第十幕
翌日、七夢渡りの間も唯一参加している午前の鍛錬を終えたハイエルは、仕事用の服装に着替えて廊下を歩いていた。謁見の間に通じる日当たりの良い廻廊ではなく、厨房や裁縫室、洗濯室といった女中たちの仕事場が並ぶ廊下だ。
ハイエルが七夢渡りを行っていることは、とっくに城中の人間の知るところとなっている。残り二日となればいよいよそれも佳境と、今やこのアレステア城全体が、彼の決断をあれやこれやと遠巻きに憶測しては、それがまことしやかに囁かれて闊歩している状況だった。
ハイエル自身はまだ誰にも、何の話もしていないのだが。それでもこの雰囲気に乗じて妙な企みごとが動き出さないよう、こういった裏の道に関しても、できるだけ通るように心がけていた。
幸い、どの道を使っても執務室に行くことはできる。仕事は実質休みをもらっているとはいえ、連絡事項や郵便物を受け取る用もあるので、ハイエルは基本的に朝がくれば執務室へ出向き、日暮れまでを城内で過ごすようにしていた。
執務室は城内における、ハイエルの私室のような部屋だ。騎士といっても戦うばかりではない。城の軍備についての事柄から、町の設備のことまで、平和な時期だからこそ細やかな仕事は増える。
所謂、デスクワークである。城内にいくつかある騎士の執務室にはそれぞれ、鍛錬とデスクワークの間に休息を取れるよう、仮眠設備が設けられている。トコロワに出向く時間が長くなってきても、こうして城に出てこられるのはそのお陰でもあった。
昨夜もあちらに長居をしたせいか、眠気はそれほどでもないのだが、最低限の鍛錬だというのに体が少しだるい。連絡だけ確認して午後まで休もうと、執務室のある方向に曲がって歩く。ふと、広い廊下に出たところで、金属質な足音が聞こえた。
「あら、ハイエル」
「え? ……と、フィリア様。これは失礼致しました」
扉番が歩いているだけかと思いきや、そこに立っているのは王妃であった。
護身の力を持たない彼女は、王と違って城の中でも兵士を二人連れている。扉番と同じ靴を履いた、銀の鎧に身を包んだ兵士だ。胸に蔓草の紋章がある。彼女の私室の前を、いつも警護しているうちの二人だろう。
ハイエルは図らずも王妃の前方に出てしまったことを、彼女に遮られるよりも早く、跪いて詫びた。ふふ、と朗らかな声が頭上から笑いかける。
「そんなに畏まらなくても。何も怒っていないことなど、分かっておられるでしょう?」
ほら、立ってくださいな。白い手袋に包まれた手を何の迷いもなく差し出して、ね、と促す王妃に、ハイエルは早々に降参して素直に顔を上げた。さすがに手を借りるわけにはいかないので、礼だけ言って立ち上がる。後ろに立った兵士たちも、鎧の奥で小さく笑っているのが見えた。
「こんにちは、フィリア様。どこか、お出かけですか」
「いいえ、中庭から戻るところでしたの。通りすがりに貴方とお会いできるとは、珍しいこともあるものですね」
改めて、挨拶を交わす。途端に上機嫌な笑みを浮かべる王妃に、ハイエルも思わずつられて「そうですね」と笑った。
彼女はあまり、堅苦しい畏敬の念を示されることに興味がない。謁見の間にいるときは王の隣でゆったりと座っているが、一歩外に出るといつもこうだ。明るく気さくで、身分を笠に着ることのない女性。
カナリーが憧れと公言するだけあって、いつどこで会っても変わらないその印象は、ハイエルのような騎士から兵士、女中に至るまで、誰にとっても憎めないと思わせる力がある。出身は王家の分家にあたる、有力貴族の家だ。生まれながらのお嬢様であったと思うのだが、普段はめったにそれを感じさせず、ここぞというときになると非常に堂々と振る舞う。
尊敬の対象であると同時に、不思議な人だと、ハイエルは昔から思っていた。彼女には王以上に、様々な顔がある。そしてそのどれもが、彼女の素顔なのだ。今こうして自分と話している気さくさも、王妃としての姿も。女中たちとのお喋りに夢中になりすぎて、王とのお茶の約束に遅れそうだと、鎧を着込んだ兵士たちを置き去りにして城の廊下を駆け抜ける後ろ姿も。
少女のようであったり賢人のようであったり、纏う雰囲気をいくつにも変えることのできる人。久しぶりに謁見の間の外で話して、ハイエルがよりその印象を強めたことなど知る由もなく、王妃は思い出したようにそういえばと口を開いた。
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