第U章


 空中廻廊に、春の光が降り注いでいる。白い屋根に遮られて身体に触れることはないが、それらは廻廊の両側から布を垂らすように入り込み、タガンの足元で一つに繋がって大理石を温めた。こつ、と革靴の先で白い石の中央にあるオレンジの滲みを踏む。夕日の残骸のようだ。あるいは、海岸に埋まった太古の貝殻の。
「――タガン」
「アド」
 そこまで考えたとき、ふいに背中から声をかけられて、どことも知れない海辺の風景はタガンの脳裏から砂のように消えた。黒髪に漆黒の目をした、壮年の男が歩いてくる。アドアダリデ。先日の対面式の折、タガンを白の塔へ案内した外套の男だ。長いので、アドと呼んでいる。略さなくても構わないのだが、周りが皆そう呼ぶので、タガンもそれに倣った。
「ユリア様のところへ出向かれるのか」
 アドは今日も外套を羽織っていた。背中から見ると上質なランプブラックのそれは、正面から見ると深紅にはためく。地位あるものの称号だ。深紅は、王家の男の眸の色に伝わるクラレットの次に、王宮では高貴な色となる。
 先王の眼差しを鮮明に思い出させるせいか、あまり心に落ち着く色ではなかった。ええ、と頷きながらそれとなく視線を外す。踏み越えたばかりの大理石の滲みを、もう一度見つけた。紋様のように、もう記憶に焼きついている。
「そなたがここへ来てから、一週間が経つが……、どうだ、何も問題はないか」
「はい、特には」
「それならばよいが。どうも、そなたはあまり口数の多いほうではないようだからな。生活に不備があれば、手近な者に申されるようにな。私へ直接、伝えていただいても構わない」
 淡々としているが、親身な声音でアドはそう言った。タガンには今、白の塔から廻廊を渡って十分ほどのところにある、王宮の一室が与えられている。客室として使用しているうちの一部屋らしいが、長期滞在する国外からの使者や、王宮の依頼でやってきた職人などのための部屋で、長く暮らしても居心地の悪くない造りに工夫されている。
 寝台や書き物机はもちろん、電気もあったが燭台も用意されていたし、暖炉や簡易的なキッチン、風呂も備わっていた。クローゼットの使用は自由だ。家事は自分で行っても良いが、特に断らなければ、王宮務めのメイドたちがそつなくこなしてくれる。騎士食堂の使用も許可が出されているので、食事も専らそこで済ませることができた。
 不備など一つもない。あえていうなら、王宮の部屋を借りたいとは一言も言っていないのにこの待遇の良さであることは、記憶の騎士である自分を逃がさないように、王宮が一丸となって見張っているからなのだろうかと、それだけは唯一頭を過ぎったが。口にするのも浅はかというものだろう。そうだとしても何らおかしなことではないし、もしそうであれば、その筆頭はアドだ。タガンは自分の世話役を命じられた男に視線を向け、なんだと問い返した眸に、緩やかに首を横に振った。
「本当に、何もありません。遠慮ではなく」
「そうか。うむ、それならよい。引き留めて失礼した」
「いいえ」
「ユリア様を、よろしく頼むぞ」
 返事の代わりに一礼をして、去っていく後ろ姿を数歩、見送る。どうやらタガンの姿をみとめて、わざわざ廻廊をここまで向かってきたらしい。白の塔へ用があったわけではないのか、アドは来た道を王宮へと戻っていった。踵を返し、人気のない扉を目指して、タガンは進む。
 対面式の日、聖職者が扱っていた鍵は儀式用のもので、白の塔の扉にかけられた錠は、横にあるもう一つの鍵穴を使うと小型の鍵でも開けることができた。革紐を通し、シャツの下に提げた鍵を取り出して開ける。錠の大きさには変わりがないせいか、音ばかり仰々しい。
「ユリア」
 片手では開かない重い扉をゆっくりと引くと、扉を這っていた光が中へ流れ込む。彫刻された女神の横顔から白さが立ち退き、代わりに室内に座り込んだ少女の後ろ姿を明るく包んだ。
 床まで広がったローズダストが、物音に反応して緩やかに振り返る。扉が重々しい音と共に閉まると、左右と天井の小さな三枚の窓だけに照らされた室内は、水槽の中のような霞んだ光で満たされた。細かな塵が煌くのが見える。それさえ生命を持ったものに見えて心が少し穏やかになるほど、この部屋の中には、動くものがない。
「おはよう、ユリア」
「……?」
「僕はタガン。朝がきたから、君の様子を見に来たんだ」
 しゃがんで視線を合わせれば、グレイの眸は怯える様子も微笑む様子もなく、じっとタガンを見つめ返した。崩した足の上で、小さな緑が散らばっている。アイビーの葉だ。悪意も意図もなく漫然と千切られたそれを手のひらで払いのけ、タガンは短い溜息をついて、場を片づけ始めた。ユリアは座り込んだまま、ぼんやりとそれを目で追いかけている。
 記憶の騎士として対面式を終え、正式に務め始めてから一週間。ユリアは未だ、タガンの名を口にしたことはない。タガンの仕事は主に、日に数時間ほど、対の存在であるユリアの傍にいること。それだけでは時間を持て余してしまうので、王宮の書庫から借りた薬学や植物に関する本を読みながら過ごしているが、口を利くわけでも共に本を覗くわけでもないユリアが常に視界の端に座っているため、あまり落ち着いて読めるものでもない。
 彼女は基本的に、言葉を発しない。忘却の力そのものを身に宿しているせいか、言葉を覚えていることができないのだそうだ。誰かと話をする、という概念がないせいか、声を上げる、という行為そのものが少ない。タガンがここへ来るまでは、忘却の力が記憶の力を求める反動で度々錯乱状態に陥り、そういったときには叫び声を上げていたという。だが、今ではそれもない。目の前にいる少女は剥製のように静かだ。アドが、かつてはこうだったと言っていた。忘却の力が、まだ彼女の中で、穏やかに居座っているだけだった頃。
「……目が、痛いだろう」
 もっとも、当時から彼女は白の塔に隔離されていて、決して普通の子供とは言えない幽閉生活を強いられていたようだが。前髪が眸にかかるのを指先で退けてやりながら、タガンは瞬き一つせず近づいてくる指を見ているユリアに苦笑した。


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