ブラウンシュガー・テイルW

「15シェルになります」
 車掌と同じ格好をした店員の灰影は、リコの荷物をちらと窺って手提げの袋を用意した。
 今朝早く、リコの財布は手元に返ってきたのだ。ようやく観光と言える観光ができるようになって、宿を飛び出し商店街を歩いて、以前から気になっていた遊覧船へ駆け込むように乗った。昨日の夜、キヲトに連れられてジャックへ会いに行ってから、実に半日も待っていない。思いもよらなかった発見の早さに、頭が下がるばかりである。
 案内人の名を冠する彼はキヲトに聞いていた通り、声を発することのないランタンだった。だが、リコが半信半疑で事情を説明すると、二度三度と灯りを明滅させて街の中心へ向かっていった。何か持って帰ってきたら連絡しますよ、と案内所の人に約束してもらい、朝になって目覚めたら、ちょうど星影邸に連絡が入ったところだったのである。
 案内所へ走って、中身を確認したときの安堵は忘れられない。水先ジャックが喋らないのでどこで拾ってもらったのかは分からないが、財布はコインの一枚も減っておらず、リコが最後に手にしていたときのままの状態だった。
「ありがとうございました」
 写真集を手に、リコは上機嫌で昼下がりの街へと歩きだした。蛍石公園の市場を通っていこうと思い立って、案内板を見上げ、遊覧船を時計回りに辿って広い道へ抜ける。まもなく風船売りの手にする、色とりどりの風船が見えてきた。彼らは左手に風船を持ち、腰に水風船を提げる。蛍石公園の東西の入り口に立つ、南国の鳥のように鮮やかな昼市の顔だ。

 鞄に提げた水風船はリコの歩みに合わせて、右へ左へと揺れ弾んだ。閉じこめられた水が不規則に跳ね、時々涼しい音をさせる。日傘を差しているおかげで体は影の下にあったが、水風船はその覆いを飛び出して、路地の白い石畳に紅色の影を落とした。夕暮れに近づく街は静かだ。昼市もそろそろ店じまいを始めて、蛍石公園には夜市までの、
休息の時間が訪れる頃である。
 どこからかパンの焼ける匂いが漂ってきた。何とも言えない空腹を感じて、リコは辺りを見回す。小さな喫茶店の建ち並ぶ路地だが、どこも表通りと違ってドアが厚く、中の様子は見えない。摺りガラスのはめ込まれた入り口を覗いてみたが、営業しているのかどうなのか、いまいち確信が持てなかった。
「んー……」
 知らない土地というのは、こういうときに少し億劫だ。見知った場所と違って、とりあえず行ける場所というのがない。裏口のように狭いドアの並ぶ道をしばらく歩いていくと、緩やかな曲がり角に差しかかった。
 その角に、見覚えのある看板が吊されている。
〈喫茶・銀の月〉
 リコはようやく、この通りが以前にも来たことのある通りであったことに気づいた。商店街の一本奥の、初日に迷い込んでキヲトと出会った場所だ。あのとき、彼が出てきたのは銀の月ではなかったか。足早に近づいてみると、ここもまたドアは厚く不透明だったが、傍らに「営業中」と書かれたプレートが下がっていた。
「いらっしゃいませ」
 吸い込まれるように、真鍮のドアノブを引く。かすかな軋みを聞き漏らさずに、マスターが顔を上げた。その向かい、カウンター席に腰かけている先客と目が合った瞬間、リコは思わずあっと声を上げてしまった。
 薄暗い店の中でも焦げ茶色の帽子を目深に被ったキヲトが、そこに座っていたのだ。
「お知り合いですか」
 二人の顔を見比べて、マスターがキヲトに訊ねる。
「まあちょっとした偶然での。リコじゃ」
「失礼ながら、獣人……ではなさそうですね。もしや、外からいらした方ですか?」
「あっ、はい! 旅行で来てます」
「それはそれは。ああ、どうぞこちらに」
 白影のマスターは、薄暗い店の中では蛍の光が浮き上がるようにふんわりと発光して見える。その指先に導かれるように、リコはキヲトの隣に腰を下ろした。すぐに小ぶりのグラスに入った水と、メニューが差し出される。店内は珈琲の香りが四隅まで覆うように漂っていて、メニューにも深く染み込んでいるようだった。
「カフェオレと、満月ケーキでお願いします」
「はい」
 注文を受けると、マスターはケーキを切り分けに後ろを向いた。円形の、大きな黄色いスポンジケーキ。中にはドライフルーツやナッツがたくさん混ぜ込まれているが、外から見ると満月のようにつるりとして滑らかな、空想巡業の名物の一つだ。丸ごと買っていくには大きいので、機会があったらどこかで食べたいと思っていた。クリームも何も添えない、質素で家庭的なケーキである。
