フラインフェルテ 夜会編V

 そういうことなら、と納得して、私はあえて人の間を潜り抜けながら、少し離れたテーブルへ向かっていった。擦れ違いざま、肘が掠めた女性にすみません、と愛想よく謝る。彼女がいいえと答え、数人がちらちらと振り返った。私はまた、その間を一人で歩いていく。
 歩きながら、そういえば何を持ってくるか聞くのを忘れたことに気づいたが、まあいいかと周囲を見回した。こういうときは無難に、一番多くの人に飲まれていそうなものを選ぶのが安全だ。赤ワインでいいだろう。警備がアルコールはおかしいだろうか、とも思ったが、あの人にフレッシュジュースというのもそれはそれで、別の意味でおかしい。
 絵的に面白くて耐えられないな、と早々に却下して、酔いの回った客を避け、適当な足取りで進んでいく。どのみち飲む気はないのだろうし、うっかり飲んだとして、一杯くらいなら任務に支障は来さないだろう。
 テーブルの隅に、赤ワインが置かれているのが見えた。端でもなく、真ん中でもない位置にあるグラスに手を伸ばそうと一歩、足を大きく踏み出す。そのとき。
「わ……っ」
 ふいに、談笑する人の陰から現れた人と、真正面からぶつかってしまった。男性だろうか。驚いたような声が、頭上から聞こえる。これだから人の集まっているところは嫌いだ。周囲がよく見えなくて、いつも私が唐突に飛び出したかのようになってしまう。
「すみません――」
 謝らなくてはと思い顔を上げた目に、最初に飛び込んできたのは赤と焦げ茶色の縦縞模様をしたネクタイだった。変わった柄に、一瞬チョコレートの箱か何かのようだと思ってしまう。そのネクタイの結び目の近くまで、薄く青みがかった白髪が流れてきていた。
 辿るように、目線をさらに上げる。師匠よりは近い高さで、その人は同じように私を見下ろして、ぱっとその目元を和らげた。
「ごめん、大丈夫? 派手にぶつかっちゃって」
「あ、いえ。こちらこそ、すみませ……」
「いいのいいの、オレがちょっとよそ見してたせいだから。あっ、足とか踏まなかったよね? 平気?」
 髪を前の半分からかき上げるようにして片側で結んだその人は、見かけの雰囲気と違って、思いのほか捲し立てるような口調でそう言った。あれこれと訊ねられて、条件反射のように「はい」と答えてしまう。澄んだ濃いブルーの眸が、よかった、と細められて、そうして一秒と待たずに見開かれた。
「あっ」
「え?」
「うわ、ごめん。大丈夫じゃなかった」
「どうし……」
「スカート」
 言われて、自分の服を見下ろす。思わず「うわあ」と声が出そうになったのを、ぐっと飲み込んだ。
 どうやらぶつかった拍子に、彼の持っていたワインが零れていたらしい。肌にかからなかったので気づかなかったが、スカートの生地の白い部分に、手のひらくらいの葡萄色の染みが広がっている。
 ワンピース自体は、別に惜しくはない。ただ着替えの用意がないことと、師匠に事情を説明するのが面倒だな、と思ったとき、青年がグラスを置いてその場にしゃがみ込んだ。
「じっとしてて」
「え? あ、気にしなくても」
「いいわけないでしょう。今消すから」
 社交辞令を言う隙もない。ぴしゃりと遮られて口を噤みながら、私は彼の言った「消す」という言葉に、もしかしてと青年を眺めた。間もなく、予感は現実のものになった。彼はスカートの染みを覆うように手を当てて、呪文を唱えたのである。
「……これでよし」
 その手が外されたときには、私のワンピースはすっかり元の状態を取り戻していた。鮮やかな紫は跡形もなく消え、張りのある白い生地がシャンデリアに照らされている。
(あまり、そういう人に見えなかったけど……)
 魔法使いだ。それも、この辺りではあまり耳慣れない魔法を使う。招待客の一人だろうか。それにしては私とあまり歳も離れておらず、若い印象を受ける。
「ウィータ?」
「あ、師匠」
 せんせい、と。彼が振り返った先にいたのは、彼より年上の男性だった。深いブルーのスリーピースに、黒の帽子。間に覗くその人自身の色素だけが、琥珀色の眸に銀の髪と不思議に淡い。
 招待されたのは、どうやらそちらの人のようだ。彼の弟子であったらしき目の前の青年は、今いきます、と答えて私に向き直った。
「じゃ、オレ行かないと。気をつけてね」
「あ、はい。ワンピース、どうもありがとうございました」
「どーいたしまして」
 ぱたぱた、と手を振られる。振り返すべきなのかどうしようかと迷っている間に、その人は新しいワイングラスを手に取って、師匠と呼んだ人のほうへ歩き出していった。魔法使いにしては賑やかな人だったな、と思いながら、改めてスカートを見下ろす。
 何かしらの魔力が残されている痕跡はない。多分、アランの雇った人ではなく、普通の招待客だろう。薄く張っていた警戒を解いて、私は今度こそ、テーブルの上の赤ワインを取った。招待客も、そうでない者も、これだけの人数の中には様々な人が紛れている。
 いつもの任務より少し、神経が尖っているのは否めなかった。もっとも、私たち以上の招かれざる客など、誰もいないと分かってはいても。
「師匠」
 ワインを片手に戻ると、師匠は何やらサジと話し込んでいた。傍らのロイが緊張した面持ちで二人を見上げている。何かあったのだろうか。
 師匠は私に気づくと、ワイングラスを受け取って静かに口を開いた。
「アランが姿を眩ました」
「え?」
「俺が名前も知らねえ客に話しかけられている間にな。サジもちょうど、給仕の女に話しかけられて目を離していたらしい」
「そんな、じゃあ今どこに……」
「こいつが見てた。向こうのカーテンの奥に消えていったそうだ。あんなところに扉があったとは知らなかったが、間取りからいけば、あの壁の先は中庭に繋がってる。その中庭の向こうは――」
 こいつ、と指し示されたロイは、複雑な顔をしながらも肯定するように頷いた。
「……別邸」
 頭の奥に、先刻押し込んだ地図が浮かび上がってくる。中庭を挟んでこの本邸の奥にあるもの。それはただ一つ。
 師匠が赤髪の陰で、灰色の目を鋭く細めて笑った。
「予定より早いが、任務を始める。頼んだぞ」

 別邸への潜入は、まず私が一度、パウダールームへ行くふりをして会場を抜けるところから始まった。
 すぐに元々出入り口付近を警備していたサジとロイが外へ出て、中庭の警備員たちに催眠をかける。ここは一人ずつ順番に眠らせていくわけにもいかない。広範囲に向けて一気にかけないとならないため、効果のある時間は短くなる。サジが別邸の入り口の警備を確認し、私は外から聞こえたロイのノックで、パウダールームの窓から中庭へ降り立った。
「本当に行くの?」
 壁に身を寄せるようにして、外灯の光を避けながらロイが言う。
「警備が少ないような気がするんだ。罠かもしれない」
「でも、今さら退いたらなんて言い訳するんです? あたしたち、もう十分に侵入者なんですよ」
 その外灯の足元に転がった警備員を示して言えば、彼は言葉に詰まるように表情を歪めた。催眠をかけたのはサジとロイだ。彼だってとっくに、この作戦を開始させて、動かしてしまっている。
「気をつけて」
 歩き出せば、背中に遠慮がちな声がかけられた。私は一度、振り返ってから、無言で別邸を目指して走り出した。
 中庭をあらかた眠らせたら、サジが師匠を呼びに行くことになっている。それから二人は陽動に入るため、中庭の端を抜けて別邸の北側にある裏口を目指す。多分、彼らには追手がつくだろう。そのときにはサジが残って、ロイと共に彼らを足止めしてくれる。師匠は真っ直ぐ、裏口へ行く。
 派手な合図が上がったら、適当な窓を割って、私が中へ潜り込む。

「キーツ」
 焦げ茶色のローブを翻して、サジはいたって緩やかな足取りで戻ってきた。壁際で腕を組んで立っていたキーツが、その声に振り返る。
「済んだのか」
「ええ。……ただ、一つ気がかりがありまして」
「あ?」
「グリーンとブルーが先ほど教えてくれた数の、半分程度しか警備がいなかった。もしかしたら、別邸の内部に回っている可能性があります。どうしますか」
 キーツはあからさまに嫌な顔をして、ため息をついた。
「面倒くせえ。ったく、誘き出させるほうの労力も分かれってもんだ。施設潰す前に、出てきた奴をざっと数えておいたほうがいいな」
「そうですね。依頼とはいえ、彼らも仕事です。僕たちの標的は、あくまでアランだ。衝突は避けられないでしょうが、崩落に巻き込ませるのは忍びない」
「やっぱりアランはそうなのか」
「ええ。確実に捕らえるように、と。錬金を行った証拠さえあれば、生死は問わないとのことです」
