フラインフェルテ 夜会編W

 本邸の壁の近くから、足音が一つ。新たに自分たちをつけてきている。対象の顔を見ないで行う催眠魔法は効果が薄れるが、仕方あるまい。ここで攻撃魔法を使うわけにはいかないと、サジはもう一度、その足音の主を眠らせた。
 芝生に倒れる音が軽い。今度は女だった。夜会に紛れていた、アランの雇った人間だろう。テーブル側でたくさん見かけたような、華やかなドレスを着ている。
「十二年前の、僕たちの出会いがそれです。嫌われても仕方ありません」
「……なるほどな」
「スーイ村の事件の報告会では、彼女の話も挙がりましたが……キーツはいませんでしたっけ?」
「俺は孤児院を出る前だった。確か、その次の報告会からは参加してるんだが」
「ああ、そうか。貴方が討伐隊に加入する直前のことでしたね。そうか、それなら貴方は、スーイ村の事件以前の僕やハキーカを知らないのか」
 サジはそう言って自嘲するように、それでもわずかにほっとしたように微笑んだ。
「僕もハキーカも九歳でロベルト先生の弟子になって、十八歳から独立して、当時は二十二歳でしたね。ちょうど、討伐隊の魔法使いである自分に馴染んできて、色々なものを失いかけていた頃だったように思います。彼女のおかげで本当の化け物にならずに済みましたが、そのせいで僕たちはあの子を深く傷つけてしまった」
「……」
「ハキーカは結局、あれから二年で気持ちと仕事の整理をつけて、討伐隊を抜けてしまいましたしね。戦いの指揮を執っていたこともあって、思うところが大きかったんでしょう。同い年でも僕は彼より任務の成績が劣っていましたから、まだまだそういう、先頭に立って戦った経験は少なかった。だからずるずると、居残ることができたんだと思います。思い返して後悔することの絶対量が、彼よりは少なかったから」
 だから、と。中庭へ一歩、踏み出したところでサジは徐に足を止めた。一足先へ進んでしまってから、キーツが振り返る。サジはにこりと笑って、ローブの下から杖を取り出した。
「せめてもの罪滅ぼしに、とは言いませんが、今回、貴方と組むことになったときから決めていました。もしも貴方があの子を連れてくるなら、全力で、僕はあの子にとって最も良い戦い方をしようと」
「サジ?」
「大丈夫です。戦いになると少しばかり理性が飛ぶ癖は健在ですが、幸いロイもいますから。正気くらいは、保てますよ」
「……ああ」
「行ってください、先に。追手は僕が引き受けます」
 植木の陰から、ロイが出てきてサジの隣に立った。サジはその茶色い癖毛を、ぽんぽんと撫でて笑う。静めの魔法が上手いのだと言われていた少年は、最後に大広間で見たときと違って、何があったのか、多少は覚悟の決まった顔つきをしていた。
 キーツは心の中でほう、と感心して、視線をサジへ戻した。
「なら、頼む」
 短い挨拶を残して、中庭を走り出す。走りながら風の呪文を足に乗せて、ごうと加速した。景色が皆、残像になったように過ぎていく。別邸の裏口まで、あとわずかだ。
「――さて」
 キーツが中庭を抜けたのを見送って、サジは背後を振り向いた。どこからこんなに溢れてきたのか、ざっと三十はいる。暗がりに目を凝らすと、本邸の二階の窓からも自分に向けられている銃口があった。
 行動を起こすまでは、主催者と警備員。争うわけにいかない関係だ。だが、今はただの敵同士。
「……てよ」
 くつくつと、喉の奥から漏れる笑いが熱を上げていくのを感じながら、一握り残った理性でサジはロイに護りの呪文をかけた。
「撃てよ。一発でも多く撃って、僕の狙いを逸らせ。でないと、全員塵になるぞ!」
 かたかたと震えていた脆弱な蓋が、弾ける。討伐隊に入って狂ったのは、人としての感性だけではない。ハキーカと違って自分はここに残ることを選んだが、その分、大きな歪みも抱えてしまった。
 杖を構えるとあっという間に、唱えたい、戦いたい、と食われる精神の底で、微かにではあるが、光のように残っている思いがある。自分は、命を守る側の者だ。決して奪う立場に回ってはいけない。
 サジはその深淵にある光だけを見据えるように、外灯の下で杖を掲げ、魔法を唱えた。

「――!」