「夕べは本当にありがとうございました。ジャックさんのところに連れていってくださって」
「ああ、店の者から聞いた。無事、財布が手元に戻ったそうじゃな」
「はい。報告しようと思って朝、ブラウン・カフェに行ったんですけれど、お会いできなくて。オーナーはいつ来るか分からないから、来たら伝えておくって言ってくださったので、一応お願いしてしまいました」
「星影邸からも朝早く連絡があってな。件のご紹介を受けていたお嬢様ですが、きちんとお支払いがありました、と」
「わ、宿からもですか? じゃあもうこの話、何度も聞かされたようなものだったんですね。でも、やっぱり直接お会いできてよかったです。人づてにしてしまうと、何だかお礼を言えたような言えなかったような、中途半端な気がしてしまうから」
 店内はあまり広さもなく、客もリコとキヲトの他には誰もいない。満月ケーキが一足先に、リコの前に差し出された。マスターがカフェオレを作る音が響く以外、何の音もしない、静かな喫茶店だ。
「あの」
「む?」
「キヲトさんってもしかして、普段はあまりブラウン・カフェにはいらっしゃらないんですか?」
 六等分に切り分けられた満月の先の、細い三角にフォークを入れながら、リコはふと疑問に思っていたことを訊ねた。今朝、キヲトに行き合えなかったのでしばらく待ってみようかと迷っていたところ、顔見知りのウェイトレスにやめておいたほうがいいと言われたのだ。
 オーナーはいつ来るか、本当に分からない。その「いつ」というのは何時のいつではなくて、あと何日後のいつだから、待っているときりがないかもしれないわよ、と。
「言ったじゃろう。仕事と趣味とは、必ずしも一致するとは限らん」
「でも、ご自分のお店なのに」
「店としてはやっておるが、小生はああいう姦しい飲み物は嫌いじゃ。何が美味いのかよう分からぬ」
 あっさりと、何の躊躇もなく言い切って、キヲトは手元の珈琲を傾けた。ミルクの気配も砂糖の影もない、深い黒の水面がちらと揺れる。そういえば昨日も、最初のときも、彼は珈琲を飲んでいた。
 アルバイト先の喫茶店にも何人かいる、飲み物といったら珈琲ばかりの常連たちをふと思い出す。彼らはどんなに美味しくてもカフェオレなんて以ての外で、紅茶もジュースも揃えてあっても、ただ一言「珈琲」と頼むのだ。まるでそれが酸素か水のように、混じり気のない珈琲だけを愛している人というのは少なくない。
 不思議なものでそういう人々の髪や袖口からは、いつも何となく喫茶店の空気と同じ香りがしている。
「そういえば、キヲトさん」
「何じゃ」
「昨日の本は、あれから読み終えられたんですか?」
 この人もそうなのだろうか、と長い袖口に目を向けて、昨日はそのローブの下から分厚い本が出てきたことを思い出した。いや、と言ってキヲトがローブの内側に手を入れる。懐中時計のチェーンがかすかに鳴った。見覚えのあるレリーフのような背表紙が、焦げ茶色の幕のように厚い布地から覗く。
 マスターが会話の切れ目に、お待たせしましたとカフェオレを置いた。
「まだ途中だ。どうせ焦って一気に読み尽くしたところで、頭には入らぬ。明明後日の返却日に間に合えばよい、今は休憩中じゃ」
「どこの図書館のものなんです?」
「天空図書館じゃな」
 返ってきた答えに、リコは思わず両目を丸くして、カフェオレに息を吹きかけるのを忘れた。陶器のカップに注がれたばかりのカフェオレが唇に触れて、熱さに肩を跳ねさせる。
 呆れた顔で「何をやっておる」と腕を伸ばして、キヲトがカウンターの端にあったペーパーナプキンを一枚差し渡した。じりじりとまだ熱さの残る唇を押さえて、恥ずかしさに小声ですみませんと礼を言う。
「あの、少しびっくりしてしまって」
「見れば分かる」
「天空図書館って、あの天空図書館ですよね? キヲトさん、よく行かれるんですか」
「よく、というほどではないが、月に二度くらいか。他の図書館には、もうあまり目新しい本もない。あそこの蔵書は、やはり他とは一線を画すからの」
「は、はあ……」
「書架の数からして、小生が知る図書館の中で三番目に豊富じゃ。一、二は残念ながらこの世界の図書館ではないのでな。道楽にはなるが、手に入れても使いどころのない知識が増える。まあ、実践的な読書の合間で訪れるには丁度よい場所じゃ」
 月に二度はよく行くとは言わないのかだとか、目新しい本がないとはどれほど通えば言えるのかだとか、気になるところは色々とあったが、リコにはもう何から言ったらいいのか分からなかったので何も言わないことにした。書物が生み出される限り、読書家はどんな世界にもいるのだろうが、かつてここまでの「マニア」と呼ぶべき域の人に会ったことがあっただろうか。否、あるまい。あったら忘れているはずがない。
 自分も比較的、本を読むのは好きなほうだと自覚していたのだが、彼の場合は桁が違っている。リコは短いため息をついて、なるほどなあと頷いた。
「天空図書館って、そういう人たちにとっても役に立つような場所だったんですね」
「む?」
「いえ、どうりで予約が厳しかったんだなあと思って。私、旅行を申し込むときに来館予約をしようと思ったんですけれど、天空図書館の予約は私のいた世界からだとできなくて。空想巡業でならできるって聞いたんですけれど、私がこっちへ着いたときにはもう予約が埋まってしまっていたんです。図書館に入館制限があるなんて、って思いましたけれど、もしかして普通はなかなか、自由に行けないところだったんでしょうか」
 リコのいた世界は空想巡業から遠く離れていて、有名な観光地以外の情報はあまり豊富に揃っていなかった。以前から空想巡業に興味があっただけ、リコはあの世界では、大分この街に詳しかったほうだ。それでも実際に来てみると、欠片も知らなかったものがたくさん溢れている。
 天空図書館ももしかしたら、興味だけで行きたがるには場違いな場所だったのかもしれない。そうだとしたらとんだ無知だ、と俯いたリコに、キヲトはマスターと顔を見合わせて首を傾げた。
「観光客も、子供もよく見かけるが」
「えっ?」
「少々特殊な図書館ではあるが、あれは別に、誰でも行くことは自由だ。予約に制限を設けておるのは、その特殊さが理由じゃな。リコ、天空図書館が保管しておる十二の書を知っておるか?」
 頭の中を端から順番にさらってみたが、思い当たるものがない。リコはふるふると首を横に振った。
「あの図書館は、元々そのために作られたといっても良い施設なのだ。簡単にいうと、かの伝説の書物の魔女が遺したと言われる十二冊の本を護っておる。――が、これがなかなか癖のある本でな。魔法の力を持っていて、来館者に時々襲いかかる」
「え、ええ!?」
「まあ聞け。そこであの図書館には、それらの本を眠らせることのできる司書が集められておる。誰にでもできる仕事でもないのでな、今は二十人ほどしかおらん。その司書が、原則として来館者一人につき一人、護衛につくのが決まりなのじゃ。予約に制限が設けられておるのは、そういう事情だ」
 予想もしていなかった理由を知って、リコはすぐに返事ができないまま、首だけをこくこくと動かして頷いた。無知には変わりなかったが、どうやら自分の思っていた無知とは大分違ったようで、ほっとしたと言えなくもない。断られたのは敷居の高さを見誤ったからではなくて、単純に図書館側の決まり事だったのだ。
 残念だが、そういうことなら今回は運がなかったと諦めるしかないのだろう。
「しかし、予約者は観光客にも多いと聞いておるがの。お主の世界は、ここからそんなに遠いのか?」
「飛行船に乗って二日半かかります」
「……ふむ、遠いようだとは思っておったが、予想以上じゃな。イーリアの創った世界の、かなり末端のほうではないか」
「そうみたいですね。ここに来るのと反対方向に飛行船で半日も飛ぶと、時間や生物の概念の、全く違う世界になると聞きますから」
「空想巡業は、イーリアが創り出した世界にとっては核のようなものじゃからの。まして天空図書館は、その過去と叡知が詰め込まれた場所じゃ。想定外のものが紛れ込むことのないよう、境界に近いお主の世界からは、来館予約を受けないようにしておるのやもしれん。……しかし、となると次回もまた、予約は取れないかもしれないということじゃな」
 リコはもう一度、黙って頷いた。いつかは行ってみたい施設ではあるのだが、はたして行けるかどうか。二つの世界があと少し近ければ予約が申し込めるのだろうが、それができないことを悔しがったところでどうしようもない。
 飲みやすい温度に冷めたカフェオレを口に運び、満月ケーキにフォークを下ろす。小さく刻んだ砂糖漬けのオレンジピールが、白い皿の上にこぼれた。

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