第V章


 王宮への務めが始まった春は思いのほか目まぐるしく過ぎていき、気づけば夏が盛りを超えて、秋の気配を呼び寄せようとしていた。朝晩に聞こえてくる聖職者たちの声、忙しなく動き回るメイド、兵士たちの交代時の喧騒。慣れない王宮での生活に、知らず心労が募っていたらしく、タガンは夏の中頃に一度、体調を崩して床に臥した。高熱を出したことなど、十歳かそこらの子供のとき以来だった。自分ではあまり気にしていないつもりだったが、急な生活の変化が案外堪えていたのかもしれない。
 回復に三日ほど要し、その間は意識が曖昧で白の塔へ出向くこともできない状態だった。部屋の窓からは、塔の側面と廻廊が見える。時折、春に何人からともなく言われた「タガンが来てから、ユリア様は安定した」という話を思い出して、今はどう過ごしているのだろうかと考えた。
 幸いにも、それまで毎日欠かさず傍についていたからか、三日離れても彼女は大人しいままだったらしい。四日目、立ち上がれるようになったところでそれを聞いて、それならよかったと安心した。また枷をかけられて、囚人のように扱われずに済んだのならよかった。
 まずそう思ったことに、あとから気づいて驚き、少し足を止めてしまった。また王宮の人々に手間をかけずに済んだ、と思うより先に、ユリアの側に立ってものを考えていた。
「――ユリア」
 そのユリアはといえば、彼女は相変わらず剥製のようである。白の塔の扉を開けて足を踏み入れ、タガンは軽く、その肩に手を置いた。緩慢に、ユリアが顔を上げる。瞼の上で綺麗に揃った前髪の下から、グレイの眸が真っ直ぐにタガンを見上げた。
「おはよう。暑いね」
「……」
「仕方がないとはいえ、天窓があると夏は辛いな。アドは、空が見えると人間は正常でいられるからだって言っていたけど」
「……」
「君にもそれは当てはまるのかな、ユリア。あれが太陽だよ。隣が雲」
 アイビーを片づけながら、タガンは天窓へ指を伸ばしてそう話した。指の先を見る、ということを、ユリアは知らない。手を上へあげて、少しの間、そのままにしている。そうすると、つられたようにゆっくりと上を向く。
「……いい子」
 ふと、子供にするようにその頭を撫でた。繰り返してばかりの、単調な日々である。退屈を感じたことや、進歩のなさにやり場のない気持ちを抱えたことがまったくなかったと言ったら、それは嘘だ。それでもタガンは、白の塔を訪れることを、心の底から嫌だと思ったことは一度もなかった。
 それがタガン自身の心であるのか、タガンに宿る記憶の力のせいであるのかは、分からないが。初めてユリアを見たときの、身を焼くようなあの感覚は、今でもこうして時々手の中に帰ってくる。きっと、今すぐ触れたいだとか、言葉を交わしたいとか、そんな生易しい欲求ではない激情。手を伸ばしても、抱き寄せても、撫でても、多分抱いても殺めても満たされることはない。確かめるつもりも当然ないが、確かめるまでもなく分かる。
 喩えるならこの身体を、殻のように脱ぎ捨てて交じり、ぶつかり合い、侵食し合いたい。色の違うインクを交えるように、どちらかがどちらかに染まって屈するまで。反発し、求め合い、互いを乞うように争いたい。
 この激情は、そういう感情だ。忘却を目の前にして、タガンの中にあるはずの力は、タガンという器がまだ理性を保とうとしていることが邪魔でならないらしい。抑えることにも慣れてきたのか、初めのような衝撃はもうないが、今でもユリアに触れるときは手のひらが緊張する。惹かれあう事象の力に流されまいとしてこもる力と、求めていたものに触れる歓喜からくる震え。前者はタガンのもので、後者はタガンの中にある、記憶の本能なのだ。それはユリアではなく、ユリアの中に流れる忘却に絶えず惹かれている。
 タガンはいつの間にか、掴むように触れていたユリアの髪を離した。ごめん、と小さく笑ってアイビーの葉を屑篭へ捨てる。強い植物だ。ほとんど毎日葉をむしられても、また再生しては、無残に千切られて。それでも再生を繰り返している。まるでこの窮屈な部屋の中で、自分だけが彼女を慰めるものであろうとするように。
「ユリア」
 ソファに腰掛け、呼びかけると振り返るが、それきり。隣を叩いても意味は通じないらしい。やはりこれは難しいか、とタガンはもう一度立ち上がって、ユリアの手を引き、今度は二人でソファへ腰を下ろした。先日から、時々こうして椅子に座るということを覚えさせようと試みている。
 朝になればユリアがすべてを忘れることは分かっているのだが、それでも、習慣化させることができたら、自然と身につくのではないかと思うのだ。ユリアはいつも床に足を崩して座っているが、大体同じ場所に座り込んでいる。習慣化、という概念は、もしかしたら彼女の中にも存在しているのではないだろうか。もしもユリアの「忘却」というのが、「記憶」が抜け落ちていく、脳にそれを持っていられないという意味ならば、感覚や身体が覚えたことは忘れないという可能性もありえない話ではない。
 ソファの上に足を全部のせて、日頃床の上でするように膝を折った座り方をしたユリアを見て、それでもいいかと思わず苦笑した。今はひとまず、それでいい。ほどけてしまった袖口のリボンを結び直してやりながら、目に入った素足に、ふと月日の経過を思い知る。
 足首に赤く滲んでいた足枷の痕が消える頃、彼女は自分の足で立てるようになった。つい一月ほど前のことだ。枷に繋がれていたせいで筋力が低下していたのか、あるいは同じ理由で、自分が歩けるということを忘れてしまっていたから歩けなかったのか、それは分からない。ただ、手を貸せば不安定ながらも歩けるようになったことは、変化と言っていいのではないかと思う。剥製だった少女が一歩、生物に戻った瞬間を見た気持ちがした。
「――遠い遠い、昔の話です」
 隣に座ったユリアの片手を取り、注意を引かせながら、膝の上に広げた本を読み上げる。学校へ通うか通わないかの頃に読んでいた、易しい絵本だ。暖色系の濃淡で表された空の絵に、白い鳩が飛んでいる。そういえば、この部屋の天窓から夕暮れはどう目に映るのだろう。
 表情は変わらないままだが、何度ページをめくっても、ユリアは絵本から視線を逸らさなかった。時折、タガンの指を強く握る。タガンは時々、考える。記憶の力は忘却を目の前にすると激情となって荒れ狂うが、忘却の力は記憶を前にすると、安定する。同じ対になる事象でも、求め合う力の行き方はこんなにも違うのだ。縋るように握られた手に、気を抜けば胸を這い上がって溢れそうに踊っていた熱が、ほんの少し勢いを弱めた。
 見れば、ユリアが微笑んでいた。ひどくかすかに、幸福そうに。一瞬、声を失ったのではないかと思うくらい、胸の奥が締めつけられた。
 記憶がそろそろと這い出し、肩を通り、腕を伝い、指先へ向かっていく。タガンはその手で、ユリアの手を握り返した。震える指は、彼女の茎のように細い指を折り潰すことはなかった。《ユリア》に触れた《タガン》の感覚と別に、《忘却》に触れた《記憶》は焼けるように歓喜し、戸惑っていた。空が一片、海へ落ちてしまったように。絵本を押さえていた指が外れ、ページがはばたいて、ばらばらと怒涛のように物語を進めた。


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