フラインフェルテ 番外・赤の独白T

「名前はね、確か、何だったかしら。あんたが生まれたときにもらった、チョコレートの名前から取ったのよ。包み紙が真っ赤なチョコレートでね。あんた、昔はもっともっと、髪が赤かったから」
 五歳のとき、二日か三日ぶりに帰ってきた母親に、自分の名前の由来を聞くとそんな答えが返ってきた。やっぱり大きくなると、髪や目はくすんでくるのかしら。無造作に指をかき入れて前髪に触れ、彼女は言う。
 生まれたときは燃えるような赤だったという自分の髪が、誰譲りなのかは知らない。チョコレートを贈った人間がそれだったのか、そういうわけでもなかったのか。娼婦だった母親の周りにはいつも何となく男がいて、けれど誰一人として、同じ顔を長く見ることはなかった。短いときには一回、長くて二ヶ月くらいしか見ない。
「キーツ」
 母親は滅多に俺を、名前で呼ぶことはなかった。会話の中ではいつも「あんた」と呼び、客というのか一時の恋人というのか、男が寄りついたとき以外は、さばけた声とさばけた口調で話した。キーツ。その名を呼ばれるのは、一ヶ月に一度くらいだった。そういうときの彼女の目は、じっと動かない水たまりのようで、大概その後に続く言葉は何もない。
「明日、帰らないから」
「……ん」
「戸締りだけしっかりやって。あるもの食べて頂戴」
 眸の色は母親譲りだったが、彼女の眸はもっと青みがかった濁りのある灰色で、長く伸ばした青灰の髪に馴染んで溶けそうな色だった。母親はそれきり、何も言わなくなって、号外を片手に煙草をふかしていた。低い天井に、煙がゆるく渦を巻く。
 自分と同じ名前をしたチョコレートのことを、しばらく考えていた。燃えるような赤の包み紙なのだということ以外、何も知らない。誰につけられたものなのかも知らなかった自分の名前が、知る前よりも遠ざかったような、何だか曖昧な感覚がした。でも、その話はとっくに終わったものになっていた。


「ディーラ・シャルデン。氷の麗華よ」
 ぱん、と眼前に透明な花が現れた。向こう側の景色を歪めて透かしながら、ゆっくりと舞い落ちる。
 雪の結晶のような形をしたそれは、正面に座った男が指を振ると、俺の膝の上に降りてきてそこで消えた。八歳のときだった。母親が新しく家に連れてきた男は、まだ兄のように若い、駆け出しの魔法使いだった。
「×××は、ギルドに登録して魔物退治なんかもやっているのよ。ここらじゃ魔物は少ないけれど、ちょっと離れるとそういう事件も多いから」
 母親がその男をなんと呼んでいたか、名前は覚えていない。ただ、男が使った魔法だけは強く印象に残った。
 片隅とはいえ首都に暮らしていたおかげで、魔物の被害は格段に少ない地域で育った俺は、これほど近くで魔法を見たのは初めてのことだった。アストラグスには魔物が出る。それは知っていたし、時折遠くで戦いが起こっているのを窓から眺めたことはあったが。
 家に一人でいるとすることがなく、戦いが起こるとしばらくの間はそれを見ていられるのが好きだった。炎や水が空に舞い上がるのを、じっと見ていた。外へ出て近くまで見に行くことはなかった。鍵を持っていなかったからだ。家に鍵は一つしかなく、母親が持って出かけてしまうと、俺はほとんどの時間を家の中だけで過ごした。
「ちょっと、教えてもらってみたら。私、魔法使いって好きなの。ね、×××、ちょっとこの子の先生になってやってよ」
「え?」
「あはは、オレ、まだ独立したばかりですよ。教えられるほどの腕前ではないんだけど……試しにやってみるかい?」
 男は謙遜したが、満更でもなさそうに、俺に手を出してみるよう言った。ちらと母親を窺うと、静かに頷いている。
 やりなさい――彼女は時々こうして、連れ込んだ男の機嫌を良くするために、子供らしく振る舞うことを俺に求めた。時に甘い菓子を喜ぶことであったり、華やかな町の話を聞くことであったり。
 娼婦の立場でありながら子供の存在を隠さなかった母親は、多分少し変わっていたのだと思う。男たちは大抵、俺にとっては二種類に分かれた。面白がって暇つぶしに構う者、邪魔だといって黙っていた母親を罵る者。後者の男が来たときは、決まって二階の小さな部屋へ行った。そこは何の部屋か名づけられないほど散らかって、晴天だと窓から入る日の下を埃が舞っていたが、誰の声も聞こえない、気楽な場所だった。
 だが、今回の男はどうやら前者だった。やるともやらないとも答える前から、手を出してごらん、と言って自分の手のひらを広げてみせる。
 意味のない、先の見え透いた演劇をやっている感覚がした。素質がなければ魔法は扱えないことくらい、いくらなんでも知っている。その魔力と呼ばれるものが、稀有とまでは言わずとも、偶然にもこの体に流れているなんてことは、そうそうありえないということも。
「魔法使いにはそれぞれ、百九の言葉のうち、相性のいい唱言葉っていうのがある。オレはそれが、ディーラなんだ。試しに君も、唱えてみるといい」
 できないことをただやって、それが当たり前にできる目の前の男を、やっぱり特別な人なんだわ、と母親が滑らかに溶けた声で評する。その瞬間のためだけに続く、しがない演技。
 なんと形だけの、意味のない行為だろう。供物のように差し出した右手を広げ、男の声を追って唱える。
「ディーラ・シャルデン――」
 ふと、五本の指の中を何かが勢いよく巡り、爪の裏がひやりと温度を下げたような、そんな気がした。思わず詠唱が途切れる。男はそれを、俺がその先の呪文を聞き取れなかったと思ったらしい。
「氷の麗華よ」
 握るように手を取って、彼は唱えた。やめてくれと、心の中では叫んだ気がするが、唇は呼吸を忘れたように薄く開いて、固まったままだった。血液とは別の、もっと透き通って速い奔流が、心臓から溢れて全身を駆け巡る。
 それが指先に辿り着いた瞬間、皮膚が内側から押し上げられるような異様な感覚を一瞬だけ残して、目の前が銀色の煌めきに染まった。
「え……!?」
 隣で男が、驚いたように声を上げる。見開かれた母の灰色の目と、俺の目の間には、何層もの銀色がゆらゆらと降っていた。頬に冷たいものが滑り落ちてくる。男から離された手で、俺はそれを拭ってみた。
 紛れもなく、雪だった。純白というには少し透明で、氷に近い、冬の初めに降るような雪だ。よくよく見れば歪ながら六角形を成した雪が、天井から部屋中に降り注いでいる。
「嘘だろ、こんな、ちっぽけな魔法で――」
 その先は言葉にされなかったが、男が言いたかったことは、何となく理解できた。同じことを、多分俺も母親も思っていた。
 なんの冗談だ。たった一片、同じ言葉の羅列で男が降らせた花が、足元を埋めていく。偽物だからなのか、そういう魔法だったのか、雪はしばらくそこに残ったが、解けて床を濡らすことはなくいつの間にか消えていった。
「二階へ上がっていなさい」
「え、でも」
「いいから早く!」
 何事にも頓着の少ない人間だった母が、物心ついてからの俺を怒鳴ったのは、それが最初で最後だった。駆けるように階段を上った。髪や裾から、ばらばらと細かく砕けた雪が落ちる。
 冷気に見張られているような気がして、いつもの部屋へ飛び込んでドアを閉めた。
 それから、一階でどんな言葉が交わされたのか。母とあの男の間に、何があったのかは分からない。翌朝、恐る恐る下りていくと、男はおらず、母親がいつものように煙草をふかしていた。伸び上がった煙が、天井に行きつく。
「出かけるよ」
 彼女は背中を向けたまま、一言そう言った。

 首都をひたすら中心に向かって歩く間、蟻地獄の巣に向かっているようだと、ぼんやり考えていた。町を歩くのは久しぶりだった。いつ以来かなど覚えていないが、すれ違う他人が空気を揺らす感触さえ新鮮だったのだから、久しかったのだろう。行き先は聞いていなかったが、自分がどこかに向かっていることは分かった。
 母はずっと前を歩いていた。でも、向かっているのは俺だけだった。母親の背中は陽炎じみて、そこにあるのに、どこにもないものの薄さを纏っていた。彼女は実在するものだと、自信をもって言うことができないくらいに。
 そして、母親は一つの大きな門の前で、足を止めた。
「ああ、お待ちしておりました」
 出迎えたのは、足首まで覆う長いローブを身に着けた初老の男と、エプロンをつけた、男と同年代くらいの女だった。そちらの子がそうですか、と朗らかな声で母親に話しかける。
〈リンデンベル こどもの家〉
 門の脇にかけられた控えめな看板を、ちらと見上げる。女のほうが俺の視線に気づいて、にこりと微笑んだ。
「お名前は?」
「……キーツ・グラッセ」
「そう。私はエルダ・ファニーニ。このおうちの院長で、食事を作る係をしているの。こちらはマーロウ様」
「マーロウ?」
「リンデンベルの管理人をしてくださっている、七賢人の方よ」
 ローブを羽織った初老の男が、気づいたようにこちらを向く。七賢人――その言葉に、俺は少し目を瞠った。この国は七人の賢者と、三十人の魔法使いが治めている。姿を知らなかった七つの影の一つがマーロウと重なり、その口元がゆっくりと弧を描いた。
「君が、キーツ君だね」
「……っ」
「ようこそ、リンデンベルへ。歓迎するよ。ここは君のような、才ある子たちのための場所だ」
 才。その言葉が指し示すものが、己の中の何であるのかは疑う余地もなかった。だらりと下げていた手を、握りしめる。マーロウと呼ばれた賢者は一瞬、俺の中に流れるものを探るように、鋭く目を細めた。
 そうして何事もなかったように、また穏やかな表情を浮かべた。
「では、どうもありがとうございました」
 マーロウが母親に頭を下げる。母は倣うように、無言でお辞儀をした。エルダがそれとなく、俺の手を取る。少しかさついて、ふっくらと体温の高い、初めて触れる祖母の世代の手だった。
「キーツ」
 門をくぐろうとした俺を、母親は一度、呼び止めた。エルダが足を止めたので、促されるように振り返る。
「それじゃあね」
 彼女が最後に触れたのは、伸びた部分を自分で切ってぼさぼさになった、俺の髪だった。赤は赤でも、もう燃えるような赤ではない。残された「キーツ」という名前に、かつてあったはずの意味はなくなりつつあった。
 マーロウが門を閉める。俺は母親に、何も言わなかった。広い緑の芝生の先に、大きな建物が一つ建っている。驚きや悲しみは、不思議なほど薄かった。いつかこんな日がくることを、心のどこかで想定していた気がする。
 憎まれていたとは思わないが、母親には多分、俺を通して見つめ続けた誰かがあって、彼女はいつもその誰かと見切りをつけたい。そう思っていたのだろう。
 この憶測を自身の中で、言葉として纏めることができるようになったのは、だいぶ経ってからのことだ。でも、ずっと分かっていた。「キーツ」と呼ぶときの母親の目には、そこにいるのが俺であることを確かめるような色が滲んでいたから。彼女は時々、それでいて、俺が返事をするとひどく傷ついた顔もした。
 だから、何も答えなかった。

 結局、俺が母親の姿を目にしたのは、このときが最後である。居所さえも、今となっては生きているのかどうかも定かではなく、便りはないし辿りもしない。生きているならどこかにいるし、そうでないならどこにもいないのだろう。至ってシンプルなその結論を、今さら探り出して、一つに絞りたいとも思わなかった。


 リンデンベルは孤児院だったが、賢者が管理する孤児院で、魔法使いを育成する目的で作られた専門の養成所だった。魔力を持った十八歳未満の子供が集まり、共同生活をしながら魔法を学んでいく。
 十二になるまでの四年間を、俺はそこで暮らした。孤児院といっても全員が親を亡くしたとは限らず、俺のように実の親から預けられた子供も多くいた。アストラグスでは魔法使いは英雄的な仕事でもあったから、魔力があると自覚があって、自ら望んでやって来た子供もいた。
 皆、理由は様々だったが、年齢がばらついていることもあって、さほど詮索はし合わなかった。しなくても、何となく望んできたのかそうでないのかは見分けがついた。俺も望んできたわけではなかったが、三食正しく食事が出されることと、自分の部屋が与えられていることだけは居心地の良さを感じていた。
 リンデンベルには、十歳を超えると一人に一部屋、自室が与えられる決まりがあった。これはある程度の年齢に達した子供が、より魔法の勉強に集中できるようにという意味での設備だったようだが、本を読んだり文字を書いたりしていた時間は短い。大抵、窓際に寝転がってぼうっと外を眺めていた。時々、勉強をしなすぎてエルダに課題を出されることもあった。

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