第T章


 タガンは幼い頃から、ものを忘れるということがない少年だった。赤子の頃は両親だけでなく、一度抱いた人には大人しく笑ったもので、周りの人々には利口そうな子として愛されて育った。一度体験したものは過度に怖れることをやめ、体を流すときも、医者へかかったときも、大声で泣き喚いたのは最初の一回きりだった。代わりに、嫌な思いをしたものに対しては、永劫に泣き止まないのではないかと思うほど酷くぐずり、両親を困憊させた。そのため、彼は周囲の人々が誉めそやしたほど、両親に手をかけずに育ったわけではない。
 しかし、頑ななところを除けば、やはり賢いことに変わりはなかった。言葉を理解し始めたことと、言葉に意味を持たせて繋げ始めたことはほとんど同時期であり、両親の名を覚えたと思った翌日には、それが単なる響きではなく二人の名であることを分かっていたようだった。
 彼の知識の蓄積はやむことを知らなかった。二本の足で歩き回れるようになると、言葉のみならず、もののありかを詳細に記憶し始めた。玩具の馬、お気に入りの枕、脱ぎ捨てた靴下、新聞紙、母親の髪留め、父親の毎朝使っているコーヒーカップ。教えたつもりのないものまで記憶している幼児の好奇心に、両親は感服したし、同時に他の子供たちの愛らしくも聞き分けがない話を聞くと、かすかな優越感さえ覚えた。
 しかし、彼が色鉛筆を握って絵を描くようになると、それは仄かな怖れに変わった。タガンは、レストランの窓越しに見た余所の家の庭の風景を、寸分違わず描き出したのだ。
 違わずといっても、無論、子供の絵であるから技術はない。ただ、とても正確で、花の色の一つ、木の一本の高さをとっても、現実の風景と比べてどこにも過不足のない絵だった。両親はこのことを、密かに二つ隣の町の医者に相談した。すぐに検査が行われたが、結果はこれといった異常もなく、脳にも特異なものはみられなかった。代わりに一つ、新たなことが判明した。タガンは物心ついてからのことばかりを記憶しているわけではなく、生まれる前のこと、つまり、母の胎内の音に関する記憶を持っていたのである。
 両親はこのことを、進んで口外はしなかった。この頃になると自分たちの子供が、もはやただの「利口な子」ではないことは気がついており、ただし判断を下すにはまだ尚早であると考えたためだ。下すにしても、どのような判断をしたらよいのか、両親もまだ決めかねていたせいでもある。ごく普通の、という表現を少し外れた子供であることは分かっていても、ではそれが異常かと問われれば、タガン自身がそれに苦しめられている様子も見受けられない。玩具と色鉛筆が好きな、少し無口な、どこにでもいる子供だった。好き嫌いもなく、ビリジャンの大きな目が、影に溶け込む猫のように沈黙して、常に何かを見ている。
 両親は、タガンについてあれこれと考えることをやめた。それは探るような目で見るより我が子として愛そうという思いからでもあったし、本当のことを言えば、考えても分からないということが恐ろしくもあったからだ。最初に折れかかったのは母親の心で、彼女は自分が産んだ子が何者であるのかということに、日夜思いつめるあまり痩せ細ってしまった。気づけばタガンは五歳になっていて、母親はもう何年も、ずっと同じ自問自答を胸の中で繰り返していたのである。彼女の様子に気づいた父が、すべてやめよう、と言った。考えること、悩むこと、自分たちの子供に畏怖すること。代わりに、二人はタガンが「賢い子」と褒められた過去も、一旦忘れ去ろうと話し合った。驕らず、怖れず、彼を普通の子供として、愛情を注いで育てること。それが、両親の出した結論であった。
 だが、ひとたび外へ出ればそうもいかない。一年が流れて、タガンは学校へ通い始める歳になった。ボルドーとチョコレートのストライプ模様が美しい、ベスト型の制服のある私立の学校へ入学した。公立の学校へ行かせるつもりだったが、入学試験で異例の点数を出し、裏を疑われて入学を拒否されたのである。困り果てた両親が私立の学校を頼って、学長のみに事情を明かし、学力を買われたタガンは特待生として無事に入学を果たした。
 その学校は有名な進学校であったこともあり、しばらくは平和な日常が続いていった。タガンは相変わらず何もかもを記憶するおかげで、成績では常に上位だったが、満点を取ることが当たり前である子は彼一人ではなかったのだ。学校でのタガンは頭がいい子供の一人に過ぎず、元来目立ちたがりな性格ではなかったことも手伝って、比較的大人しい生徒として淡々とした生活を送った。
 玩具を持ち込めない学校では、本と色鉛筆が彼の遊び道具となった。家に帰ると、読んできた本の話をする。合間に、そこまで読んだときに誰々が話しかけてきただとか、誰々が黒板に絵を描いていただとか、細かな情報も織り交ぜて語られる。彼にとって、それらは一つの大きな引き出しの中に、分別をされることはなく入っていた。記憶とは、そういうものだと生まれながらに思っていた。底のない引き出しは、彼がこの世に生を受けてから今このときまでの記憶を、すべて色褪せることもなく同等に保管して扱っている。両親がそれをおかしなことだと口にするのをやめていたので、タガンはそれが普通ではないと、十歳になってもまだ気づかずにいた。
 その頃になると、初めは学力の高かった生徒の中にも、上位からこぼれ始める生徒が現れてきた。勉学に最初の得意、不得意が芽生え始める年頃に差しかかったのだ。保たれていた均衡が音もなく崩れたように、授業のテンポや一部の生徒の生活態度、教師との関係がみるみる変わっていった。陰と日向がそこに生まれた。喩えるなら、そういう感覚だった。
 タガンは記憶が物を言う科目に関しては、勉強を積む必要がなかったので、必然的に計算や運動に力を注ぐようになった。その結果、彼はクラスでただ一人、すべての科目で減点のしようがない成績を修め続けることになったのである。二年が経ち、十二になった彼が主席で卒業する朝、これまでの成績表が全員分開示されて、一点の減点もないタガンの結果に、生徒は皆、自分の成績よりも目を引かれた。
 その話はまずクラス内に、次に学校内に広まり、理事へ繋がって地域へ流れ出した。回りまわって両親の耳に届いたときには、噂はとっくにあらゆる垣根を越えて、町の外へと迸っていくところだった。両親は何とか、それを食い止めようとした。しかし、徒労に過ぎず、ついにある日タガンのもとへ王都からの使者が訪れた。
「国王様より、貴方にお会いして話されたいことがあるとのこと。王宮までご同行願います」
 拒否をする権利は、どう考えてもなかった。両親は白い顔をしてタガンの手を強く握り、きっとすぐに帰れるから、と一人呼び出された我が子を宥めた。母親が荷を慌ただしく詰め、父親が何やら、鎧に覆われた兵士とずっと話をしていた。きしくも彼の、十三歳の誕生日の前夜のことだった。


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