「証拠……か」
 連れ立って歩き始めると、給仕の女が話しかけてくる。煙草を吸いに行く、と言ってグラスを返し、大広間から外へ踏み出す。
 中庭へ出るまでは、人目が多く走るわけにいかない。取り出した煙草に火を点けて、キーツは少し遠くに見えてきた別邸に視線を向けた。
「何も取れなかったりしてなァ」
「アランが何も残していない、ということですか?」
「いや、それはねぇだろう。……本邸がこの慌ただしい夜会の日だっていうのに、見ろ、所々明かりが入っているし、あいつは別邸に足を運んでる。恐らく誰か、本当にこっちに通してる客がいるか、無事を確認したいものがあるか――両方、か」
「キーツ?」
 ふ、と吐き出す煙を止めたキーツに、サジがどうしたと問うような視線を投げかける。数秒あってから、キーツは微かに口元を吊り上げて、サジを振り返った。
「俺たちが双子のところへ行ってから、いや、ここに来てお前と顔を合わせてから、イズの様子がおかしい」
「……っ、そうでしたか。やはり」
「まあ聞いたところで、絶対に言わねえだろう。最初は昔のことでも思い出してんのかと思ったが、それにしたって頑なだ。……お前もお前で、いつも弟子に囲まれてるからガキの扱いは得意なのかと思ってたが、あいつにはまったくと言っていいほど話しかけない。何があった?」
 半ば確信を持った問いかけに、サジが俯く。様子がおかしい、とは感じたが、初めはその原因が分からなかった。夜会の煌びやかな雰囲気に浮かされたのかとも思ったが、生憎、自分の知る弟子はそういう性質ではない。何かもっと、抗いようのないものに足を取られまいとして逆に不安定になっているような様子に、ああもしや、と合点がいった。
 そういえば、サジと出会うまではそんな素振りはなかった。
「……もう、十二年前になりますね」
 サジがぽつりと、息を零すように口を開く。
「昔のこと、と言うからには、僕がスーイ村の……あの子の故郷が襲われた事件に関わったメンバーだったことは、ご存知でしょうか?」
「前に、資料だけは見たことがある。直接聞いたことはねえが」
「あれは酷い事件でした。十二年経った今でも、僕の記憶にあれを超える出来事はない。きっと、幼かった彼女にとっても、焼きついて離れない記憶なのでしょう。……僕のことも、含めて」
 すい、とサジがローブの下で指を動かす。背後の暗闇でどさりと、人が倒れた。静かな寝息が冷えていく秋の夜に溶ける。サジは一度、目を伏せてから再び歩き出した。
「端的にお話しすると、僕は彼女の第一発見者なのです」
「発見者……」
「村全体が崩壊したスーイ村の、一つの瓦礫の下に彼女はいました。最も被害が大きかったエリアでしたから、当時はこんな幼い子が生きていたなんてと俄かには信じられませんでしたが、今になればそれも分かります」
「アイギス、か」
「ええ。多分、無意識下に彼女は何らかの魔法を発動していたのでしょう。そうでなければ、生きていられたとは思えない。僕が発見したときには、すでにその魔法は解除されていましたから、奇跡に救われた子がいたのだと思いました。僕はそのことで胸がいっぱいになって、つい、口走ってしまったのです。――もう大丈夫だ、と」
 キーツが一瞬、その一言を聞き流しそうになってから、理解したように目を見開く。サジは胸の前で握りしめていた手を、ぐっと震わせた。
「あのときの彼女の、裏切られたような……いえ、もっと絶望的な、言葉の通じない化け物にでも出くわしたような顔が、今でも忘れられません。大丈夫なんて、そんなはずはなかったんですよね。何もかもを目の前で失って、自分だけが砂ぼこりに塗れて生き延びて」
「……」
「当時の僕には、あの子がどうしてそんな顔をしたのか、気づくのが一瞬遅かったのです。もう大丈夫と、助かったのだからこれで安心してくれるとばかり思って何も考えていなかった。なぜ、と思ったところに、ちょうどハキーカがやって来て、生存者だと気づくなり彼女を一人目と数えて、瓦礫から引き上げました。その手を振り払って泣いた彼女を見て、ようやく気づいたのだと思います。僕もハキーカも――自分がどれほど目の前の子にとって、心無いことを言ったのか」

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -