第九幕


 彼女の存在に縛られていると感じたことはあれど、だからといって会えなかった婚約者を恨んだことは一度もない。しかし逆の立場であったら、ハイエルもそう考えるだろう。申し訳ないと思う気持ちには、それを相手に許されなかったらと思う恐れが雑じる。それはごく、当たり前の感覚だ。
「……でも。初めて会ったとき、貴方は私を恨むよりも、やり場のない気持ちで自分を責めていらっしゃるように見受けられました。これまで何もできなかった、そのくせ身勝手な事情で会いに来た、と」
「それは、そう思っておりましたので」
「ええ。本当にそう思っていらっしゃるようだと気づいて、私は自信がないだの、恨まれていたらだのと、貴方に対して躊躇いを持つことをやめようと思ったのです。一生に一度の機会を賭して、こうして会いに来てくださった。ならばそれにお応えしようと……、いえ、お応えして、私もこの七夢渡りでハイエルという人を知ろうと思えたのです」
「貴方が、私を?」
「はい。これは決して、一方的な儀式などではありません。責任のためにこうも毎日、貴方を迎えていたわけではないのです。これは、私にとっても大いなる意味と、価値を持つ時間です。ずっと誰かの思考を通してしか知ることのできなかった貴方と、何も介さずに言葉を交わせるのですから」
 真っ直ぐに歩けば、門まではそう時間をかけずに着いてしまう。そこへ行って、何も門をくぐりたいわけでもない。ふらふらと、近くの街灯や岩に吸い寄せられるようにして歩きながら、ライラはそう言ってハイエルを見上げた。霧はなく、しっとりと潤んだ空気だけが透明に周囲を満たしている。
「それを心から喜べるようになったのは、三日目のことです。最後に残っていた私の懸念を、貴方が取り払ってくださった」
「え? ……あ」
「これです。ふふ、まさかウツロワから、魂の姿になっても手離さずに持ってきてくださるなんて。本当に嬉しくて」
 ライラが取り出したのは、他でもない、彼女の両親が並んだあの写真だった。尖った角に、口づけをする。
「貴方にこれをいただいて、私はようやく、心から信じることができたのです。私こそが、貴方の探しにきた王女、ライラ・オル・アレステアに間違いないのだと」
「怖れていたのですね、本当は」
「はい。もしも本当に、出生自体に手違いがあったのだとしたら。神様だけがそれを知っていて、私は生まれないことが運命づけられていたのだとしたら? そんなことがもし起こっていたら、あの婚約は何だったのかと、貴方をここまで来させた意味は何だったのかと、私とは何だったのかと……すべてが悪い夢に終わってしまいそうで」
「私に恨まれることを考えていらっしゃったのは、そのためもあったのですか」
「ええ。常識的にはありえない可能性だと、頭では分かっていましたが。それでもこの目で見て確かめるまでは、貴方の目に私がどのように映っているのかと、ずっと考えていました」
 自分自身と思っている人物が、本当に自分で間違いないのか。まさかと思っていても、その不安はきっと、笑い飛ばすことのできない重い枷だったことだろう。
 写真が再びドレスの生地の間にしまわれるのを見ながら、ハイエルはそれを持ってきた判断を、本当に良かったと思った。王女であるという確信のないままの彼女と会い続けていたら、はたしてこんなふうに、本心を打ち明けあうことはできていただろうか。そうはいかなかっただろうな、という想像のほうが容易い。
「ハイエル、今、改めてそれを聞きたいと思っています。私は貴方にとって、どう見えているでしょう?」
「どう、とは?」
「貴方が私を思い、私を知らず、私に縛られて過ごした十八年という長い時間。その日々に敵うものは――今、目の前にいる私の中に見つかりますか?」
 ハイエルは静かに、ライラを見つめた。アイスブルーの双眸はそんなハイエルをより強く、より真っ直ぐに見つめている。底まで見抜かれそうに強く、芯にほんの少しの期待と不安を抱えた眼差しだ。
 恐ろしさを感じないのは、嘘をつく必要のない答えがすでに出かかっていることを、自分が何より分かっているからだろうか。強くなる伽羅の香りに包まれて、ハイエルは答えた。
「見つかりそうだと、掴みかけています」
 紫黒の眸をかすかに細めて、そう笑う。世界が入れ替わる最後の一瞬に、ライラが安堵したように微笑むのが見えた。


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