第T章


 ――ガチャン、と大仰な音を響かせて、扉が大きく開かれる。
 白薔薇のような、クリーム色の床を光が真っ直ぐに走って、そのまま向かい側の壁へ駆け上がった。天窓でもあるのだろうか。白の塔の内部は思いのほか明るかったが、燭台が並んでいるところを見ると、電気は通っていないようだ。天窓の他に二つ、左右の壁に小さな窓があった。アイビーの鉢が置かれていて、溢れ出した葉が塔の内側を登っている。
 ああ。
 タガンはその中心で見たものに、驚きも、喜びも悲しみも、何も抱かなかった。ただ、そう思った。タガンの前を歩いていた兵士が一歩、廻廊の端へ寄り、その部屋へ続く道を空ける。鍵と扉を開けた聖職者たちも、両側へ退いて静かに頭を垂れていた。
 塔の中には、少女が一人繋がれていた。忘却の王女。亡き先王の声が、その響きを脳裏にもたらして響き渡らせる。騎士の軽装に身を包み、初めて向かい合った彼女の眸は、タガンを真っ直ぐに見つめていたが何も映してはいなかった。固まる直前の蝋のように、しっとりとして不透明で、温もりも冷たさもない。無垢ではなく、無の眼差しだった。清も濁も、そこには確かに内包されている気配をちらつかせながら、決して表には現れてこない。
「……」
 隣の男は、何も言わなかった。差し出されたタガンの手に、無言で小さな箱を与えた。タガンはそれをその場で開け、中から小さな鍵を一つ取り出して、空箱は男に返した。この鍵が今後、不要なものになることは本能で分かっていた。自分がここにいる限り。
 こんなところに連れてこられて、何の意味が、と。いつか家や農園に戻ることを支えにやってきたなどと言うつもりはないが、帰りたいと思ったことがなかったかと言えば、それはもちろんあった。宿命だの、運命だの。生まれながらに持ったものだのと、何もかも今となっては煩わしい。誰が手を加えなくとも、狂う人生でしかなかった。対になる力など、ほしいと感じた覚えはない。そんなものに巡り合わなくても、この身体は人として、生きているではないか。
 ずっと、そう思っていることを、疑ったことなどなかったのに。心臓の音が、まるでそこに別の生き物を携えているように、どくどくと大きくうねりを作って身体を震わせていた。
 タガンはその少女に、ああ、としか思わなかった。それだけで、それがすべてだった。鼓動は身体の内側を急速に巡り始めた何かに支配されて、胎動するように、強く存在を脈打たせた。思考は冷めているのに、足が前へ、前へと進んでいく。引力がそこに作用しているように、手を離したら我を失って、歓喜に叫びを上げそうな熱さが込み上げていた。
 反発し、求め合う、磁力のように対になるものを求める、記憶の力が今にも忘却へ手を伸ばそうと荒れ狂っている。
 手のひらをきつく握り、自ら爪を立てて、タガンはその激流のような感情を身の内に従えた。逆流していくそれは最深部で理性と混ざり、互いを荒らしながら同化していく。燻るような痛みが、何度となく目や、頭や胸の奥に現れては鎮まった。そうして呼吸が落ち着きを取り戻す頃には、廻廊から見た少女の姿が目の前にあった。
「――はじめまして。《ユリア》」
 カチリ、と小さな音を残して、天井から少女の両手を持ち上げていた枷が外される。ローズダストの、もつれそうに細い、小さな巻きを無数に作る髪が広がった。グレイの眸が一瞬、タガンのビリジャンの眸と交差して揺れた。倒れこんだ少女の、人の形をした忘却の身体を両腕で抱きとめる。足首に繋がれた枷が冷たい、金属の音を鳴らした。

 この日、記憶の騎士は忘却の王女と出会い、二つの相反する事象は互いの姿を目の当たりにした。
 タガンがすべての枷を外すのを、扉の傍に控えた兵士や聖職者が、緊張した面持ちで覗き込んでいた。ユリアはいつになく穏やかで、終始なんの反応も示さなかったが、錯乱したり暴れたりと抵抗することもなかった。タガンの肩口に顔を寄せたまま、自分を拘束していた鎖が取り払われていくのを、一本、また一本と見つめていた。その情景に彼女が何を思ったのか、何も思わなかったのか、それは分からない。
「泣き喚いて肌に爪を立てて傷つけたり、髪をぐしゃぐしゃにして壁に縋りついたり、酷いものだった。こうして繋いでおかないと、自分の身を傷つけかねないくらいに」
 タガンを隣で案内してきた外套の男が、呟くように言った。後ろに流した短い髪を片手でかき上げて、その口許を少しだけ綻ばせる。
「歳を重ねるにつれて、その傾向はどんどん酷くなっていった。……何年ぶりだろうか、こんなに穏やかなユリア様を見られたのは」
 聖職者たちが書を開き、祈りの詞を口ずさんでいた。節をつけているが歌ではなく、それは揺らぎながら青天の空中廻廊を駆け抜けて、大気に染み込んでいく。兵士たちは男の言葉に頷き合って、鎧兜の下の表情を柔らかなものにした。
「万物の流転に、祝福を」
「我々は我々の中に求める、相反するものを、その輝きを」
「ここに再び巡り会いし、記憶の騎士、タガンと、忘却の王女、ユリアに祝福を」
「理と力によって、我々の大地を護りたまえ」
 兵士たちが一斉に剣を掲げた。銀に輝く切っ先から、弾かれた光がスコールのように注いでくる。飛沫は形を持たない矢となって、タガンの身をユリアもろとも貫き、白の塔に張りつけた。記憶の騎士の務め。それを果たすまでの日々があとどれくらいあるのか、タガンにはまだ、明確な見当はつかない。
 長い空中廻廊の先にある王宮が、口を開けば自分を呑み干す怪物に見えた。祈りの詞はまだ響きやまない。吹き寄せた風に揺すられて、ユリアの髪が首筋をくすぐった。そうか、これは現実なのかと、今さらながらにタガンは思った。


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