第七幕


 手を伸ばすと、指先は霧に飲まれる。森の奥、山の頂。霧の立ち込める場所はいくらでも思い浮かぶと言えど、ここの風景は他の何にも例えようがない。
「トコロワにも、ずいぶんと慣れましたか」
 強いて言うなら、やはり洞窟に近いのだろうか。
天井を見上げてそう考えていたところに、渡し守がぽつりとそう訊いた。珍しいことにこちらを向いている。もっとも、首の向き以外、その視線や本当の顔の向きなどは、すべて紫に隠されて見えないのだが。
「そうだな。初めの日に比べれば、ずっと落ち着いている」
「……」
「……今日で、ちょうど折り返しか」
 訊ねておきながら、渡し守がそれに対して返事をすることはなかった。この対応にも、だいぶ慣れたものである。彼女はあまり多くのことを語らない。必要以上に会話をしたり、印象に残るような行いをしたりはしないのだ。今の問いかけには少し、珍しさを覚えた。
「トコロワでございます」
 櫂を動かし、舟を岸に寄せる。ハイエルは礼を言って、トコロワに降り立った。
 それほど長い距離を歩くことなく、象牙色の髪に縁取られた人影が見えてくる。今日はこちらを向いていたライラは、ハイエルの姿に気づいて頭を下げた。
「お待ちしておりました。……中日ですね」
 薄紫のドレスの胸元に、ほんの小さく、昨日ハイエルが渡した写真の角が覗いていた。視線に気づいたライラが、肌身離さず大切にしようと思いまして、と笑う。はにかむようなその表情に、ハイエルは心なしか、ライラが自分に対して打ち解けてきているのを感じた。
「あの、ハイエル様」
「何でしょう?」
「……ハイエル、と。お呼びしてみても、良いでしょうか?」
 それはあながち、間違いでもなかったようである。唐突な申し出に一瞬、驚いてしまい、ハイエルはその紫黒の双眸をわずかに丸くした。そのごく小さな変化を機敏に感じ取ったのか、ライラがそろりと逃げるように視線を背ける。やがて遠慮がちに、ご迷惑でしたら、と取り下げようとするのを、ハイエルがいいえと遮った。
「何も、迷惑なことは。どうぞ、今後はそのようにお呼びください。――ライラ?」
「……っ」
「なんて顔をしていらっしゃるのです。確かに、本来ならば軽い処罰の一つでも下りそうなところですが……貴方さえ、お嫌でなければ」
 敬称は、時に互いの距離を遠ざける。親しみを込めた呼び方というのは、悪い気のするものではない。きっと、ライラが城で当たり前に暮らしていれば、今頃はとっくにそう呼び合っていたはずだ。ハイエルの言葉に、ライラも慌ててその首を横に振った。
「嫌だなんて、とんでもないです。ただ少し、驚いてしまって」
「貴方のほうが、先にそう呼ぼうかと仰ったのに?」
「ええ。でも、その……、ハイエルは、これまでに心の中でさえ、私をそう呼んだことはなかったでしょう?」
 ウツロワから流れてくる貴方の思いは、いつも私を硬い声で「ライラ様」と呼んでいたもので。
 はにかむようにしながらそう言い当てられて、ハイエルは何も否定ができず、ええと頷いた。
 気安く思い起こすことが、何よりも難しい相手だった。どんな人物なのか、どんな顔で振り返るのか、どんな声で返事をしてくれるのか、すべてが分からなかったから。けれど今は少し、違っている。
「嬉しいです。貴方がそうして、私を分かってきてくださっていることが。きっと、私が嫌な顔をしないと想像ができたから、呼んだのですよね?」
「はい。貴方でしたら多分、そう言ってくださるのではないか、と」
「ふふ、正解です。ハイエル、私も貴方のことを、もっと分かりたい。今日は、貴方自身の話を聞かせてはいただけませんか」
 分からないことは、とても多い。互いについて話せば話すほど、知らないことばかりが溢れていると思い知る。それでも、全くの無知ではない。その一と零の差こそが、長らく埋まることのなかった最も高い段差だったのだ。
 それがなくなった今、遠い存在だった彼女は世界の裏側ではなく、緩やかな坂道の上にいるくらいの近さに感じられる。逆光がまだまだ強すぎて、この目で正しく捉えられているのか、自信が持てないが。
 それもきっと、自分だけのことではないのだろう。真っ直ぐな手探りが、少々気恥ずかしい。
「私のこと、ですか。何をお話すればよろしいか、迷いますね。何せただの、城に勤める一介の騎士ですから」
「その言葉に全く謙遜がないとすれば、私やカナリー様の婚約者として、名前の挙がるはずもないでしょう。でも、そうですね……例えば、貴方の昔の話を聞いてみたいとは思います」
「幼い頃の、ということですか? でしたら、簡単に家の話からさせていただきましょう」
 ハイエルは辺りを見渡して、離れたところに良さげな岩を見つけ、そこまで歩こうとライラを促した。七夢渡りも日に日に、このトコロワでの時間を延ばしてきている。立ち話では、そろそろ足が辛くなってくる頃だ。


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