フラインフェルテ 番外・赤の独白W

 店にいる間に吹き出した風は次第に強くなり、家へ帰る頃には小雨を交えて地面を叩くようになっていた。葉擦れの音に雨粒が雑ざり、徐々に町を離れて木々の多くなった場所では、頭上を無数の礫が行き交うように騒々しい。時折吹き抜ける突風が窓を叩いては、今にもガラスを破るように唸って、また別の家の窓へ向かった。
 小雨とはいえ、しばらく浴びながら歩いたせいで毛先がしっとりと冷たい。頬に張りついた髪を払って、住宅地から一歩奥へ入った路地を曲がり、見えてきた自宅へ大股に足を進めた。
 だが、近くなるにつれて妙な物音が耳についた。がたん、と何かが倒れたような音と、本が落ちるような音。
(なんだ? 何やって……)
 物音はすべて、二階から聞こえてくるようだった。窓を見上げれば、深夜だというのに二階の小部屋に明かりがついている。カーテンの向こうでクッションのようなものが投げられたのか、影が横切った。一体、こんな夜更けに何を騒がしくしているのか。
 面倒だ、と舌打ちをしながら、鍵を開ける。突風がまた窓を叩き、その窓を内側から何かが叩いている音が響いた。本当に割られそうだ。これだからガキは、と思いながら足を踏み入れ、明かりを点けた。
「……!?」
 そこで俺は、足を止めざるをえなかった。
 愕然として目の前に広がる惨状を見渡す。本という本が床に散らばり、キッチンでは重い寸胴鍋が真横に倒れ、下にはスープが水たまりのように零れていた。食器棚の扉が両方とも開き、中に詰め込まれていた皿やマグカップがいくつも床に落ちて割れている。最も目を疑ったのは、本棚の前の長机が引っくり返されていたことだった。
 パリン、と二階で響いた音に、はっとして階段を駆け上がる。何が起こっているのかは分からないが、今この家で元凶と考えられるのはあの子供しかいなかった。ただ、長机はこの家に最初から備えつけられていたもので、非常に年季が入って重く、俺でも一人では動かすことがままならない。力任せになぎ倒したわけではないことは、酔いが醒めたばかりの頭でも予測がついた。
 だったら、何が。
「おいっ」
 ノックもせずにドアを開けると、予想外にそこは真っ暗だった。どうやら先ほどの音は、窓ではなく照明が割れた音だったらしい。開け放ったドアから斜めに差した光が、室内を真っ直ぐに照らし出す。
 ベッドの上で銀色の頭が、びくん、と震えた。
「お前……っ、何やってんだ」
 隠れるように潜ったガキに歩み寄って、布団を剥がす。一階と同様、二階のこの部屋も床一面にものが散らばって、割れた照明の破片が靴の下で音を立てた。抵抗するように、伸ばした手がはたかれる。何がどうしたというのか、まったく状況が掴めない。
 ともかく無理やりにでも聞き出そうと、逃げていく腕を掴んだそのとき。
「いやあっ!」
 金属のひび割れるような悲鳴と共に、こめかみをひゅっと冷たいものが掠めた。壁にぶつかり、粉々に砕けて散らばる。
 それは氷の矢を放つ、れっきとした魔法だった。まさか、とほんの一瞬それを見て驚いた隙に、また新たな矢が放たれる。
「くっ」
 寸でのところで身は躱したが、髪が一束、ばらりと血に代わって散った。
(詠唱もなしかよ……!)
 続けざまに放たれる攻撃を何とか躱しながら、片腕を掴まれたまま暴れている子供に目を向ける。赤紫の、これ以上ないほどに見開かれた目がこちらを見上げていた。
 その様子に、やはりと確信がいく。これは魔力の暴走だ。通常、魔法使いが魔法を使うためには呪文が必要になる。高位の魔法使いであったり、あるいは禁術によって力を高めていたりでもすれば別であるが、普通はなかなか詠唱を省くことはできない。
 しかし、唯一どの魔法使いにでもその芸当ができてしまう瞬間がある。それが、我を失って魔力の暴走を起こしているときだ。何らかの理由によって精神の箍が外れたとき、稀に起こす場合があるとは聞くが、実際に目にしたのはこれが初めてである。
「おい、落ち着け。俺だ。何があったんだ」
 対処の方法など知らない。だが、何かきっかけがあったはずなのだ。戸惑いながらもなんとか宥めようとするが、まるで言葉が何も通じていないかのように、ガキは嫌だ嫌だと繰り返しながら暴れている。下手に近づくと攻撃を躱せない。だが、このままでは埒が明かない。
「落ち着けって、おい――」
 意を決して、一か八か肩に手を伸ばした。そのときだった。
 ふいに向きを変えた風に乗って、雨粒が一斉に屋根を叩いた。一瞬、天井が降ってきたかと思うような音だった。瞬間、掴んだ肩が、手を跳ね除けるほどに大きく震えた。暗がりの中でも見えるくらい、はっきりと、ガキの顔が青ざめた。
「いや、やめて、来ないで……!」
「おいっ」
「来ないで、食べないで……っ」
「おい、ガキ。落ち着け、分かったから」
「いや、いや――」
 ふ、と手元に影が落ちる。頭上を見上げて、さすがにひやりと心臓が凍った。
 テーブル一つ分はあろうかという氷塊が、今にも落下しそうに揺れながら、きしきしと音を立てて膨張していくところだった。
「――っ、イズ!」
 突風が、雨を纏って窓を叩く。思えばこのとき、初めてガキの名前を口にした。どれだけ合わせても何も映さなかった赤紫の眸が、はっと色を取り戻す。手元を覆っている影が、ぐらりと大きく傾いた。
 迷っている暇はなかった。頭上へ手を翳して、呪文を唱える。俺の手から放たれた火は降ってくる氷塊を呑み込んで、大量の水の蒸発する激しい音を上げ、少し天井を焼きながらも何とか巨大な塊を相殺するに間に合った。
 間一髪だった、と息をつく。魔物との戦いでさえ、これほどまでに危機を感じたことはなかった。あ、と微かに震える声が、耳元で漏らされる。
 顔を上げると、呆然としてこちらを見ているガキと目が合った。
「し、しょう」
「……おう」
「あれ……? あたし、家に」
「ああ」
「壁が、壊れて。……あれ、魔物が、さっきまで」
 困惑したように、辺りを見回そうとする。両手で頬を押さえてそれを阻止し、俺は努めて淡々と答えた。
「それは、夢だ」
「ゆめ」
「嵐で寝つきが悪くて、うなされたんだろう」
「……師匠、は」
「窓が割れてねェか見に来ただけだ。いいか、魔物はいない。壁は壊れちゃいない。分かったら、目が冴えねえうちに寝ろ」
「……」
 布団を被せて、押し込むようにベッドへ戻らせる。ほんの何回かの瞬きの後、ガキは気を失ったように深く眠った。これだけ無茶な消耗をすれば当然か、と、ガキが無意識に放った魔法によって散らかりきった室内を見渡し、俺は嫌々ながら手を翳した。
 回帰の魔法は昔から、使えないわけではないが下手すぎてろくに使ったことがない。相性が悪いのか、通常の魔法使いの三倍くらいの手間がかかってようやく治るのだ。照明一つ直すだけでも、非常に面倒くさい。だが、今回ばかりは面倒がっているわけにもいくまい。

 俺はそれから昼ごろまでかかって、壊れたものをできる限り以前の状態に戻し、手の間に合わない部分に関しては捨てるなり適当に片づけるなりして、家を元の様子に近いところまで修復した。ガキは昏々と眠り続けて、昼過ぎに目を覚まし、一階へ降りてきた。
 意識が曖昧だった間のことは、ほとんど覚えていないようだった。それとなく昨夜の雨の話をすると、雨が降ったんですかと首を傾げる。気づかなかったならいい。流すようにそう答えると、そうですかと隈のついた目元を擦る。
 俺は少し出かけてくると、コートを着て家を出た。

 汽車を乗り継いで行った先は、首都にある本部。中央とも呼ばれる賢者たちの居所だ。俺は真っ直ぐその書庫に行き、東部の孤児院に入った子供たちの記録を調べ、イズの名前を探した。入った経緯から別の棚の資料を辿り、魔物に襲われたスーイ村の記録に目を通す。
 生存者、イズ・ファントム。発見時の状況の欄には、魔物の襲撃により倒壊した家屋の下で奇跡的に生存、と記されていた。
 記録の日付は、俺が討伐隊に加入するわずか二ヶ月前。
「……」
 報告書を元の場所に返し、書庫を後にする。昼中の町を駅へ向かって歩き、来たときと同じように乗り継いで、日が落ちる頃には家の近くの駅まで戻った。
 壁に寄りかかって一本だけ、煙草に火を点ける。俺はそれから、真っ直ぐに家への道を歩き出した。

「あ、おかえりなさい」
 帰ると、玄関先までトマトの香りが濃く漂っていた。キッチンに立っていたイズが、こちらに気づいて鍋の影から顔を出す。
 ちょうど寸胴の大鍋いっぱいに、鶏肉と南瓜のトマト煮込みが作られているところだった。回帰の魔法といっても零れたスープはどうなのだろうかと、昨日の夜まで残っていたはずのスープは処分してしまったが、それについて特に触れてくる様子はない。どこから引っ張り出したのか、俺でさえ在り処を忘れていた調理道具を次々と出して、黙々と料理を作っている。
「イズ」
「はい?」
「何時ごろできる」
 訊ねると、意味がよく分からないような顔をする。コートを脱いで椅子の背中にかけ、俺はその数秒間で、少し言葉を探した。
「今日は外で食ってこなかったんでな。俺の分も頼む」
「……!」
 赤紫の目が、珍しいものでも見たかのように瞬かれる。夕飯まで休む。そう言って自室に戻る背中に、細い声が「はい」と答えた。

 その日から、俺は夜に出かけるのをやめた。昼過ぎに起き、夕方から弟子と共に仕事へ出向き、夕食は家で取るようになった。
 半月もしないうちに、イズの顔からあれほど目立っていた隈はなくなった。そして――


「……匠、師匠ー。起きてくださいってば!」
「……あ?」
「あ、じゃないですよー。何時だと思ってるんです」
 ぺし、と肩を叩かれて、閉じていた目をうっすら開ける。途端、刺すような昼の日差しが瞼の隙間から入り込んできて、目の奥が焼けたかと思った。これだから昼は、とうんざりしながら瞬きを繰り返せば、だんだんと視界が馴染んでくる。
 ついでに、片脚に遠慮なくかけられている重みも自覚してきた。
「お前な……」
「はい、なんですかぁ」
「いや、なんでもねえ。何時なんだ」
 目の前に、すっかり見慣れた銀の髪が垂れ下がっている。明け方に自室のソファで横になってから、何時間かが経っていたらしい。伸ばした俺の脚の上にどっかりと膝をつき、いつから起こそうとしていたのか、すでに若干機嫌の悪い顔をしたイズが覗き込んでいる。閉まっていたはずのカーテンは大きく開けられ、雲一つない青空が太陽の存在を主張していた。
「十二時過ぎです」
「あー……」
「また朝まで起きてたんですか? ほんと夜型なんですからー」
 額に手を当て、その奥にちらつく残像を思い起こす。ずいぶん長い夢を見て、長く眠ったような気がした。子供の頃を夢に見るなんて、初めてのことではないだろうか。そもそも滅多に夢など見ない。珍しく見た夢が深すぎたせいか、まだ頭の中が重く、過去も現在も様々な記憶が混ざり合ったようになっている。
 あれから二年。三十になった俺は、今もこの家で弟子と暮らしている。
 ふと目を合わせれば、なんだと問いかけるような視線が返ってきた。うん、と一人、何だか妙に納得して手を伸ばす。
「五月蠅くなったなあ、お前」
「……ハイ?」
 フードを被っていない頭に手を置き、ぐしゃぐしゃとかき回す。イズがソファから飛び降りて抵抗したときにはもう、真っ直ぐに梳かされていた銀の髪は所々が跳ねていた。
「何なんですかぁ、いきなり。寝ぼけてます?」
「おー、言うようになったな」
「なんでちょっとにやにやしてるんですかー。寝起きで機嫌がいい師匠とか、何かの間違いとしか思えないんですけど……」
 胡散臭いものでも見るように目の上を平たくして、ため息をつく。乱れた髪を手櫛で直して、イズは俺が起き上がったのを確認すると、すたすたとドアに向かった。
「何でもいいですけど、お昼できてますからね。冷めないうちに来てくださいよー」
「……? 何の匂いだ、これ」
「鶏肉と南瓜のトマト煮込みです」
 はたと、瞬きをする。そういえば眠りの外側で、ずっと何か、覚えのある香りが漂っていた。
 懐かしむような夢を見た理由に、合点がいった気がした。
「着替えたらいく」
「はーい」
 ドアの向こうに出ていった背中を見送り、シャツを引っ張り出して、一人かすかに笑った。薄いカーテンを一枚引いて、昼の光を半分だけ遮断する。ぼんやりと明るい部屋の中で、キッチンから漏れ聞こえてくる食器の音を聞いた。
 今日もまた、一日がここから始まる。


赤の独白/終

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