ブラウンシュガー・テイルV

「観葉植物は私たちが選んでいますが、それ以外の内装はほとんど、オーナーがお選びになっています」
「おい」
「色々な世界へ行かれますからね。ここで手に入れたものも、そうでないものもあるそうですよ。でも、ガラスは大体この街でしたっけ」
「うむ。そうだがなぜ、お前が説明する」
「とても興味をお持ちでしたから、オーナーが適当に話を流したらお可哀想だと」
「口の減らぬ奴め。いいから仕事に戻れ」
 ウェイトレスは「はい」と笑って、丁寧に頭を下げた。リコにもふわりとお辞儀をしたので、慌てて返す。
 衝撃と感激で頭の中がまだぼうっとしていて、リコはその惚けた状態のまま、視線をキヲトに向けた。居心地が悪そうに珈琲カップを傾け、眉間に皺を寄せて脚を組んでいる。この人が、ブラウン・カフェのオーナーだったとは。
 ようやく、最初に「代金を払う必要はない」と言っていたことに合点がいった。
「あの、キヲトさん」
「む?」
「お茶、ご馳走してくださってありがとうございます。おかげさまで少し、気分が落ち着きました」
 まだかすかに温かい水面へ口をつけて、お礼を言う。事実上、彼に出してもらったようなものだ。はっきりと言われなかったせいで、否、そのおかげで、何がなんだか分からないままにここまでついてきてしまった。今は少し、甘いお茶の香りとこの店のゆったりした空気に触れて、考える余裕を取り戻している。噴水の前で彼に行き合えなかったら、自分は今ごろ濡れた袴を引きずって、どこかの道を途方に暮れながら歩いていたのかもしれない。
 最悪の想像ができるということは、今が少なくとも、その最悪からは大分離れた状態にあるということだ。そう前向きに捉えようとしたリコに、キヲトは盛大なため息をついた。
「礼なら、最後にまとめて言え」
「最後?」
「お主、財布が見つかるまでの間、食事はどうする気なのじゃ。よもや、ここまで手を貸しておいて、小生がそれに気づかず放り出すとでも思っておるわけではなかろうな?」
 二歩、三歩と先回りするように言葉を詰められて、リコは「うっ」と唸ったきり、キヲトから視線を外した。そこは、考えないようにしていたところだった。水先ジャックが戻ってくるまで、あと二十四時間と少し。鞄に入っているわずかなお菓子でやり過ごせるかどうか、重大な問題ではあるがそこまで言い出すわけにもいかないと黙っていたのだ。
 宿が使えるだけでも、十分ありがたい。空腹くらいは乗り切ってみせようと唇を引き結んだリコの前に、ことん、と小さな箱が下ろされた。
「サンドイッチお待たせいたしました」
「……は、へ?」
「冷めてもしっかり、美味しいですよ。お夕飯にどうぞ」
 灰影のウェイトレスが、ぺこりとお辞儀をして去っていく。茶色と白の、品のいいテイクアウトの箱を見つめたまま、リコは唖然として口を開いた。
「い、いつのまに?」
「先ほど、水を注ぎにきただろう。お主があれを受け取って、ミントが浮くのを眺めておる間にの」
「そんな……、こんなの申し訳ないです。私、お財布がちゃんと返ってくるかどうかも分からないんですよ? 戻ってくれば返しにこられますけれど、万が一だめだったら……」
「――リコ」
 戸惑い、早口になるリコの声を遮って、キヲトは帽子に手をかけた。広い鍔が動いて、目元に落ちていた影が退く。
 葡萄色の、静かで真っ直ぐな眸が正面からリコを射抜いた。
「そなたは少し、見ておれんな」
「はい……?」
「礼儀と嘘は同義ではないぞ。連れ合いもなく、見知らぬ土地で腹を空かせて倒れることを避けるのと、小生に慎み深く見られるのと、どちらが大切なのだ」
 はっとしたように、リコが唇を固く引き結ぶ。
 キヲトは再び脚を組み直して、帽子を目深に被ると、わずかに和らげた声で淡々と続けた。
「与えられる助けは、甘んじて受けるべきときもある。お主がここへ来たのは、つまらぬ無理を張って倒れるためではあるまい」
「……はい」
「楽しむために、来たのだろう。それならば、もっと貪欲に、いっそこの事態を満喫する程度の気概を携えておるべきだ」
「満喫?」
「そうとも。状況は良いとは言えぬじゃろうが、どうとでも転べる余地はあるではないか――何、少なくとも絶望的な困難ではなくなった。そうであろう」
 サンドイッチの箱を指先で弾いて、キヲトは笑う。挑発するような笑みの裏でかけられている言葉の真意を理解して、リコは思わず袴を握りしめた。
