第九幕


「有難う」
 小さな舟が、水をかき分けて岸に辿り着く。顔の見えない渡し守に礼を言って降りると、彼女は無言のまま一礼し、舳先をもと来た方向へと回転させた。
 七夢渡りも、今日で五日目だ。いつの間にか握り締めていた片手に気づいてそれを開くと、鳶色の香袋が目に入る。これを持って、トコロワに目覚めることにもずいぶんと慣れた。
 ハイエルは香袋をポケットにしまい、取り留めもなくこの場所について、考えを巡らせながら歩いていく。城の廊下を歩くときと変わらぬ落ち着きがあることに、着実な時間の経過を感じた。長くないことは初めから分かっていた儀式だ。終わりが刻一刻と、近づいてきている。
「ああ、ハイエル。遅くなってごめんなさい、今、そちらへ行こうとしていたところでした」
 忘れ去られたように立つ街灯の光に、黄色く染められた霧が漂っている。ぼんやりとそれを見ながら、上流へと向かって歩いていたところに、前からやってきたのはライラだった。
 薄紫の足元まであるドレスを少し持ち上げて、華奢な靴ながら慣れた足取りで、岩肌のような道を歩いてくる。ハイエルは大丈夫ですと答えて、適当なところで足を止めた。
「たった今、着いたところですから。こんばんは、ライラ」
「こんばんは、それなら良かったです。少し、上流で長居をしすぎてしまって」
 駆けるように寄ってきたライラへ手を差し伸べると、彼女は躊躇う素振りもなくそれを取る。どこかへ行きますか、それともこの辺りを歩きますかと問われて、ハイエルは良ければトコロワを歩いてみたいと答えた。思えばあまり、川岸から離れたことがない。
「本来ウツロワの方である貴方を連れていますので、居住区に立ち入ることはできません。七夢渡りで歩ける範囲は、あちらに見える門の前までです。あまり、この辺りと景色が変わるものでもありませんが……それでも構いませんか?」
「はい、存じております」
「そうですか、では」
 細い腕が、促すようにハイエルを引っ張る。私がご案内致します、と嬉しそうに言って、ライラは手を取ったまま歩き出した。
 思わずその顔を見ると、はにかむように視線を少しだけ下げる。まるで子供が自分の遊び慣れた場所を、新しく来た子供に教えてやろうとするような、心なしかそわそわとした様子だった。
 愛らしいというよりも美しいと称されそうな年頃の娘には、やや不釣合いなあどけなさである。だからこそ、その様子は妙に可愛らしく映り、ハイエルは密かに綻ぶ口許を押さえた。澄み切っているばかりと思っていたアイスブルーの眸は、この五日間でとても彩り豊かだと思えるようになった。
 秘密を共有するような思いで、気づくか気づかないか、ほんのわずかに繋いだ手の力を強くする。当たり前のように温かく、小さな手だった。
「今日は何を、話しましょう?」
 遠く、トコロワの門を見て隣を歩きながら、ライラがそう問う。ハイエルは一旦、「そうですね」と答えて言葉を区切った。頭の中に残っている、いくつかの疑問や質問を整理する。七夢渡りを始めてすぐには、トコロワに居続けられる時間の短さもあって、どうにも訊けなかったこと。
「ライラ」
「はい」
「貴方は、私がこうして会いに来たことを、どう思っていますか」
 門は見えても両側の果ては見えないトコロワで、その声は何に遮られることもなく、宙に浮かんで霧のように漂った。ハイエルは傍らの、何もない石の上を見ている。街灯がまた一つ、規則性もなく、自然に芽吹いた苗のように立っていた。
「色々なことを、思っております。ただ、最も大きな思いは二つで、一生に一度の機会を使わせてしまったという思いと、それでもこうして会える日が来るなんて思ってもみなかったという、喜びでしょうね」
「責任を、感じさせてはいないだろうかと。私は自分の意思で、自分のためにこの七夢渡りという方法を選びましたが、貴方がそれをどう捉えているのか、気になっておりました」
「責任は、全く感じていなかったと言ったら嘘になります。少なくとも貴方が儀式を望んでいるという報せが私の元にやってきたときと、最初の二日ほどは、私さえ普通に生まれることができていたら――そもそも私が貴方と、生まれる前からの婚約などしていなければ、貴方にこのような儀式をさせることもなかった。もっと自由に生きていただけていたのでは、と何度となく考えたことも事実です」
「そうですか、やはり」
「ええ。恨まれているのではないかと、ほんの一縷、考えていたことも。トコロワにいて貴方からのそういった感情を感じたことはなかったのですが、やはりいざ目の前に立つと思うと、そう自信は持てなくて」
 ライラは吐露するように、本音を明かした。そんなことは、と口を挟んだハイエルに、はいと微笑む。


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