フラインフェルテ 夜会編Y
「……さっすが。むかつくー」
けほ、と砂煙に噎せながら、その威力に感嘆する。火、水、土、風、雷を少しずつ詰めて栓をした、色とりどりの試験管。中にあるのは以前に魔物退治の戦いなどで、師匠の放った魔法だ。余裕のあるときに小さく結界を使って端のほうをちょっとずつ拝借し、私の魔力でこの試験管に留めておいた。
我ながらなんというインチキだろうと思いながら、いざというときのためにこつこつ用意しておいた魔法具が、本当に役に立ってくれるとは。結界を張ったガラスが砕けると、圧縮して閉じ込めておいた魔法が爆発する。規模は小さいが、威力だけなら自力で戦うよりずっといい。ばれたら「そうかそうか、感謝しろ」とにやつかれるに決まっているので、できればあまり師匠が近くにいるときに使いたくはなかったのだが。
ノートを抱え、内鍵を回してドアを開けて外へ出る。どこかで起こった崩落の影響か、一本道の廊下の照明は消えていた。先のほうに光がある暗い廊下を走っていると、どうしても思い出してしまう。あのときもこうして、細く差し込む光を見て、震えていた。
「待て!」
「……っ」
背後からアランが追いかけてくる。彼は我をなくしたように、無数の魔法を放ちながら暗闇を追ってきた。互いに走り続けているせいで、狙いは不正確だ。氷の塊を躱して走りつつ、試験管をもう一本投げる。
雷の魔法が降り注いで、吊り下げられていた照明に罅が入った。焼け焦げた絵画が壁を滑り落ち、額縁が砕ける。
その音に一瞬、これまで何度思い出しても動かなかった瓦礫の記憶が、無残に燃え落ちていく光景が額を過ぎった。
「あ……っ!?」
がくん、と膝が折れる。へたり込むように床へ倒れて、私は自分の両足が震えていたことに気がついた。立ち上がろうと手をついても、片手では力の抜けた体を上手く支えることができない。
アランがにやりと笑って、手を伸ばした。鉤爪のように開かれた手が、眼前に迫ってくる。まるで魔物のようだ。額の奥の崩落が激しくなって、目の前の眸さえかき消すような強い幻覚を、一秒にも満たない瞬きに見た。食われる。何にとも分からないままに、本能が恐怖で背中を凍りつかせる。
その瞬間、幻聴などではなくぴしりという音がして、私とアランの真横の壁に亀裂が入った。
「――――っ!」
熱風が頬を掠めて、壁が打ち壊される。我に返ってアイギスを発動したが、強い風に押されて廊下の反対側まで飛ばされた。両肩を強かに打ちつけた気がする。がらがらと音を立てて、石が崩れていた。
「な、何だ……っ」
寸でのところで身を引いたアランは、動揺に二歩、三歩と足を退かせながら震える声で呟いた。
黒い爪先が、床に散らばった瓦礫を踏み分けて覗く。暗闇に突如として生まれた、全く別の出口から差し込む光が、その黒く大きな影を私の足元まで引き伸ばした。
「よお、イズ」
まるで、奇遇にもここで久方ぶりに顔を合わせたかのように。くる、と煙を上げている槍を持ち直して、その人は笑う。
「遅かったじゃねえか」
「は……」
「しにきてやったぞ。合流」
煙が晴れるに従って、冴えてきた頭の中に地図が浮かぶ。一本道を駆け抜けて、右へ曲がって、折れて二本目。打ち抜かれた壁の向こうの道は、ちょうど私たちが合流点に取り決めていた場所だった。
どくどくと胸を塞ぐように鳴っていた心臓が、徐々に落ち着きを取り戻してくる。冷たく強張っていた肺にぬるい空気が雪崩れ込み、吐き出すように笑い返して、私は言った。
「どーも、お待たせしてすみません。ちょっと荷物が重かったので」
「ほう? じゃあ、証拠は」
「完璧です」
腕の中のノートと、もう片方の手でポケットを叩いて答える。
「上出来だ」
灰色の目を細めて、師匠はそう言った。よくやったとか、頑張ったとか、そういう言葉を言われた試しはない。ないからこそ、よく分かる。これがこの人と私の間に通じる、最上級の褒め言葉だということは。
「それなら、話が早くていい」
「……っ」
「アラン・カーディア。七賢が一人、マーロウの命に従い、お前を捕らえに来た。錬金の証拠が取れれば、生死は問わないと言われている」
「え……」
「ここで生き埋めになるか。あるいは、大人しくついてくるか――選べ」
驚きに染まるアランの顔に、橙が差した。師匠が掲げた槍の先に、炎が巻いている。震えの治まった膝をはたいて立ち上がりながら、やはりそうかと思って私は目を逸らした。
施設の破壊が任務に含まれている時点で、薄々分かっていたことだ。賢者たちは初めから、アランの身辺をただ悠長に調べようなどと思ってはいない。魔物化した黒点でもないから、討伐という言葉が使われなかった。それだけのことで。
――調査中の不慮の事故によって彼が直接口を利けなくとも、証拠があって、結果として不当な裁きではないことが証明できればそれでいいのだ。
「やめろおおおおお!」
業火が膨れ上がり、炎に包まれた槍が振り翳される。火の粉を受けて輝く金の髪を振り乱して、アランが上げた絶叫が細く長く続く廊下を駆け抜けた。
「では、お預かりいたします」
「ああ」
「ご苦労様でした。報酬は後日、ご自宅へお届けいたします」
角の張った帽子を取って、配達員が深々と頭を下げる。胸につけたアストラグスの紋章を模るピンが、外灯の光に照らし出されて金色に輝いていた。
いつも依頼の封書を届けに来る配達員だ。彼らが運ぶのは、手紙だけではない。賢者と三十人の魔法使いの間を行き交うものはすべて、彼らの配達の対象になる。背中を向けて歩き去っていった彼の行き先を目で追って、私は外灯に寄り掛かったまま、ちらと隣の男を見上げた。
「良かったんですか、あれ」
「あ?」
「アランですよぉ。生死は問わないって、暗に始末しろって意味でしょう。平気なんですか、中央に送って」
所々焦げた髪もそのままに、煙草を吸っている師匠の脇腹を肘で小突く。中庭にやってきた馬車には、今まさに配達員が両側から囲んでアランを乗せたところだ。魔力を拘束する手錠がかけられているし、喉にも声を封じる魔法がかけられているから抵抗の心配はない。もっとも、そんなものを使わなくても、彼は心身ともに放心しきったようになってはいたが。
「問わない、としか聞いてねェんだ。だったらどっちでもいいんだろう」
大した反応も返さずに、煙を吐き出して師匠は言う。
廊下で相対したあのとき、師匠はアランを殺さなかった。師匠の放った炎はアランのすぐ脇を通り抜けて、壁の絵画を焼きながら真っ直ぐ奥へ向かい、錬金施設のあった例の部屋だけを焼き尽くした。最初はコントロールを間違ったのかと思ったが、どうやらそういうわけでもなかったらしい。
へたり込んだアランを引きずるようにして、師匠はさっさと「帰るぞ」と言って別邸を出た。
思えば確かに、私たちの受けた依頼はあくまで「施設の破壊」だったのだ。錬金設備が一部屋にまとまっていた以上、別邸そのものを壊す必要はあまりない。ただ、話し合いの段階では一部屋だけを壊すようなことはせず、建物すべてを落としてしまうような話しぶりだったので少し意外だった。
崩落に備えて唱えかけていた防御の呪文も、不要だった。中心は少し崩れたが、別邸は正面入り口が壊れるほどのダメージは受けず、私たちは普通に玄関から歩いて外へ出た。
「……なんでです?」
「疲れた」
「はあ」