 始まったばかりのこの旅行は、さっそく行き止まりか、沼地に両足を突っ込んでしまっている。けれど、まだどうとでも転べる余地がある。そう、今ならば。
「本当に、いいんですか?」
「時にはそういう縁もあろう」
「お願いします。お財布が見つかるまでの間、私を助けてください」
「ああ」
 船が目の前にある、今ならば。
 差し出された手を取るような思いで口にした頼みは、初めからそのつもりだとでも言うように、あっさりと受理された。恐らく彼は本当に、噴水の前で自分を拾ったときから多少の面倒を負うつもりでいたのだと分かる。迷いのない態度のそっけなさが、かえってリコの背中を叩いた。
「でも、」口を開くと、キヲトが顔を上げる。
「万が一、お財布が戻らなかったときのために。何も返せないのは私が辛いので、できることをさせていただきたいです」

「いらっしゃいませ、ただいまご案内いたします」
 ブラウン・カフェの店内に、はきはきと明るいリコの声が響き渡る。午前十時、開店と同時にぱらぱらと埋まり始めた席は、一時間も経たないうちにほとんど満席となって、あちこちでハーブティーの香りが立ち昇っていた。注文を告げるベルが鳴らされ、灰影のウェイトレスが足早に行き交う。
 メニューを手に、その中をゆったりと進んでいったリコは、窓辺の空席で立ち止まって笑顔を浮かべた。
「こちらのお席でよろしいですか?」
「ええ」
「メニューを失礼いたします。こちら、本日のケーキセットは甘栗のシフォンケーキです。ご注文がお決まりになりましたら、ベルを鳴らしてお呼びください」
 若い灰影と獣人の二人組は、人間の店員であるリコを少々珍しそうに見たが、ケーキのメニューに視線を移して席へついた。水を出し、荷物入れを置いてキッチンのほうへ戻る。
「リコさん、ちょうどいいところに」
「はい、なんでしょう?」
「三番テーブルに、これを持っていってもらえない? あと、お水のおかわり」
「はい」
 休む間もなく、すぐにまたティーポットを持ってホールへ出た。ガラスのポットの中で青々と揺れているお茶の名前は「天空」。隣で揺れている紫と紅のグラデーションが美しいお茶は「夕星」だ。間違えないよう、心の中で復唱しながら席へ向かう。そのリコの胸には今、ブラウン・カフェの店員であることを示すブローチが留められていた。
 昨日、リコが食事のお礼としてキヲトに出した提案。それが、ブラウン・カフェでの一日アルバイトだった。時給を受け取らない代わりに、財布の行方が掴めるまでの食事をここで賄わせてもらう。三度の食事から軽食、飲み物まで、あらかたのものを。
 仕事を手伝いたいと聞いたキヲトは当然ながら渋い顔をしたが、リコには自分がそこまで足手まといにはならないだろうという自覚があった。元の世界で、喫茶店のアルバイトをしていたのである。学校へ通う傍らのことなので一日一日の時間は短かったが、週に三日、三年近く勤め続けていた。表のことはどうか分からないが、裏方であれば猫の手くらいにはなるだろう。洗い物や買い出し、氷の用意など、ホールに出なくてもやることはたくさんある。
 しかし話を聞いていた灰影のウェイトレスが、恐れながら、とキヲトを遮って話に加わったのである。ホールに出ているウェイトレスが明日は一人少ないので、簡単な作業を振り分けて、リコにもホールへ出てもらいたいと言うのだ。まさかそれは、と思って成り行きを見守っていたら、キヲトはあっさりと許可してしまった。一体なにを考えて、と動転したが、理由はすぐに判明した。
 どこにしまってあったのか、ローブの下から取り出された分厚い古書をテーブルにのせて、珈琲を所望する。どうやら彼は、そろそろ話をまとめて本を読みたかったらしい。
「リコさん、ちょっと」
「はあい!」
 そんなわけで、リコは他の店員たちに混じって、昨日初めて訪れた店でウェイトレスをしている。制服も貸し出され、多少の研修を受けた。慌ただしく呼ばれて奥へ行くと、パンを焼いていた白影の女性が振り返る。彼女は灰影の人々より色が薄く、ともすれば日差しに溶けて見えなくなってしまうので、ホールには向かない。もう何年も、ここのキッチンで働いていると聞いた。
「お昼休憩、先に入ってちょうだい」
「え、でも」
「いいのよ、ちょうどオーナーが来てるから。お礼を言っておいたら」
「キヲトさんが?」
「ええ、奥の席にね。ついでに珈琲、持っていって」
 エプロンを外して制服と分からないようにカーディガンをはおり、差し出されたトレーを受け取る。キヲトの珈琲は、ミルクも砂糖も入っていない。華々しいブレンドティーを中心とするブラウン・カフェの中で漂うと、どこか異質な深さを覚える香りだ。その隣にリコの昼食のクロックマダムと白蜜プリン、ほのかな洋梨の香りがするお茶「ゆうら霧」が載っている。
 冷めないうちに口にしたくて、リコは最奥のテーブルへ急いだ。
「キヲトさん」
 昨日は気づかなかったが、この席は観葉植物の陰になっていて、店内のどこからも自然と隠れる位置だ。今日も近くまで行ってようやく、その姿を認めることができた。
「本当に働いておるのか。律儀な娘じゃの」
「だって、昨日いいって言ってくださったじゃないですか」
「小生は構わぬ、そなたが何をしようと特に関係はない。だが、旅先で自ら熱心に仕事とは。分からぬ感性じゃと思ってな」
 やれやれといったふうに視線を向けられるが、険は感じない。珈琲を差し出しながらくすりと笑って、リコは答えた。
「実は結構、楽しんでます――って言ったら怒りますか?」
「ここの仕事をか?」
「はい。だって異世界の、たった一週間の旅行先でアルバイトなんて、なかなか経験できることじゃありませんから。ありがとうございます」
 キヲトがかすかに目を見張ったので、リコは満足した。お茶をこぼさないように気を配りながら、トレーを置いて向かいに腰を下ろす。
「おい」
「はい?」
「なぜ相席する」
「あっ、つい。ごめんなさい、だめでしたか」
「ばたばたするな。……いるのは構わぬが、今日は相手をしてやれんぞ。返却期限が迫っておるのでな。この本を読んでしまわねばならん」
 テーブルに出した本を軽く叩いて、彼は言った。昨日の本とは、厚みや表紙が違っている気がする。
「借り物なんですか?」
「これはの。……はあ、そうでなかったらどんなに良いか……」
「キヲトさん?」
「この古い活版印刷の技術、挿し絵のまだらな濃淡、斑の入った蔦の葉のような見返し、誰がいつ用意したのかも定かでない紗の栞……」
「え、ええと……?」
「イーリア伝承に関する書物は、古ければ古いほど信頼性が高くなる。手元にあるものだけで調べたのでは、まだまだ時が追いつかぬ」
 こぼされた言葉はリコへの答えというより、思考が偶然漏れたのを耳にしたような、そんな心地がした。空想巡業の古い言語だろうか。背表紙のタイトルはレリーフのように込み入っていて、リコにはそれが何の文字であるのかは分からない。
「ああ、そうだ」
「はい?」
「今日、仕事が終わったらここで待っておるようにの。ジャックのところへ案内してやろう。多分、あれと初対面で会話をするのは至難の業じゃ」
 水先ジャックは今晩、正面玄関へ戻ることになっているという。彼がまたどこかへ出かけてしまう前に、財布のことを話さなくてはならない。
 お願いします、と頷いて、リコはゆうら霧を渇いた喉に通した。どこか山奥の家の裏庭で、朝に満ちている空気のような柔らかな香りが胸に染み渡る。キヲトは宣言通り本を広げて、今度こそ読書に没頭し始めた。ページをめくる音が、規則的な鼓動のように響く。


「本日はご乗船、ありがとうございました。まもなく空想巡業、中央商店街前に到着です。係りの者が灯りをつけて回りますので、どなた様も今しばらく、お座りのままでお待ちください――」
 地底遊覧船に、ぽおっと灯りがともされる。灰影の車掌がリコの座席の近くへもやってきて、微笑む代わりに一礼し、寝静まっているライトをコンコンと叩いた。烏瓜の形をしたライトはゆっくりと目を覚ますかのように、青白い光を浮かべて辺りを照らし出す。同時に船は地底を抜け、眩しい午後の日差しが窓から降り注いできた。
 星の化石の眠る地底を巡る、観光客向けの遊覧船は、チケットが10シェルから求められることで地元の人々にも人気だ。一時間の船旅の途中に二度、地上の停泊所へ出られることもあり、空想巡業の中には移動手段として利用している人もわずかにいる。
 旅行も三日目になると、行き違う人が自分と同じ観光客であるのかそうでないのか、何となく分かるようになってきた。短い階段を下りて土産物屋へ入り、今しがた眺めてきた地底の星々を収めた写真集を一冊、レジへ持っていって鞄を開ける。

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