千年キネマT
連翹駅は二本の線路を、改札口が一つずつしかない、薄い屋根のついたバス停のようなホームが囲む無人駅だ。通っているのはこの辺り一帯を走る私鉄列車で、急行、通勤快速、快速は停まらない。
何色と表すべきかいまいち分からない、小豆色のペンキの所々剥げた柱には、ひらがなで「れんぎょう」と記されている。明るい緑の椅子の隣に、いつから立っているのかあまり記憶にない自動販売機が一台、使う人が少ないせいかやたらと綺麗に残されている。
〈シックスセンス・レディ――この夏、あなたの心を凍らせ、燃え上がらせる、愛とホラーと情熱のサスペンス〉
その隣で、梅雨のころから壁に貼られて色褪せてしまっている映画のポスターを、僕は剥がした。砕け散る硝子と暗雲渦巻く空を背景に、近年あまり見かけなくなっていた女優がどこか、斜め上を向いて微笑みを浮かべている。髪は明るい茶色に染めていたのが、夏を迎えた今となっては、すっかり金色に近い。彼女の赤い口紅だけが、僕の両腕ほどあるポスターの中で唯一、退色を感じさせずに華やかでいる。
お疲れさま。
心の中でそう口にしてから、僕はそのポスターを八つに畳んだ。持ってきた紙袋に押し込んで、代わりに丸めてあった別のポスターを出す。広げてみると、今度は往年の俳優が横顔を見せた。〈鷹〉――草むらの緑を抜く白い文字で、筆で書いたように大きくそう書いてある他は、ほんの一行の宣伝文句と公開日時の情報しかない。
新しいポスターを壁に貼りつけ、ホームのぎりぎりまで下がって、曲がっていないかどうかを確認する。次の快速列車がここを通過するまで、優にあと十五分はあるので怖くはない。わずかな曲がりを調整して、まあこんなものだろう、と一人頷く。
僕は紙袋を抱えると、列車を待たず、最も安い切符を通して改札を出た。
キネマ連翹座は連翹駅を出てすぐ、線路に沿って北へ三十メートルほど歩いた先の信号を渡って、喫茶店を二軒通り過ぎたところに建っている。
昔はこの連翹町で一番の「特別な気のする」場所で、待ち合わせにキネマ連翹座を指定するのがお洒落だった時代もあったそうだが、今となっては黒い壁が雨風にさらされて、忘れられたプレゼントのように建つ小さな映画館である。
上映料の比較的手ごろな映画ばかり流すせいで、話題性の強いプログラムはあまりなく、観客も日中はほとんど来ない。夕方すぎに、近くの学生や仕事終わりのサラリーマンが、金曜日などは少しばかりチケットを求めて列を作った。土日は混むかと思いきや、そんなことはまずありえない。遊びたい盛りの若い人や、家族を持つお父さん、お母さんなどは、たまの休日を連翹町で過ごすことはなく、各駅列車に乗り込んで三つ先の、ここよりは二回りほど大きな町を目指していくのだ。
僕はその寂れた映画館で、この春からアルバイトを続けていた。週に四日ほど、チケットやパンフレットを売る傍らで、ポップコーンを作る。
今どき珍しく既製品を仕入れないで、必要な分だけポップコーンを作っているキネマ連翹座は、時々ポップコーンだけ求めにくる人さえいる始末だった。いちいちそんなこと、と言えないのは、そのポップコーンの代金ですら、この映画館にとっては貴重な収益であることを暗に館長から告げられているからだ。
館長は今年、五十になる岩井さんという男の人で、僕がいない日のそれらの仕事は全部彼がやっていた。キネマ連翹座には、僕と岩井さん以外に従業員はいない。映画の再生、照明を落としたり点けたりといった作業も、岩井さんがいないときは僕がする。
流れる映画と裏腹に、裏方は結構、事務的な作業だ。映写機はさすがに、自動装置化がされていて回さない。僕が回すのは、照明をゆっくり暗くするためのハンドルくらいである。
「いらっしゃいませ」
〈シックスセンス・レディ〉の上映日が今日で最後であることを知ってか、はたまたそういうわけでもなくか、一組の男女がドアを開けてやってきた。チケットを二枚渡して、僕がその場で切る。館内に部屋は二つしかなく、それぞれドアの前に白い電球を入れたランタンと、オレンジの電球を入れたランタンが吊るしてあった。
白のほうは、昔の日本映画が流れる。カップルはオレンジの電球のほうのドアをくぐった。
十分と待たずに、上映は始まる。僕は五分前までチケット売り場に立っていたが、それ以上の客が来る様子はなかったので、照明を落としてアナウンスを流しに奥へ回った。
暗い部屋に明かりをつけて、アナウンス、照明、映画再生の順にスイッチを押し、壁を見る。壁には〈シックスセンス・レディ〉の小さなサイズのポスターが、色褪せを知らず、空の雲まで鮮やかに残されていた。
明日になれば岩井さんが剥がして、たぶん〈鷹〉に貼り替える。微笑みを浮かべたままの彼女がどうなるのか、僕は知らない。僕は彼女の名前を知ってはいたが、特別に好きというわけではなく、この映画の告知で見かけるまでは、最近姿を見ていないということさえ気づかずにいた。
多分、僕だけでなく、大勢の人がそうだったろう。彼女は女優だが、名が知れているようでそれほどでもない、そういう立ち位置の人なのだ。一級の映画やゴールデンタイムのドラマへの出演はなく、たまの大きな仕事はこういう、B級映画の格別に不幸でも幸福でもないヒロインである。キネマ連翹座でアルバイトを始めて、このポスターのおかげで、初めてきちんとその顔を眺めた。
報われない立ち位置だ、と思う。
美しくないわけでは断じてなく、魅力がないわけでも、演技が下手なわけでもない。それなのになぜか、彼女はいつも、華やかな世界の一段下がったところで僕たちに向かって微笑んでいた。何が足りないわけでもないと思うのに、何かが彼女をそこからほんの一足、明るい場所へ押し上げてくれない。
僕は明日になればこのポスターが剥がされることに、少しだけほっとしていた。彼女の微笑みの晴れやかさは時によって、彼女自身の境遇とあまりに矛盾している気がして、僕には見ていられないときがあったからだ。
痛ましいと感じてしまう。僕には何が彼女を、女優であり続けさせているのか分からない。見ず知らずの素人にこんなことを思われてまで、頑張り続けている、という姿そのものが痛々しく、悲しい。
でも、それでも。
上映開始のビーという音を聞きながら、僕は一度、彼女の平たい口紅に触れた。
それでもいい。例え彼女と同じような、報われない努力をしては、安っぽいちっぽけな対価を神様から授けられて、一握りの人々の前で精いっぱいに笑うだけの生涯だとしても。
僕は、本当はキネマの裏側ではなく、内側で演じる俳優になりたかった。
梅雨の再来を思わせる、本降りの雨が朝から続いていた。キネマ連翹座の前の歩道は叩きつける水滴で絶えず鳴り続け、ヴェールのような雨の間を、ときどき列車が走り抜けては、遮断機と車輪の音が聞こえる。
月曜日の今日、キネマ連翹座は特に静かだった。
静寂に、靴底の雨粒が乾ききらない僕の足音だけが響く。チケット売り場のカウンターと、パンフレットを置いている棚を掃除して、はたきをカウンターの下に滑り込ませたとき。キィ、と入り口のドアが開いて、雨音が雪崩れ込んできた。
――来た。
現れた一人の客のシルエットを見て、僕は胸の内でそう言った。予感はあったのだ。紺色の傘を閉じて、シックなグレーのジャケットとズボンを身に着けたその人は、焦げ茶色の濡れたトランクをポケットから取り出したハンカチで拭いた。流れるような仕草でハンカチを裏返しに折り畳み、ポケットにしまう。
この間、約十秒。
紳士は最後に帽子を深く被り直して、こちらを向いた。彼の背後でドアが閉まり、雨音が急速に小さくなって、やがてほとんど聞こえなくなる。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、彼はごく浅いお辞儀を返した。
「只今のプログラムは、〈鷹〉と〈三年姉妹〉です。こちらは昔のモノクロ映画で、〈鷹〉の公開は本日が初日になります。どちらに致しますか」
チラシを並べて、答えを待ちながら、さりげなくその顔を見上げる。俯きがちで、大部分が大きな帽子の陰になっていてよく見えない。いつものことだった。
顔を知らないのに、僕がその人をその人だと覚えていられるにはわけがある。紳士は、その帽子とシャツの間に覗く首元だけが、やけにでっぷりと太くなっているからだ。
体のほかの部分にはそれほど肉がついているようにも見えないのに、なぜか顎の下だけ、どこまでが顎でどこまでが首か、境目が分からないくらいにたっぷりしてしまっている。彼はいつも、その窮屈そうな首元を、特注のようなシャツのボタンを一番上まで止めて、臙脂のストライプや紺の刺繍模様といったお洒落なネクタイ飾っていた。
「待ち時間の少ないのは、どちらですか」
「〈鷹〉ならば、あと十五分ほどで上映時間になります」
「では、そちらを。それと、水を一本ください」
もう一つ。僕が彼を「紳士」と呼んで覚えていられる理由として、大きな特徴がある。
彼は必ず、雨の日に――それも、普通の人々ならば外出が億劫になるくらいの本降りの雨の日に、キネマ連翹座にやってくるのだ。
かしこまりました、と言ってカウンターに背中を向け、飲み物が冷やしてあるケースを開ける。紳士はいつも、大体、ほとんどといっていい割合でチケットと一緒に水を求めた。彼に水を売るのも、何度目になるだろう。客の顔に興味の薄い岩井さんは彼を知らないと言うが、僕としてみれば、二度会ったら忘れようのない人である。
チケットとミネラルウォーターは、合わせて千五百円になった。紳士がいつも支払う金額である。彼は他の、オレンジジュースや緑茶といった飲み物には見向きもしない。食べ物にも興味はないようで、ポップコーンやフランクフルトを求めることもまずなかった。
明るい茶色の長財布から、千円札を先に一枚出す。次いで、五百円を出そうと小銭入れを開けようとしたとき。紳士の手が、何かに引っかかったようにくいっと動いた。
「――あ」
彼の手を覆っていた薄手の手袋が、小銭入れのチャックに噛まれたのだ。手袋は紳士がいつも、欠かさず身に着けている薄茶色のものだった。チャックを引こうとした紳士の手が、噛まれたままの手袋から勢いあまって抜け出す。
照明の下に現れたその手の形に、僕は息を呑んだ。
手袋は財布を離れて、紳士の足元に落ちた。彼はそれをすぐさま拾い上げ、元通りに嵌めた。何の変哲もない、薄茶色の生地に包まれた指で、紳士は今度こそ五百円硬貨を取り出して千円札の上に載せる。
僕は、その下に隠れている手が、四本指の緑色をして、水かきをもっていた一瞬の光景を、目の奥から消すことができなかった。
「驚かせて、申し訳ありません」
紳士が小声で、僕に言った。
「ですが、ご心配なく。私はただ、この新しい映画を楽しみたい。それだけです。どうか、このことはご内密に」
固まったままの僕へ、それ以上なにか言うことはなく、紳士は慣れた足取りでオレンジの電球の点いたドアをくぐった。彼の靴跡が残していった小さな水たまりを、呆然とした目で見つめながら、僕はやっとの思いで止めていた息を吐く。
彼の手は、まさしく蛙の手そのものだった。
手だけではないのだ。顎も、手袋を拾って起き上がったときに一瞬見えた口元も、すべてが大きな蛙のそれだった。