 ドウン、と建物全体を痺れさせるような爆発音が、北のほうで響いた。窓ガラスがびりびりと振動に鳴っている。本邸の裏口に、一斉に明かりが灯された。大広間のざわめきが、開け放たれたドアから漏れてここまで聞こえてくる。
 師匠が裏口に着いたのだ。
 私は植込みの中に身を隠して、中庭に溢れ出た警備員たちが北へ向かっていくのをじっと見ていた。途中、暗がりで何かに躓いた一人が転ぶ。彼はそれが中庭を警備していた者だと気づくなり、ひっと息を呑むような悲鳴を上げた。すぐに別の者が状態を確認し、眠っているだけだ、と困惑したように告げる。
 似たようなことが中庭のあちらこちらで起こっていた。彼らは点々と塊を作って騒然としていたが、すぐに本来の仕事を思い出したように、別邸の裏を目指して走り出した。眠っている者たちを本邸へ運び込んだ数名は、どうやらそのまま中庭に残るつもりのようだ。
「――――」
 声を潜め、口の中で呪文を唱えて近くの窓に小さな結界を張る。音の漏れだけを防げればいい。私は次いで、氷の魔法でその窓を砕き、フードを被って夜に目立つ銀の髪を覆った。
 パウダールームで裏返した私のワンピースは、今や全体を黒一色で統一した飾り気のないものになっている。今回の依頼のために用意した特別製だ。表は白を多くとった品のいいデザインだが、ひとたび裏返せば、たちまち夜に紛れる。タイツや手袋に至るまで、小物を黒にしてきたのはこのためで、ケープを被った私の後ろ姿は真っ黒だった。
 窓枠に足をかけ、絨毯の上に着地する。窓の向こうの結界を解き、慎重にドアを開けて、廊下へ踏み出した。
「こっちだ、急げ!」
「っ!」
 地図を思い出しながら進んだところで、ばたばたと駆けていく警備員たちと鉢合わせそうになって、急いで曲がり角に身を隠した。十はいただろうか。明かりのぽつぽつ灯された廊下を走っていく足音を見送りながら、周囲に耳を澄ます。裏口のある方角からは、絶えず色々な音が聞こえてきているが、それ以外は分からない。
 ――罠かもしれない。
 ロイの言っていたことを思い出して、私は再び廊下を歩き出した。師匠が双子から聞いたと言って、風の噂程度に覚えておけと教えてくれた話によれば、アランはどうやら今日のために警備員を百ほど雇ったらしい。彼らの八割が中庭に配置される、という話だったそうだが、ロイ曰くそんな数ではなかったようだ。
 想定していたよりも、多くの警備がこの別邸内に置かれているのかもしれない。またも裏口を目指して駆けていく数名から身を隠しながら、私は思い切って、最短距離で目当ての部屋を目指すことを決めた。

「気をつけろ、魔法使いだ!」
「聞いてないぞ、こんな仕事だなんて……!」
「討伐隊か? そんな、どうして討伐隊がこんなことを――」
 炎に巻き上げられた槍が、警備員の手を離れて宙に奪われる。穂先から落下して地面に突き刺さると、周囲の警備員たちがわあっと散らばった。少しばかりだが、魔法の心得のある者が交じっているようだ。どこからか飛んできた氷塊を焼き消し、キーツは短くなった煙草を投げた。爆弾の如く、魔力を込められたそれは破裂する。裏口のドアが、完全に吹き飛ばされた。
「きりがねェな……」
 でたらめに唱えた呪文を、どよめく警備員たちの足元にぶつける。銃が使えないせいで、どうしてもコントロールが怪しい。雷などの直接的に命に係わる魔法を避けて、あえて正しい呪文を踏まないことで威力を削っているが、先ほどから何度となく危ない掠め方をしているのも自覚していた。こういう細かい調整を必要とする作業には、やはり自分は向いていない。
 ドアのなくなった裏口から、新たに数名の警備員が駆け出してくる。つい先ほども十人近くが飛び出してきた。服装が二通りに分かれているところを見ると、今日のために雇われた者と、元々この邸に雇われている者だろう。
 前者はどうやら、夜会に紛れて盗人が入る可能性があるという程度の情報で雇われていたらしい。ちらほらと交わされる動揺した声の会話を聞きながら、キーツはなるほどな、と納得して、全体を見渡した。
 どうりで、こうも呆気なく陽動に引っかかるわけである。サジが引き受けた追手には、給仕の女たちと同じ、深緑の服を着た者が多かった。恐らく彼らが、本来この邸を警備している者たちだ。あれは初めから、自分たちを追ってきていた。今ここにいる黒服の者たちは逆に、自分の姿を見て混乱に陥っている。
 彼らはどうやら、キーツが警備としてこの裏口に駆けつけたと思ったらしかった。相対することになろうとは、夢にも思っていなかった顔である。まともに動けなくなる者もいれば、錯乱したように向かってくる者もいた。討伐隊が動いている時点で、それがこの国を治める賢者たちの指示であるということは、アストラグスの者なら分かっているだろうに。だが。
(アランは……、いねェか)
 万が一ここでかかってくれれば楽だと思っていたが、さすがに当主は出てこなかった。警備ばかりが後から後から出てくる。別邸の正面から避難したのか、もしくはまだ中にいるのか。だとすれば多分、彼の向かった先は。
 最後に二人で話したときのイズの様子と、サジの話がちらりと頭を掠める。キーツは短い舌打ちをして、手のひらを翳した。
「三天、此処に結し聳えよ――トワイラ・ガイアス、ボルク、ブライン」
 警備員たちとの間を魔法で引き離し、今度は正確な呪文を唱えて、土と炎の壁を作り出す。同時に黒い霧が辺りに立ち込め、壁の向こうにいる彼らの足を止めさせた。
 混乱が一気に膨れ上がり、互いにぶつかったり何事か叫んだりと、わずかに残っていた統制が崩れた。武器を取り落としたり、もつれ合って転んだりしながら、次第に騒ぎは大きく広がって戦うどころではなくなっていく。キーツは壁に這わせた炎だけを消すと、霧を抜けてきた何人かを風の魔法で吹き飛ばして、近くにあった柱を打ち壊した。
 別邸の裏口が音を立てて崩れる。崩落は駆け出したキーツの背中を三十メートルほど追いかけて迫り、やがて止まった。

 一際大きな音がした。その音に思わず耳を押さえたのは、ちょうど私が目当ての部屋に繋がる廊下へ出たときだった。中央の奥まった場所に位置する、一際広い一室。三方向のどこから来ても、最後には直線の続く廊下を真っ直ぐ奥へ向かわねばならない。
 天井から細かに降る石の雨は、先ほどの爆発のような音が原因だろうか。振動はまだかすかに続いている。多分師匠だろう、とは思ったが、こんな派手なやり方をするとはさすがに聞いていなかったので少々驚いた。激しい振動の瞬間に跳ね上がった心臓が、不気味なほどに大きく鳴っていて気持ちが悪い。
 厄日か何かなのだろうか。至極まじめに、冗談めかしてそんなことを思案する。そうでないと鼓動に合わせて、冷たい汗が流れそうになるのを堪えられなかった。陽動だと言っていたのに、何を急いているのだろうか。引きつけて戦っているというより、もはや建物が壊されたのかと思った。
 脳裏に、瓦礫の光景がちらついている。
 それがいつのものか、どこのものかは分からない。あくまで一つのシーンのように、動くことも展開することもなく、額の裏に張りついている。ただ、私にはその先に起こることが思い出せた。――もう大丈夫。朽葉色の目を細めて、架空の言葉のようなそれを、その人は吐く。
 あの日、一つの村が消えた。記憶に残っていることはほとんどないと思っていたのに、サジの顔を見た瞬間、はっきり「この人だ」と分かってしまった。遠く押し込められていた記憶が、じわじわと漏れるように少しずつ頭を脅かしてくる。それは黒い液体のように、私の思考を濁らせて、体を重くさせた。
(だめだ、しっかりしないと……)
 気づけば廊下を走る足が止まりそうになっていて、かぶりを振る。中央の部屋へ繋がる廊下は、等間隔に灯された明かりの間すべてに絵画が飾られていた。金の額縁が鈍く輝いている。絵画に侵入者防止のための魔法を仕込む邸というのは、少なくない。途切れかけた集中をかき集めて神経を張りながら、私は正面に浮かび上がってきたドアへ辿り着き、手をかけた。
「……」
 ドアは音もなく、滑らかに開く。室内は明かりが消されているのか、真っ暗だった。照明を探している暇はなさそうだ。呪文を唱えて、部屋の四隅に明かりを灯す。つんと薬臭い空気の充満した窓のない室内が、昼のように明るくなった。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -