気づかなかった川や橋、時計台などが、そろそろこの街を見慣れたつもりになっていた目に次々飛び込んでくる。
 空想巡業の大地の下は、どこまでも続く雲海だ。稀に切れ間から覗く青は、さらにその遙か下にある、海の群青である。空想巡業はかつて一度、あの海に落ちた。古代文明がその際に一度絶えているというのは、リコの世界の書物でも知ることのできた、比較的有名な話だ。
「足が竦んで動けなくなったら、ここに置いてゆくぞ」
 数歩後ろに立って待っていたキヲトが、痺れを切らしたようにぼやいた。
「平気ですよ、綺麗だなって思ってたんです。キヲトさん、もしかして高いところは」
「別段、好む理由がないというだけじゃ。小生は煙とお主とは違うのでの」
「煙と……? あっ、それひどいです。私だって、そんなことありませんっ」
 言葉を返そうとして振り向けば、彼は待ちきれなくなったのか、すでに図書館の入り口へ続く階段を上り始めていた。待ってください、と追いかけたが、こういうときだけ歩みが速い。
 息を切らして上りきったリコが顔を上げると、彼は入り口で、深い緑の軍服のような服に身を包んだ青年と挨拶を交わしていた。
「おや、そちらがご紹介の」
「ああ、急な話ですまぬな」
「いいえ、事情は伺っております。――リコ様」
「はっ、はい!」
 明るい茶色の、日に透ける髪を覆っていた帽子をとって、彼は右手の白手袋を外し、無駄のない動作で一礼した。
「本日、担当させていただきます。天空図書館第一司書の、マルクと申します。どうぞよろしく」
 求められるがままに握手に応じて、リコはこくこくと忙しなく頷いた。とても人慣れした、丁寧な中にほんの少しの親密さを織り交ぜた話し方をする青年だ。ただ「司書」と聞かされて想像していた態度とはあまりに違って、執事か何かのような恭しさに動転してしまった。
 すっかり手も離されてから、蚊の鳴くような声で「お世話になります」と言ったリコに、彼はにこりと微笑んでキヲトを振り返った。
「館長と話した結果、本日は特別ということで。僕一人でも恐らく問題はないと思いますが、貴方もこれをお持ちください」
「おお、懐かしいな」
「でも、原則はお二人揃って、僕と行動をお願いしますよ。司書の指輪を貸し出して貴方を一人にしたなんて、館長に知れたら僕がお咎めを受けます」
「分かっておる。世話になっておるからの、お主に迷惑はかけん」
 青年の手からキヲトの手に、厳重な確認を経て渡されたもの。それはごろりと厚いブロンズの、幅広で飾り気の少ない指輪だった。
「司書の指輪じゃ。この前、ここの司書は魔法書を眠らせる力を持つと言ったが、正確には力というのは、この指輪に込められた術式でな。それを扱える者が、天空図書館の司書となるのだ」
「へえ……」
「感覚はとうに忘れたかもしれぬと思っておったが、意外と残っておるの。マルク、何かあっても小生はあまり気にするな。自衛くらいは問題なさそうじゃ」
 興味深げに覗き込んだリコに指輪を見せて、キヲトはマルクに、目線でリコを示した。マルクが笑って、無言で了解の旨を告げる。彼が「さあ、」と促すように手袋をはめて、姿勢を正した。
「中へご案内いたします。リコ様は僕の隣へ」

 天空図書館は一言で表すならば、本の迷路のようなところであった。中へ入るとすぐにロビーがあり、数種類の飲み物を注文できるラウンジになっている。貸し出し、返却の手続きなどもここで行われるようで、キヲトはまず本の返却をすると言ったので、リコは手続きが終わるのを待った。
 その間にマルクが、図書館全体の造りと、その他いくつかの話を聞かせてくれた。まず、天空図書館は三階建ての建物であること。通常の書架は大きく六部屋に分かれ、それ以外に四部屋、禁書室や古資料室、石版室が存在すること。魔法書室は日頃、鍵をかけているのだが、来館者が出入りする隙を見計らっての書物の脱走が絶えないこと。中には幻覚によって人をおびき寄せ、扉を開かせる書物もあるので、単に気をつければいいという一筋縄ではいかないこと、などだ。
 話を聞く傍ら、ふとカウンターの中で作業をしている職員を見て気づいたのだが、マルクは人間である。リコがそのことについて訊ねると、彼は昔、別の世界から「落ちてきた」のだと教えてくれた。空想巡業には基本的に、人間は生まれない。けれどわずかながら、人間が暮らしている。彼らの多くが自分と同じように、故郷から落下してこの世界で拾われ、ここで暮らすことを選んだ者なのだと。
「好きなところに暮らせば良いのです。貴方も、離れがたくなってしまったら、思い切って移り住んでみると良いですよ」
 冗談か本気か、ね、と微笑んで彼が言ったとき、返却を終えたキヲトが戻ってきてマルクの頭をはたいた。

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