後から何か言われたら面倒だ、というだけの理由で、日頃は任務をやりすぎるくらいまで遂行している人である。この別邸も無残に壊されるのだろうと思っていたから、あらかた残った姿を見ると、どうにも不思議なものを見ている気分だ。裏口は修復不能らしいが、表側は夜会が始まったときと同様に美しい。
開け放たれた正面玄関から、わずかに見える廊下の瓦礫が目に入る。だが、今はそれをただの瓦礫としか思わなかった。
「ご当主がいなくなっちゃって、使用人ってどうなるんですか」
「マーロウが何とかするだろう。中央が手を出した事件なら、後始末はしてるはずだ」
「ふーん。それならいいです」
三日月はすっかり空に高く昇った。今夜はもう汽車がない。配達員が近くの宿を手配してくれるというので、今はその戻りを待っている。
私の持ち出した証拠と聞き出したことの数々は、アランと共に馬車に乗せられて、配達員が運んでいった。中央へはここから遠くない。夜が明けるころには、馬車は賢者たちの元へ到着する。
大広間ではサジが夜会の参加者たちに事情を説明し、パニックに陥った人へはロイが静めの魔法をかけているところだ。警備員を始め、この混乱で怪我を負った人がたくさんいる。正門では王都で生活する魔法使いが集まって、彼らの治療に当たっていた。私たちは、そこへは行かない。依頼とはいえ、彼らが怪我を負ったのは私たちのせいなのだ。
「そういえば、師匠ー」
「ん?」
「どうして、あたしの居場所が分かったんですか? 探査の魔法、苦手じゃありませんでしたっけ」
ふと、夜空に昇っていく煙を見ていたら、思い出した疑問を口にしてみる。一本道の廊下へ繋がる壁を壊したあのとき、彼は私がそこにいることを確信しているようだった。
探査の魔法は私も苦手だが、この人が使っているのはそれ以上に見たことがない。前に一度、手順だけ教えてもらおうと見せてもらったが、いつ以来だったのか、うやむやすぎて何の役にも立たなかった。
「ああ、あれか」
声音に、かすかに面白いものを前にしたような響きが混じる。あれ、と嫌な予感に顔を上げれば、師匠は煙草を片手ににやりと笑って言った。
「単純に、音で気づいた。あれだけ派手な魔法を打てば、そりゃあなあ?」
「え? ……あ」
「知らねえうちに、ずいぶん成長したなァ? 俺の弟子は。今度、一体どうやったのか見せてみろよ」
ポケットの中で、かちゃんと試験管が鳴る。私は引き攣りそうになる顔で精いっぱいの笑みを作って、何のことだか身に覚えがない素振りを気取った。
「師匠、師匠。煙草短くなってますよー」
「ああ、そうだなー」
「ほらほら、消さないとー」
「灰皿が見当たらなくてなぁ。お前、ちょっと水の魔法でも使ってみせてくれよ。思いっきり」
「いつも踏んで消してる人が今さらどうしたんですー? あっ、ほら配達員さん来ましたよぉ」
頭を掴もうとする手から抜け出して、芝生の上を駆け出す。宿の地図を持った配達員がこちらに気づいてお辞儀をし、数枚の書類にサインを求めた。
師匠のほうを振り返れば、手振りで「やっとけ」と言って歩いてくる気配さえない。ペンを借りて、代わりに名前を書く。配達員は何も言わない。
「師匠ー」
「何だ」
「どこかでごはん食べたいです」
「そういや、腹減ったな……宿の近くに何かあるだろ」
地図を見ながら夕食の話を出せば、彼はようやく煙草を消して外灯の下から動いた。大広間にいるサジに顔を出してから帰るというので、所々明かりの消えた中庭を連れ立って歩く。長い影が足元に落ちていた。その影より黒い足が、それを踏んだ。
本邸はまだまだ騒ぎの中にあるというのに、中庭は初めから、何もなかったかのように静かでいる。
私は暗がりに揺れる伸びた赤髪を掴んで、最後に一度、振り返った別邸に背中を向けた。
End