第五幕


 しっとりと重い、水辺の匂い。二度、三度と瞬きをして澄んできた景色に、ハイエルはその空気を深く吸った。
 トコロワを見るのも、これで二度目。川縁には今日も、綿を散らしたような濃い霧が流れている。天候に左右されないここは、ウツロワでは日付が一つ変わったことなど嘘のように、風景が昨日と全く変わらない。
「お待たせ致しました」
 どこからともなくハイエルの立つ岸へ向かってきた渡し守が、深々と頭を下げた。紫の絹が垂れる。彼女は今日も、その顔がまるで見えない。
「一命様、ご案内致します」
 櫂で支えられて乗り込むと、舟はすぐに川面を滑り出した。ちゃぷ、と桶に張った流れのない水を叩くような音を立てて、櫂がその水を潜る。透明度は低いのに、不思議と汚れた印象は受けない。
 ハイエルはふと無意識に握っていた手を開いて、そこにあったものに目を見開いた。香袋だ。
 ここに来るときに、持ってきた覚えはない。そもそも目覚めたら、どこかに消えていたものだから。だが、今はそれが当たり前のように、自分の手の中にある。
「貴方さまの心が、きちんと生を握っている証です」
 いつの間にそれを見たのか、後ろを振り返ることもなく、渡し守は言った。
「伽羅の香りは、生者のみが纏うことを許される香り。それが手元に戻ってくるということは、貴方さまの魂がまだ、自らを生者だと理解しているということでございます」
「……そういうものか」
 甘いようで、淡いような、柔らかな香り。存在はこの水気を含んだ空気をかき分けて主張し、しかし一度掴もうとすれば、掻き消えてゆくような。
 櫂を動かす渡し守の後ろ姿からは、その香りはしない。ハイエルは鳶色の香袋を、黙ってポケットに押し入れた。
「こんばんは、ハイエル様」
「ライラ様……、お待たせして申し訳ありません」
 トコロワの岸へ降り、霧の薄くなるほうへ歩いてゆくと、すでにライラが立って待っていた。膝をつこうとしたハイエルをやんわりと制して、どうぞそのように畏まらずに、とアイスブルーの眸を和らげる。王のもとで実際に暮らしたことはないというのに、気品のある仕草だった。視界の隅で渡し守が、対岸を隠す霧の中に消えていく。
「大丈夫です、それほど特別に、長く待ったわけではありませんから。私はいつも、ここからもう少し上流へ向かったところにいるのですが、つい少し前にここへ歩いてきたところです」
「お分かりになるのですか? 舟の着く場所が」
「ええ、何となく。これはきっと、トコロワの者の特権なのでしょう。ハイエル様、昨晩の七夢渡りの後、体調は何も問題ありませんか?」
「体調、ですか? 特に、何ともないように感じております」
「何分、夢を使う儀式ですから、あれから充分にお休みいただけたのか、少々気になって」
 ハイエルはライラの問いの意味が一瞬、分からなかったが、続けられた言葉を聞いてああと納得した。
 確かに、この儀式はことごとく睡眠を削る。一晩目はまだ良いが、後半に向かうにつれてトコロワにいる時間が長くなる分、日頃と同じ生活をしながらこの儀式に臨むと体を壊すと聞く。ハイエルは頷いて、安心させるように微笑んだ。
「問題ありません。王から、七夢渡りの間は通常の職務を休んで良いと許可をいただいておりますので。お気遣い、有難うございます」
 ライラが嬉しそうに、その両手を重ね合わせる。
「そうですか、父が……それを聞いて、ほっとしました」
「はい」
「では、ハイエル様。今日は何を、話しましょう?」
 真っ直ぐに見つめる眸は、この灰色のトコロワでどこから光を拾うのか、ハイエルを捉えて一度煌いた。では、貴方のことを。探るように答えたハイエルに、ライラは微笑む。
 何の問いでも受けようというようなその無言の返答に、ハイエルは少しばかり躊躇う心を吹っ切って、正直に訊ねた。
「貴方は、ずっとここで過ごしていらっしゃるのでしょうか」
「はい」
「ではウツロワのことは、ここからどの程度、分かるものなのでしょう?」
 十八年という長い時間を抱えていても、ハイエルには結局のところ、ライラのことは何も分からない。知らないのだ。昨晩ライラと初めて顔を合わせたことで、その事実はよりくっきりと、ハイエルの中で色を持った。こうして会いに来た今も、自分は彼女に関してどこまでも無知である、と。
 そしてそれは、一週間という限られた時間の中で、自然に分かってゆけるものではない。七夢渡りで自分が望んだ成果を得るためには、ライラという人そのものについて、素直に訊ねることを躊躇っていては始まらないのである。
 それが例え、死者の世界と生者の世界という、暮らす場所の違いを掘り返すような質問だとしても。


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