第十三幕


 深く、沈んでいた意識が浮上する。最終日の夜、ハイエルはゆっくりとその目を開けた。
 トコロワは今日も、変わらずしんとして霧に覆われている。ごつごつとした黒い岩の天井、砂利の広がる川岸、音もなく流れる一本の川。
 ハイエルはそこに近づいて辺りを見回したが、渡し守の姿が見えなかった。代わりにぽつりと、いつもならば彼女が漕いでいたはずの舟が、ひとりでに岸へ寄って浮かんでいた。
 主のいない舟はいつもよりも広く、頼りなさげに寂しく見える。どこかへ行ってしまったのか、もしくは何かあったのではと駆け寄ってみると、中に一枚の紙が置かれているのが見つかった。
 ――よい邂逅を。
 たった一言のそれは、彼女がいつも、トコロワの岸でハイエルにかけて去る言葉だった。置手紙のようだ。針の先で書いたように細く、間隔の少ない文字が並んでいる。
 他には何か書いていないだろうかと、ハイエルが拾い上げた途端に、それは銀色の灰になって消えてしまった。あ、と思った瞬間、仄かな香りがその手を包む。手紙を掴んだはずの手のひらには、見慣れた伽羅の香袋が残っていた。鳶色の小さなそれを、ポケットへ押し込んで握り締める。
 最終日は、一人でということか。
 置手紙があったということは、渡し守自身に何かがあったわけではない。恐らく、七夢渡りの最後の日に行くか行かないか、この儀式をどう終えるのか、それは自ら決めろということだ。行くならば、よい邂逅を。
 ハイエルは川面に浮かんだ木の小舟に乗り込み、傍にあった櫂を取った。行かないという選択をするつもりは、爪の先ほどもない。渡し守がこの場に現れないというのなら、舟を借りて、自分の手で対岸へ渡るまでだ。
 川は想像したとおり、ほとんどと言っていいほど流れがなかった。不慣れながらもそのおかげで、舟は何とか岸を離れて動き出す。川底は櫂を突き立てることもできるくらい、浅いところは浅く、深いところでもハイエルの身長ほどはないようだった。何度かそれを確かめてから、その場に立ち上がる。
 形だけでも渡し守のそれを真似てみれば、櫂は先ほどよりも動かしやすく、舟もずっと速く進めることができた。時折不安定に揺れるが、その都度、どちらかに少し体重をかけて安定を取り戻す。それを何度か繰り返しつつ漕いでいくうち、視界を覆っていた霧が途切れた。対岸、トコロワだ。
 ハイエルは櫂を砂利に突き立てて舟を寄せ、その岸に降り立った。少し迷ってから、櫂を舟の中へ横たえる。小舟はまるで自分の来た方向を理解しているように、流れのない川で向きを変えると、再び霧の向こうへ戻っていった。きっと主が、あちらの岸で呼んでいるのだろう。
 ――自分も、行かなくては。
 ハイエルはよし、と深く息を吸って、川に背中を向けて足を踏み出した。初めのうちは砂利を踏む音ばかりが響いていたが、それが終わると、ふわりふわりと足元に花が咲き始める。初日に見た、月明かりのように光るあの花だ。温かいような、冷たいような光を零して点々と並んでいく。
 花はハイエルを導くのではなく、今度はハイエルが歩くのに合わせているように、その足が下ろされるところに次々と開いた。一歩に一輪だけと限らず、一輪二輪、あるいはもっとと咲き溢れていく。行き先は花たちでなく、ハイエルが知っていた。川辺を離れてトコロワへ踏み入れていく歩みに、迷いはない。
「……ライラ」
 彼女のほうもまた、彼がそこに来ることを分かっていたようだ。初日と同じ、街灯の真下を少し外れた場所に立って、薄紫のドレスを纏った後ろ姿があった。
 足音がすぐ近くで止まったことにも、気づいていたのだろう。呼びかければ、象牙色の髪を揺らしてゆっくりと振り返る。
「……ハイエル」
 こんばんは、と告げる代わりのようにそう呼んで、ライラは穏やかに微笑んだ。落ち着いた表情だった。両手を前で緩く重ね合わせて、少しばかり、いつもよりも背中を伸ばしている。洞窟のように彩りのないこのトコロワで、細められたアイスブルーの眸は澄んだ温もりを湛えていた。
 ハイエルはその前まで足を進め、そっと頭を下げた。
「一週間というのは、人を知るにはあまりに短いものですね」
 切り出した言葉には、挨拶もなければ前置きもない。ただ心の声がそのまま口に出されたような、飾るところのない感想だった。そうですね、とライラもそれに頷く。
「でも……、これまでの年月の中で、最も緻密で深い一週間でした」
 ハイエルの続けた言葉に、今度は少し驚いたようだ。沈黙するように足元へ下げられていた視線が、思わずといったふうに上げられる。
 足元にまた一つ、光の花が咲いた。ハイエルの傍を少しずつ離れて、ライラの周りに、街灯の周りにと広がっていく。


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