ブラウンシュガー・テイルU

「ありがとうございます」
「まったく、疲れたならばどこか店に入るなり、宿に戻るなりして休めばよかろう。それとも、帰り方が分からぬのか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……えっと」
 言いかけて、リコは言葉を濁した。言えない。財布をなくして、途方に暮れていました、なんて。二度目の出会いとはいえ顔を知った人に会ったことで、思わず言いそうになってしまったが、迷子とはわけが違っている。二度とも助けられ、この上さらに相談事など持ちかけるのは迷惑だろう。
「往々にして、子供が黙るのは非を認めたくないときと、どうしたらよいか考えることが限界になったときだ」
「はい?」
「娘、アンズのビスケットは」
 畳んだ日傘を握りしめ、黙り込んでいたリコは顔を上げた。葡萄色の双眸と、視線が重なる。
「だれのもの?」
 答えが、自然と唇からこぼれた。〈アンズのビスケットはだれのもの〉――ここへ来る前から、旅行ガイドで見てずっと興味を引かれていた風習だ。空想授業で誰かが「アンズのビスケットは」と言い、それに「だれのもの」と答えることは、ある一種のやりとりを交わしたことになる。
 お茶をしませんか。はい、いいですよ。そんな一つの会話が、成立したことを意味する。
「えっ、ちょっと待ってください! 私、今お財布が……」
 本物だ、という感動で答えてしまってから、リコは慌ててやりとりを取り消そうとした。だが、すでに歩き出していた青年は怪訝な顔をして振り返ると、ため息を一つ吐いて答えた。
「払う必要はない」
「え?」
「そなたも、小生もな」
 疑問符を大量に浮かべているリコを残し、彼はゆっくりと西へ向かって歩いていく。焦げ茶色の三角帽子が揺れるのをぼんやりと見ていたとき、ざばっと音がして、見れば噴水が満潮を迎えて溢れていた。
「ま、待ってください」
 リコは慌てて彼を追いかけ、走り出した。水に覆われた方解石が泡になって浮かび上がり、ウミユリが色を取り戻して、ラピスラズリが泳ぎ回り始める。瑠璃色の小魚は、最後に水を跳ねたブーツの踵を不思議そうに見上げて、噴水の周りで群を作った。
 細い坂道が、波打ち際を作り出して海をせき止めている。リコは彼に追いついて、その坂を上った。

 五分ほど西へ歩いて、青年が足を踏み入れたのは一軒の広々としたカフェだった。鉄の看板に蔓を巻くような文字で〈ブラウン・カフェ 空想巡業店〉と書いてある。西エリアで一番広い通りに面したその店は、クリーム色の壁に蔦が這い、アーチ型の窓が規則的に並んでいた。
「いらっしゃいませ」
 ドアが開いたのに気づいて、灰影のウェイトレスが振り返る。彼女はすぐにあら、という顔になって、深々と頭を下げた。
「こんにちは、お疲れさまです」
「うむ。邪魔するぞ」
「お席はどう致します?」
「構わぬ、いつもの所でいい」
 はい、と頷き、案内をするのかと思いきや、彼女は彼に道を空けてどこかへ行ってしまった。ふらふらと目でその背中を追いかけていると、早く来い、と呆れた声がかけられる。観葉植物の溢れる通路を進み、リコは店内を飾るホタルブクロの形のライトやガラスの瓶に目を奪われながら、最奥の座席に腰かけた青年の正面に腰を下ろした。
 ハーブと果物だろうか。店内には豊かな香りが満ちていて、吸い込むと胸の内側が虹色にいろづくようだ。先ほどの灰影のウェイトレスが、銀のトレーに水をのせて歩いてくる。
「ご友人ですか?」
「いや、色々あっての。そこで拾った。珈琲を一杯くれ。それと、何か適当な飲み物を」
「かしこまりました。ハーブティーでよろしいでしょうか?」
 卵の殻を上だけ切り取ったような丸みのあるグラスに、ミントの葉を散らした氷が浮かんでいる。表面を伝う水滴がその景色を呑み込んで揺らめくのを見て、リコは目を瞬かせた。
「おい、娘」
「へ?」
「お主に訊いておる。ハーブティーで良いか」
 問い直されて、ようやく彼らが自分の飲み物を選ばせてくれていたのだということに気がついた。慌ててすみませんと謝ると、ウェイトレスの彼女はいいえと微笑む。何かお嫌いなものはございますか、よろしければメニューをお持ちしましょうか。興味はあったが彼のほうがすでに珈琲と決めているようだったので、苦いものはあまり、とだけ言って彼女に任せた。
 かしこまりました、と頷いて、彼女は下がる。ブラウスと紺のスカートに茶色のエプロンをつけた、シンプルながら店内の雰囲気によく似合う制服だ。
「さて」
 水を一口飲んで、青年が口を開く。
「何か事情がありそうだが、あのような場所で何を座り込んでおったのじゃ」
「はい。あの、その前に、名前を教えていただけませんか?」
「名?」
「私はリコです。なんとお呼びしたらいいか、分からないので」
 青年はそこでようやく、リコと彼が互いにまだ名乗っていないことを思い出したようだった。気怠げな目を瞬かせて、ああとグラスに再度、手を伸ばす。
「キヲトだ」
「そうですか。キヲト様」
「ぶっ」
 彼は、飲み干しかけた水を噴きだして噎せた。背中を丸めて咳込み、信じられないとでも言いたげな顔でリコを見返す。
「キヲトでいい。名くらい普通に呼べんのか、お主は」
「だ、だって年上だって思って」
「いいから普通にせいっ」
「は、はい。じゃあえっと、キヲトさん」
 実際のところ、彼が〈世界を通過するもの〉であった時点で、外見は年齢を想定する材料にはならない。いくつ目上か分からない以上、多めに見積もっておくに越したことはないと思って選んだ敬称だったのだが、あまり気に入られなかったようだ。
 キヲトさん、と呼び直すとようやく返事をしてくれた彼に、リコはぽつりぽつりと現在の状況を打ち明け始めた。

「ふむ、なるほどの」
 温かな湯気を立ち昇らせる珈琲を口に運び、リコの話を聞き終えたキヲトは納得したように首を縦に振った。腕を組むと長い袖が重そうに垂れるが、彼は気にした様子はない。顔立ちのわりに骨張った手は器用に、カップを取るときだけ、袖口から覗いてまた潜っていく。爪の先に所々、書き物でもしていたのか、乾いたインクが染み着いていた。
「大方、そんなところかとは思ったが」
「え、分かるんですか?」
「お主の場合はの。目にも顔にも後ろ姿にも、何でもよく出ると言われるじゃろう」
 財布をなくしたことを聞いたキヲトは、さぞかし呆れるかと思いきや、驚いた様子を見せなかった。首を傾げたリコに視線を向けて、分からんのならいい、と言う。どうして考えていることが手に取るようにばれてしまうのだろうと思いながら、まあいいかとリコは頷いた。
 今はそれより、財布の行方を追う方法がないのか、空想巡業で暮らして長いのであろう彼に教えてもらいたい。
「失せもの探しは、水先ジャックの仕事じゃな」
「水先、じゃっく?」
「遥か昔から生きておる、魔女の使いだ。帽子を被って、小洒落たタイを結んだランタンでな。言葉は喋れないが、こちらの言うことは聞き取る。魔女が消えてからも、あれの中には魔力が残されているんじゃ」
「へえ……」
「ギルドに頼まれて夜の森を案内したり、観光客が迷うと商店街まで連れ帰ったりするおかげで、いつしか案内人という印象がつき始めての。どういう原理か分からぬが、奴はこの空想巡業をくまなく見渡すことができる。人を捜させるとすぐに見つけてきて、失せものを教えると、どこからともなく持ち帰ってくる。――昔は魔女の目だったのかも知れぬ」
 キヲトは話しながら、自分も何かを考えるように時々、間を空けた。このときも彼は珈琲の水面を見たまま黙ってしまったので、リコは数秒、何も言わずに待っていた。
 空想巡業で「魔女」といったら、恐らくは〈書物の魔女〉のことだ――有名な魔女なのでその名前だけはリコも知っている。ただ、それはほとんどおとぎ話や伝説に近い、謎が謎にくるまれて尾鰭背鰭を羽のごとくつけた存在だと聞いている。
 つまり、真偽は定かでない。実在したのかどうか、それさえも分かっていない。空想巡業にはそういう、不確かで曖昧なものが意外と多いのだ。この土地の人々は、伝承のうやむやさと気さくにつき合う。
 ティーカップを二度、三度と傾けていると、考え事はまとまったのか、キヲトが「兎に角、」といって口を開いた。
「ジャックに事の次第を伝えぬうちは、話にならぬ。じゃが、あいにく今日は外していての」
「え?」
「瑠璃の森を調査しておる発掘団が、洞窟へ入るために協力を頼んでおるのだ。確か三日間の同行で、明日の夜に帰ってくる」
「そ、それじゃ、もしかして……」
「……うむ、お主も間が悪かったの。今日明日は、よほどの運がない限り財布は戻ってこないだろう。一応、後で案内所に連絡だけは入れておくとよい。あまり期待はできないが」
 リコは愕然として、言葉をなくした。失せもの探しは案内所もジャックに任せきりじゃからの、とキヲトが告げる。つまり、水先ジャックという者が帰ってくるまで、自分は一文無しなのだ。予備の財布や、小銭入れはない。みんなみんな、あの財布に詰め込んでしまっていた。
「おい、娘」
「はい」
「そなた、宿はどこをとっている?」
 あれが手元に戻らない限り、何もできない。頭の中が張りつめたように真っ白で、せめて泣かないようにするので精一杯だ。灰影のウェイトレスが持ってきてくれた明るい林檎色の水面を覗き込んで、甘い香りに目尻が熱くならないようにしながら唇を噛みしめていたリコは、質問の真意を理解する余力もないままか細い声で答えた。
「星影邸です」
「ああ、あそこか。……お主、財布が戻れば必ず宿代を払えるのだろうな?」
「はい。それはもちろん。……あ、その、中身がきちんと残されていれば、ですけど」
「ふむ、ならば良い。小生から後で連絡を入れておく」
「はい、……へ?」
「どこの者とも知れぬ観光客が一人であたふたと説明するより、事前に証明が一言あったほうが、話が早いだろう。もっとも、お主がこの機会に野宿を経験したいというなら別じゃが」
「と、とんでもありません!」
 助けを撤回しようとするキヲトの発言を、リコは慌てて遮った。いくら眺めのよさそうな街と言えど、野宿なんてこれっぽっちもしたくない。石の上で眠るほど頑丈ではないし、一応、世間一般では花盛りと言われる年頃だ。
 ぶんぶんと顔の前で両手を振り回すと、キヲトが下を向く。黙り込んでしまった彼にリコが困惑していると、水を注ぎにきた先ほどのウェイトレスがたしなめるように言った。
「外からのお客様を、あまりからかってはなりませんよ。オーナー」
「……え?」
「観光で成り立っている街なのだから、旅の者は一層の心構えでもてなすようにと、いつも仰るではありませんか。オーナーだって、優しく致しませんと」
 氷が解けて、グラスの底でたゆたっていたミントが、水を注がれて浮き上がってくる。
「何を言うか。一人旅でなければ、とっくに放り出しておる。……よくこれで、一人で来ようなどと思ったものじゃな」
「素直なことは素敵なことです。珈琲はいかがいたしましょう?」
「いや、十分だ。ここへ来る前にも飲んだ」
 主語を曖昧にしたまま交わされる二人のやりとりを頭上に、リコはぽかんとしてキヲトを見つめていた。視線に気づいたのだろう、かすかに笑っていた気のする葡萄色の目がリコを捉えて、どうしたと訊ねる。
 焦げ茶色の目を瞬かせて、リコはええと、と戸惑いがちに口を開いた。
「オーナー、って」
「うむ」
「えと、何の?」
「ここの、じゃな」
 当たり前のことのように、キヲトは答える。手始めにテーブルを見て、それから床と天井を。続いて照明や瓶の並んだ棚、細いカウンター席と広々としたテーブル席。そこに並んでいる華やかなお茶と軽食の数々を見回して、最後に再びキヲトを見やり、リコは「ええっ」と驚きの声を上げた。
「言っておくが、仕事と好みは必ずしも一致しな――」
「すごい……!」
「は?」
「こんなに綺麗なカフェの、オーナーさんだったなんて。入ったときから、なんていい香りがするんだろうって思ってたんです。ブレンドティーの香りですか? それとも、空想巡業にしかない植物とか? でも、私の知ってる果物の香りも混ざっていますよね。
 ねっ、キヲトさん、あれってホタルブクロでしょう? 空想巡業にも咲いてるんですか? 商店街に灯り屋さんがあって、さっき私も見てきたんです。この街って、ガラスのものがとっても綺麗ですよね。キヲトさんが選んでいるんですか?」
 入り口の近くにあったライトを指さして目を輝かせたリコに、呆気に取られた顔をしてキヲトは店の入り口を振り返った。
 傍らで黙っていたウェイトレスが、面白いものでも見たようにふふっと笑う。彼女はリコのティーポットの横に、これを入れても美味しいですよとピッチャーに入った蜂蜜を並べると、キヲトのカップを下げてにこりと唇を上げた。

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