第W章


 その変化は雪解けと共に訪れて、春が芽吹き、タガンが十九歳の誕生日を迎える頃、誰の目にも明らかなものとなった。
 最初に気づいたのは、ユリアの世話をしているメイドだった。初めはただ、凍えるような冬が終わり、塔の中も暖かさが満ちるようになってきたからだろうと、あまり気に留めなかった。彼女にはそれよりも他に、仕事がたくさんあった。冬の間に白の塔へ運んだ毛布や薪ストーブを、片づけなくてはならない。小さなクローゼットの中身をそっくり入れ替えて、春のドレスにしなくてはならない。七分袖のシフォンのドレスを新調したものを、いつ頃から着せようか。朝夕が肌寒いかもしれないと思っていると、いつの間にか夏になって、着られなくなってしまう。
 兎にも角にもそんなことを毎日考えていたので、肝心のその白の塔にいるユリアの変化に気づいたのは、彼女の変化が比較的分かりやすく表に出てきてからだった。いつものように朝早く、白の塔へ行って「おはようございます」と挨拶をし、昨夜のうちに決めておいたドレスを手早く引っ張り出す。クローゼットに向かう自分の背中を、ユリアがじっと見ているこの短い時間が、彼女はあまり得意ではなかった。こちらを見ているようでいながら時々とても無機質に見える、あのグレイの眸にどうしても慣れない。
 もう何年もやっているのに、と思いながらも、その胸のざわつきは堪えようと思ってどうにかできるものではなく、ただ本能的に恐ろしく感じてしまうのだ。以前は少しでもその視線を感じる機会を減らそうと、ユリアの前髪を長く伸ばしたままにしていたというのに、事情を知らない記憶の騎士がやってきて早々に切ってしまった。
 どうしようかと思った。あのときは一瞬、もうこの仕事も限界だとさえ感じたが、本音を言えば、久方ぶりにきちんと見たユリアの顔立ちに、いつの間にこんな美人になられたのかと嘆息もした。眸を向けられると相変わらずその視線から逃れたくなるが、天窓を見ているときの横顔など、彫刻のようで美しい。無機質だ、と思っていたが、確かに年月を重ねて成長している。そのことに気がついたおかげで、数年ぶりに、彼女が人間であることを実感できた。
 メイドは以来、ユリアの前髪を整えるようになった。所詮、こんなものを伸ばしたくらいで眸のすべては隠れない。それにどうせ、またタガンに切られてしまうのだろう。それなら初めから、慣れた自分が行ったほうがましだ。怖いのならば、「何でしょうか」と言ってみればいい。時々、ユリアの視線を感じると、メイドは見つめ返し、そう声に出して言った。答えはないが、そうすると少し、気持ちが落ち着くのだ。自分を見つめているのは未知のものではなく、人間の少女だ、ということを思い出すことができる。
 そんなふうにして段々と、タガンのやってきた春からユリアの眸を見ることの多くなっていたメイドは、クローゼットをかき回しているとき、視線を感じて後ろを振り返った。やはりユリアがじっと、自分のほうを見ていた。生物は皆、動き回るものが一つしかない環境では、自然とそれを見つめるのかもしれない。目的のドレスを手に掴んで、クローゼットを後ろ手に閉め、首を傾げる。
「何でしょうか、ユリア様」
 わずかに強張りそうになる声を、できる限り上手くほどいて、いつもの調子でそう口にした。そのときだった。ふと、ユリアの眸が揺れ動いたのだ。
 メイドはその大きな光の揺らめきに一瞬、わけもなくぎくりとし、それから慌てて息を吸って吐いた。天窓からの光が、ちょうど真っ直ぐに差したのだ。そのせいで、あたかも反応したように揺れて見えたに違いない。にこり、と笑みを唇に戻して、さあ着替えをいたしましょう、と気を取り直してユリアへ近づいていく。見上げるグレイの双眸に、いつになく心臓が忙しなく動いて――メイドは小声で、もう一度その名を呼んでみた。
「ユリア、様?」
 瞬間、はっきりとユリアが、今度は瞬きをした。これにメイドは心底驚き、声を上げることもままならずにドレスを取り落として、白の塔を駆けて出た。空中廻廊に立っていた早朝警備の兵士が、靴の紐も結ばずに走ってきた彼女を何事かと捕らえる。どうした、とたずねられて、彼女はぱくぱくと口を開いたり閉じたりした後で、ようやく言った。
「ユ、ユリア様が」
「ユリア様……? 一体何があったんだ」
「ユリア様が、ご自分の名前に、反応を示されて……!」
 兵士は数秒ほど、彼女の言い分を理解するのに間を要した。だが、理解が追いついた瞬間、メイドを掴んでいた手を離して、驚きに声を上げた。その声に王宮と廻廊の間を警備していた兵士や、中庭の見回りをしていた兵士までもがどうしたと駆けてくる。呆然と向き合っているメイドと兵士を問い詰め、彼らから短い話を聞き出すなり、駆けつけた者たちも皆、一斉に目を見開いて動揺した。
 ことはすぐに王宮内へ広まり、風のごとく駆け巡る話題となった。王女ユリアと言えば、忘却の、白の塔の、人形のような、剥製のような、という印象をそれぞれに抱いていた人々は、初めはそれを時の話題としながらも、メイドの見間違いだと思って真に受けなかった。だが、メイドが何日経っても白の塔へ行くたび、「今日も反応した」と言うので、次第に事実なのではないかと考える者が増え始めたのである。王宮内は再び、その話を信じるか否かという話題で持ちきりとなった。
 ついにはメイオールの耳にまでその話が広がり、彼はアドを呼びつけ、真偽を確かめるようにと任せた。すでに噂の真相を賭け事にしようとした若い兵士が数人、謹慎の処罰を受けている。ことがこれ以上大きくなる前に、アドが代表としてそれを確かめに行くこととなった。渦中のメイドと数人の聖職者を伴って白の塔へ出向いたアドは、扉を開け、冬以来数ヶ月ぶりにユリアの姿を確認し――静かに、その名を呼んだ。
 王宮の騒ぎは治まることを知らず、メイオールの命を受けたアドからの決定的な一言によって、ますます膨れ上がった。「王女ユリアは、自らの名を確かに認識している」――それが白の塔へ行って、直接ユリアと対面したアドの見解だった。メイドの声のみでなく、誰の声に呼ばれても、ユリアという響きを認識することができているように見受けられる。それが「名前」というものであることを理解しているのかは分からないが、少なくとも、彼女はその音の響きを覚えているのだ。
 メイオールはたった一言、そうか、と言ったきり、この事態について色々と思うところはあるようであったが、特にどのような手を打てとも、自分の下に連れてきてみろとも言わなかった。先例を聞かない出来事であり、すぐには対処の方法も、対処をすべき事柄なのかどうかも判断がつけられなかったのかもしれない。忘却の王女は、自分という概念さえも忘却するため、自らの名前を長期に渡って把握することもない。それが今までの王宮での常識であり、忘却の王女について当たり前に語られてきたことだった。

「タガン、私だ。入るぞ」
「どうぞ」
 白の塔の扉が、やや荒々しく叩かれる。外套を翻し、片側を開けて滑るように入ってきた男に、タガンは軽く微笑んだ。おはよう、アド。ビリジャンの眸がわずかに細められ、瞼の影で、瞳孔の色が一段階暗くなった。アドは徐に目を伏せて、深く息を吸った。ソファに座っているタガンとユリアを見下ろし、その手元へ視線を向けて、困惑した顔になる。
「何をやっている」
「何って、本を読んでいるんだよ。普通の絵本だ」
「……そのようだな。お前が読むためではなさそうだ」
「読み聞かせているのは僕だ。だから、僕が読んでいる本でもある」
 タガンは悪びれることなく、そう答えた。ユリアは二人のやり取りよりも、めくられたばかりのページいっぱいに描かれた海の絵に見入っている。海、鳥、魚。一つ一つ、指で示しながら描かれたものを教えていくタガンを、アドはしばらく呆然として見ていた。だが、やがて落ち着きを取り戻すと、外套の下の拳を震えるほどに握り締めて言う。


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