第三幕


 騎士にとって剣とは、自らの力そのものである。強くなりたい、父と同じ、あるいはそれを超えるような実力と賞賛を得たいという、心底の思いがそこには反映されていた。人に見せればいわゆる若さ、と表されるもので、ハイエルが日頃、できるだけ滲ませぬようにしたいと思っているものの一つだ。形ある体はそれを隠せても、魂まではごまかせないらしい。
 どこか他に、変わったところはないだろうか。指先から足元まで確かめてみたが、一見して変化があるようには見受けられない。これでもし煌びやかな衣装でも纏っていたものなら、すぐにでも自分を叩き起こして夢から覚めたいと思うところだったろうが、剣の他には目立って変わった部分はなさそうである。まさか顔立ちまでは変わっていないだろうなと思い、周囲を見回したところ、傍らに川が流れていた。
 ハイエルはそこに近づき、水面を覗き込んだ。生者の世界、ウツロワにいたときと変わらない顔である。
 だが、ほっと安堵して顔を上げたとき、思わずその目を見開いて息を呑んだ。
 目の前に、舟が迫ってきていた。いつからこちらへ向かっていたのか、全く気づけなかった。音もなく、そして気配もない。
 舟は静かにハイエルの前へやって来ると、川面に映った彼の横顔を崩して停まった。薄い、紫の絹を顔に垂らした女が、細い櫂を川岸の砂利に突き立てて、ハイエルの顔をじっと見る。
「お待たせ致しました。七夢渡り、一命様。ハイエル・グラン様でお間違いございませんか」
「あ……、ああ」
「お迎えに上がりました。私は、この死者の川の渡し守でございます。さあ、ハイエル様」
 薄い黒の絹を、幾重にも重ね合わせたような服の袖口から、渡し守の紙のように白い手が覗く。
 ハイエルは一瞬、その異様な白さに心臓が嫌な跳ね方をしたのを押し隠し切れなかった。渡し守は顔を完全に覆っている。表情はまるで見えない。だが、あちらからはハイエルの様子が見えているようだ。
 彼女は差し出していた手をくるりと裏返すと、これを、と小さな鳶色の袋を見せて受け取るよう促した。
「これは?」
「伽羅の香袋です。トコロワへ渡るときは、必ずこれを身につけてお入りくださいませ。魂が正しく、ウツロワで眠っている体へ帰るための、大切な御守りでございます」
 貝殻ほどの大きさのそれを、指先で受け取る。手にしてみれば、仄かに甘い、質の良い香りがした。
 礼を述べると、渡し守は無言で深く頭を下げる。ゆったりとした、川面をたゆたう花弁のような所作だった。
「どうぞ、お乗りくださいませ。これより先、舟はトコロワへと参ります。貴方さまの、最も望む方がお待ちです」
 ハイエルはごくりと固唾を飲んだ。靴底が砂利を離れ、木の葉のように質素な舟へ乗り上げる。舟は渡し守が櫂で支えているだけだ。ハイエルが乗るときに少し傾いたが、彼が両足を乗せ終えて座ると、ゆっくりと安定して川面を滑り出した。
 対岸は霧が立ち込めていて見えず、川の幅もどれくらいあるのか見当がつかない。ハイエルはただ黙って、前に立って舟を進める渡し守を見つめていた。
 彼女を女だと知らしめるものは、声と、その華奢な背格好くらいしかない。体は足の先まで黒い絹に覆われているし、顔は見えず、髪さえも服と揃いの黒でその大部分を覆い隠していた。
 抑揚のない声音で話し、一本の櫂で器用に舵を取る。その櫂の先、死者の川にある流れは、非常に緩やかなもののようだ。舟は現れたときと同様、音を立てずに進んでいく。
 ふと、どこまでも続くかと思われた霧の隙間から岸が見えてきた。対岸だ。ウツロワの岸と同じ、灰色の砂利が広がっている。
「トコロワでございます」
 渡し守がハイエルを乗せたときと同じように、櫂をその砂利に突き立てた。舟が岸へ寄せられて停まる。
「よい邂逅を」
 舟を降り、後ろを振り返る。渡し守は深く頭を下げて、舟の向きを変え、霧の中に消えていった。
 残されたハイエルは、すうと息を吸い込んだ。水際独特の、しっとりとした空気が満ちている。霧はほぼ晴れていたが、そこはまるで広々とした洞窟のようだった。高い天井はごつごつとした黒い岩でできており、空の見える隙間一つない。川の他には遠くにぽつぽつと街灯らしきものが立っているだけで、規則性はなく、明かりの集まっているところもあれば、反対にどこまでも暗く見えるところもあった。
 閑散として寂しい場所だと思ったが、足を進めていくと、ハイエルの歩いた跡に月明かりのような花が芽吹いた。驚いて歩みを止める。すると花は、まるで導くようにハイエルの前に次々と咲き始め、時折曲がりくねりながら一本の光の道を作った。
 その先を目で追って、はっと息を止める。


- 7 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -