フラインフェルテ 番外・赤の独白V

 それからの日々は特に苦痛だったかと言われると、覚悟していたほどでもない。一般の魔法使いとして仕事を請けていた頃よりは強い魔物と相対するようになったが、ひやりとするようなことはごく稀で、基本はやられる前にやれ。攻撃の力に恵まれた反動か何なのか、俺は防御の魔法と相性が悪く、結界などは亀裂だらけで話にならない。
 攻撃を受けたときはそれを防ぐより打ち消し、大体は受ける前に倒すことを徹底した。おかげで、失敗や怪我はほとんどない。ただ、時々コントロールを誤って器物損壊を起こし、報酬からいくらか取り上げられた。そのため、こなした依頼の数のわりには、上から何度となく注意をくらっていた。
「こんなもんか……?」
 その制御に、銃を使うことを思いついたのは二十歳の頃である。魔法使いの中には、自身の魔法をより正確にコントロールしたり強めたりするために、媒介を使用する者がいる。多くは杖や指輪のようなアクセサリーといったものを使用するため、あまり参考にしたことはなかったのだが。
 二挺の銃を手に、俺は外に出て、銃口を近くの木の枝へ向けた。魔法具ではないので少々改造に梃子摺ったが、成功すればこれまでよりは、魔法の当たる先を正確に定めることができる。実弾を使うわけではない分、初心者が苦戦すると聞く反動も軽い。二挺あれば、一つが魔物に奪われても片方が残る。
 ドン、と手首に衝撃がかかり、放たれた氷の粒と共に枝が落ちた。続けてもう片方も撃つ。こちらも同様に、媒介として使うことができた。
 これで少しは文句を言われずに、依頼をこなせるようになるか。銃を戻しながらそう思って、ふと手を止める。
 いつからこんなに、魔法を使うということに対して躊躇がなくなったのだろう。
 気がついて、かすかに自嘲が漏れた。ベリルの言っていたことが、この瞬間ようやく分かった気がした。討伐隊に入ると、誰でも一時はおかしくなる。彼女が言ったその言葉は、恐れや疲弊でおかしくなるという意味ではない。
 ゆっくりと、麻痺していく。そういうことだったのだ。
 両手を広げて、うっすらと残った銃の後を見つめ、考えた。昔はもっと、魔法を使った後のことを、いつも考えていた。リンデンベルにいた頃は特にそうだ。自分がコントロールを誤ることで誰かに怪我を負わせてはならないと、いつも無意識に制御をかけていたし、気を張っていた。
 一人で依頼を受けるようになり、さらに討伐隊に入って、強いものと戦うためにその制御を外すことが普通になった。金属は使い続けると摩耗する。つけ外しを頻繁に繰り返せば、枷は次第に緩くなっていく。
 気遣うもののなくなった今、かつて魔法を使うときに持っていた躊躇いは何もなくなり、それどころか力を思いのままに使うことをどこか楽しんでいる自分がいた。討伐隊として一人で戦うことは、俺にとって苦痛ではなく解放感をもたらした。誰の目もなく、誰の身を気に留める必要もない。
 生まれて初めて、本当の意味で魔法が自分の手に落ちたような、そんな喜びを。いつからか持っていた自分は、とっくにベリルの言っていた「狂い」に片足を突っ込んでいるのだと気づいた。しかし、一度ほつれだした部分を食い止める方法までは分からなかった。あるいは、そんなものはないから、誰しもが同じ道を辿らずにはいられないのかもしれない。
「――――……」
 そうだとすれば、いつか彼女のようにその穴を抜け出す日まで。足元からほつれていく感覚を抱えたまま、日々を送るのかもしれない。
 先の見えない夜道に立たされたような、ひどく果てしない場所に出た心地がした。だが、もはやそれを恐ろしいとさえ、あまり思わなかった。眠りの時間だったはずの夜にはいつからか酒と本が寄り添い、暗闇は不安定な足元を隠してくれる存在となった。その夜道を進むことに、何の問題も恐れもない。
 青天をふいに、厭うほど眩しく感じた。


 グラスの底で溶けた氷が、崩れて音を立てる。赤みの強い照明の下で、壁に沿って並んだボトルが滑らかに光った。
「相席してもいい?」
 背もたれの厚い、古びた木の椅子がかたんと引かれる。帽子のつばに隠されて手の先しか見えなかったその女は、良いとも悪いとも答えを待たず、俺の向かいに腰を下ろした。コートの一枚下に着た、肌に張りつくような薄いドレスの胸元が見え隠れしている。栗色の細かく巻いた髪が、照明を浴びて金に艶めいた。
「あら、思ったより若いのね」
「……ご期待に副えなくて、悪かったな」
「そういうつもりで言ったんじゃないわよ。帽子を被っていたから分からなかったけど、後ろ姿じゃ私より上かと思ったものだから」
 明るい翡翠の目を細めて、意味ありげに笑う。女の前にカクテルが運ばれてきた。ウェイターは顔見知りの男だ。ちらと俺を見て、軽く頭を下げる。
 二十五になった俺の生活は、完全に昼と縁遠くなり、代わりに夜がその大部分を占めていた。夕方に目覚めて依頼に出向き、どこかで食事を取って、深夜か明け方に家へ戻る。必然的にレストランよりは酒場での食事が増え、夜通し営業する店を見つけては、ふらりと立ち寄り続けて常連になった。
 一人でいると、近づいてくるものは色々ある。女はねえ、と声を落として、打ち明けるように言った。
「私、今日なんにも持ってこなかったのよ」
「へえ」
「ご馳走してくれない? 大丈夫、まだそれほど飲んでないし、もちろんただでとは言わないわ」
「……」
「こんなところで一人で飲んで帰るだけなんて、お互い淋しいと思わない……? お礼、するわよ」
 視線の色は瞬き一つで、誘うようにも甘えるようにも変わる。髪も声も特別どうと思う女でもなかったが、その目だけは飛び抜けて煽情的で、翡翠という甘すぎない色が緩やかだが拍車をかけていた。
 口元に笑みをのせると、女は一層深く微笑む。顎に手を滑らせれば、驚く気配もなく瞼を下ろした。
 空になったグラスの中で、氷がまた一つ、溶けて崩れる。女の顔が俺の影に覆われた。細い吐息が、指先にかかる。
「――悪ィが」
「……え?」
「相応の金を取らない女と寝るほど、無知でもないんでな。俺の前で飲んだ分は置いていってやる。あとは他を当たってくれ」
 呆気に取られた顔の女から手を離し、食事代を支払って、店を出る。金銭の行き来しない形で関係を持とうとする娼婦ほど、後になって厄介な要求を突きつけるものだということは、母親が同業だったおかげで子供の頃から知っていた。隙あらば安く買い叩こうとする男からは、女だって一枚でも多く奪おうと思うものさ。それを言っていた顔はそろそろあやふやになってきたというのに、口癖だけははっきりと記憶に残されている。
 酒場が並ぶ道沿いを家へ向かって歩きながら、点けた煙草の煙を目で追って、満月だったことに気づいた。満月は人を衝動的にする、と昔から言う。真偽のほどは定かでないが、なるほどよくできた話ではあるなと、一人喉の奥で笑った。
 厄介ごとの匂いを感じ取りながら、流されることというのもたまにはある。安全と確かめて臨む橋よりも、幻影かもしれないと思いながら渡るときのほうが、本来は理性の入り込む隙がなかったという証拠なのだから。
 エルダが死んだ。リンデンベルから届いていた手紙に気づいたのは、今日の夕方のことだった。今の俺は、その知らせを受けて暗雲のように蟠った感情を何と言い表すのだったかもとうに忘れ、ただそれが一筋縄で消える感情でないということだけは、誰に言われなくとも察していた。
 衝動に委ねて考えることを放棄すれば、一思いに焼き切れた感情かもしれない。そう思う。同時に、二つは同じ線の上にはなく、どちらかを取ればどちらかを捨て去れるというわけではないのだとも。
 は、と暗闇に煙を吐いて、笑う。やはりあの女の誘いに乗ればよかったかもしれないと、悔いてもいなければ顔も覚えていないくせに、ただ思考を埋めるためにそう思った。
 衝動は嫌いではなかった。どんな形であれ、それは終わりを持つ。煩わしいのは、もう一つの感情。不意に渇く喉の熱さのような、其れ。


 二十八になったある日。ガキが一人、住み着いた。
 正確には「弟子ができた」というのだろうか。縁というのか気まぐれというのか、マーロウの使いで足を延ばした、東部の孤児院で。退屈そうな目をして、窓をいじっていた。
 同情した、というわけではない。同情するほど俺はその子供の身の上を知っているわけでもなければ、名すら知らない。ただ、そのすべてにうんざりしたような、諦観ほど達しきれず、しかし何にも希望を抱いていない眼差しには、確かに覚えがあった。
 気づくと、俺はリンデンベルにいた頃の自分とよく似たそのガキを、窓のこちら側へ引っ張り出していた。
 弟子に、と言ったのはその場の口実で、まさか本当についてくるとはあまり考えていなかったが。それでも、ついてきたものは何となくついてきて、どうやら物置と化していた二階の小部屋を改造し、そこで寝起きしているらしい。
 らしい、としか知らないのは、俺は変わらず夕方に起きて一人で出かける生活を続けていたからだ。共に暮らし始めてそろそろ一ヶ月になるが、顔を合わせる時間は短い。弟子だというなら依頼に同行させるべきかと思ったこともあったが、一人での戦い方が身に染みた今、力量も定かでない少女などを連れて行くのは億劫だった。
 すっかり日の落ちた空を見上げて、鍵をかける。
 外出を告げたことはなかった。勝手に住み着く神経があるなら、勝手に生活する神経だってあるだろう。追い出すつもりもなかったが、これといって生活を変えて、暮らしを共有するつもりもなかった。
 ガキはガキでそれなりに、自分の生活を持っているようだった。夕方になって俺が起きていくととっくに目を覚ましていて、洗濯をしたり本棚を漁ったり、二階にこもっていたりする。昼頃になるとどこで覚えたのか、大鍋でまとめて煮るような古臭い料理を作る。時々、その匂いでぼんやりと起こされることはあった。
 鍵を与えたが外出するそぶりはなく、着る物を与えても、いつもその上から最初にやった黒のケープを羽織り、肩で切り揃えた銀の髪を真っ黒なフードで覆っていた。
 師匠。たまにそう呼んで口を開く。間延びした声のわりに赤紫の目ばかりが強い、うっすらついた隈の目立つ、痩せたガキだった。

「あら、いらっしゃい」
 馴染みの酒場が休みの夜は、大抵、一本裏通りにあるこの店にやってくる。俺が仕事の帰りに寄ることを知っている顔見知りの女が、メニューを抱えて隣に座った。何にする、と真面目なウェイターのように注文を取って、キッチンへ伝えるなり、慣れた仕草でするりと腕を絡める。
 道を一本入っただけだというのに、この辺りは表通りの酒場と違って、やることがひどく直接的だ。酒場という仮面を被る気さえなく、男の客には女のウェイターが、少ないが女の客には男のウェイターが同席して、すかさず相手をする。
 彼女とは五年ほど前からの知り合いで、最近では専ら腐れ縁のような情しか湧かないが、過去には何度かその肌を買ったこともあった。彼女も彼女で、今月ちょっと稼ぎが悪いの、と持ちかけてきたこともある。娼婦であったり、ウェイターであったり。境目などなく、どちらが本業というわけでもない。
 彼女たちのような者は、この辺りだとボトルガールと呼ばれていた。男は単にボトルと呼ぶ。歳のいった女がするとボトルレディと呼ばれるが、それはあまりいい意味で使われる言葉ではなく、スラングのようなものだった。
「ねえキーツ。貴方、コート新しくした?」
 恐らく俺とほぼ同年で、その「レディ」にそろそろ片足を突っ込みかけている彼女は、ふいに絡めていた腕を離してまじまじと俺を見た。
「コート? いや」
「ふうん。前に来たとき、ずいぶんボロ着ちゃって、って思ったのよ。襟のところが解れてたから」
「襟?」
「ほんっと、そういうところ無頓着よねぇ。仕事柄、顔が知れてるんだから、きちんとすればいいのに」
 言われて初めて襟を見る。コートの襟など気にしたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。何が変わったのかまるで分からないが、彼女はさも当たり前のことのように変わっているという。
 別に、襟などどうだっていい。そう思って手にした煙草を、彼女は俺が口を噤もうとしているとでも思ったのか、片手で奪ってゆるりと笑んだ。
「誰か、できたでしょ。綺麗な人かしら」
「……女と言えば女だな」
「何それ」
「ガキと住み始めた。そういや、洗濯するっていうんでこの間渡したが」
 彼女のそういう艶やかな笑みを見たのは、これも久しぶりの気がした。最近はあまり、誘いも誘われもする間柄ではない。まだそんな顔ができるなら、しばらくは「レディ」と呼ばれずにやっていけるのかもしれないな、と思った。顔馴染みからボトルガールに戻ったかすかな変化を眸の奥に忍ばせて、彼女はふうんと頷く。
「なかなか上手に縫ってあるじゃない。……何歳のときの子?」
「馬鹿か。俺のじゃねェよ。ただの拾いもんだ」
「何それ、養子?」
「弟子だ。成り行きで引き取って、今はうちにいる」
 口にした途端、妙な沈黙が流れた。何を思われているのか、聞かなくても大体は想像がつく。正気を疑うような目をして彼女はしばらく俺を見ていたが、やがて「そうなの」と納得した。
「せんせい? あ、お師匠さま、かしら」
「うるせえ」
「いいじゃない。可愛くないの?」
「どうだかな。無口だから追い出しゃしねェが、ガキを可愛いと思ったことはねえよ」
「まあ、それもそうね。弟子って言ったって、他人の子でしょうし……」
 煙草を返してもらおうと伸ばした俺の手をやんわりと押さえ込み、ふ、と彼女は唇を綻ばせた。ソファの芯が小さく、軋んだ音を立てる。
 口づけられて、紫の瞼がちりちりと光るのを、漠然と見下ろした。
「本当の子、来年の誕生日にでもあげましょうか。私から」
「俺が父親で、お前が母親か? んなもん、」
 強いアルコールの匂いに混じって、百合が香る。五年前から、彼女は同じ香水ばかり使っている。
「生まれる前から、殺されてるも同然だろ」
 吐き捨てるように笑って言えば、答えはなかったが、悪びれもせず笑みを返した。キッチンから料理が運ばれてくる。火を点けたばかりの煙草を、浮き上がるように白い灰皿の上で揉み消した。

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