第T章


《白の塔》へ繋がる空中廻廊に、無数の足音が響き渡る。銀色の靴を履いているもの、三対。革の靴を履いているもの、二対。先の尖った聖職者の靴を履いているもの、多数。列を組んではいるが行進を目的としているわけではない彼らの足音は、思い思いの音を鳴らして、皆一様に塔の入り口を目指していた。光が中央にのみ、ダイヤ型を連ねるように並べられた大理石に照り返されて、列の中心から少し前を歩いている青年の、ビリジャンの眸を針のように貫いて煌く。
「資料にはくまなく、目を通していただけたか」
 青年の隣を歩いていた革靴の男が、漆黒の、鋭い印象を与える眸を持ち上げてそうたずねた。壮年の、肩の広く堂々とした佇まいの男である。左に幅のある剣を提げ、軽装であるが外套を羽織っていた。王国の紋章である獅子と蓮の花を模した縫い取りが、外套が風に煽られるたび、その深紅の内側に顕わとなって金に光る。
「はい」
 その男の目と獅子の目を交互に見つめてから、同じ革靴を履いた青年は短くそう答えた。彼らの前後を固めるように並ぶ、金属の足音にかき消されそうな、抑揚のない返事だった。隣にいた男には、充分に届いたようだ。彼は頷いて、そうか、と青年を見やる。
「そなたがそう言うのであれば、私からこれ以上、何を伝える必要もあるまい。――タガン」
「はい」
「何か、聞いておきたいことはあるか」
 タガン。呼ばれた青年の横顔がかすかに動き、ストーングレイの髪の一筋の合間から、彼は隣を歩く男ではなく、正面に見えてきた扉を見据えた。大理石の柱が六本、左右に向かい合って並んでいる。その向こうに、彫刻の施された白い扉があった。濁った銀の、大きな錠がかけられている。その鍵を持っているのは、タガンでも、タガンを案内する隣の男でもない。
 金と白の、顔を目深に、体を爪先まで覆った一続きの布地で統一された服装の聖職者たちの、先頭を歩いていた一人が、濁った銀の鍵を取り出す。剣のようだ、と思った。カーン、カーン、カーン、と錠に打ちつけて、高い音を三度、響かせてから真っ直ぐに構える。
「特に、ありません」
 鍵穴の、大きく回る音が聞こえた。

「記憶の騎士……?」
 喩えるならそれは、光に影が。空に海が、太陽に月が。目覚めに眠りが、生に死が、常に呼応し続けているように。万物は一つでは成り立たず、対角に、あるいは鏡や背中になるものを求め続ける。
 その、求め続ける力こそが、この世界を成り立たせているのだと。雪のような髭を蓄えた老王、マルシスに、タガンが教えられたのは十三歳になってすぐのことである。辺境でもないが都会でもなかった住み慣れた町から連れ出され、荷車の音と蒸気機関車の音の響く王都へ一人やってきた少年に、老王は自ら、この王国に伝わる教えを説いて聞かせた。
 対になるものを、大切にすること。反発し、求め合うそのエネルギーを、信仰すること。朝には夜のための祈りを、夜には朝のための歌を。物事の始まりには、糸の尾を結ぶことを。そして終わりには、その結びを解くことを。
 それらは町へ出れば、もう百年の昔に忘れ去られているような慣習で、話して聞かされたところで、タガンの知っているものは一つもなかった。だが、王宮の中では信仰されていることが当たり前であり、王宮がその信仰を守り続けていることがこの国を守護しているのだと、それについては町の人々も同じ考えであるようだった。失われた伝統を、国民を代表して守ることで、王国の安泰を導き続けているもの。国王への認識というのは、王宮の内外を問わず、それで共通していた。
 タガンにも覚えがあった。両親にかつて、王とは何なのかと聞いたところ、我々に代わってこの国を守護し続けている存在だとの答えがあった。学校では、国民と万物を繋ぎ、王国の要となる役割の者だと習った。流動する時代の中で、国民の暮らしは変化を続けていく。それでも、王だけは変わらぬ信仰を持ち続ける。その思いが、対になるものを求め続ける万物の力を引き寄せ、王国に均衡をもたらし続けるのだと。
 そして今、まさに少年、タガンはその信仰の一部として、抗えない王宮の伝統に取り込まれつつあった。老王は清澄とした眼差しで微笑む。十三歳の少年の、ビリジャンの眸にそのクラレットは強すぎた。
「然様。貴方の話を聞いて、確信しました。やはり、タガン。貴方が、新たな記憶の騎士の器」
「僕が……」
「忘却の王女の、対となる者」
 諭すようにゆっくりと口にされたその言葉に、ここへ来て最初に王から聞いた話が、頭の中で甦って奔流のように駆け巡る。生まれながらに、人と違った力を手にしていたタガン。彼自身は、このときに初めて、自分が他者と違っているという事実を明確に知った。それはタガンの中にある、記憶の力なのだという。生まれる前から今日に至るまで、何もかもを正しく、平等に、そして詳細に記憶しているその力。
「名を、ユリアといいます」
「ユリア、様」
「呼び捨てで構いませんよ。貴方には、それだけの立場と権利がある」
 記憶。それもまた、この世界に満ちる事象の一つであり、対を求める力の一つである。生物の中にあって初めて姿を現すその力は、遥かな昔から、王国に生まれる男児の中に引き継がれてきた。力を抱えた男が死ぬと、また次の男児へ。そうして、さながら器から器へ移し替えられる水のように、何もかもを記憶するその力は、宿った体が息絶えても消えることなくこの国に現れ続ける。
 そして記憶の対である、忘却の力は女に現れた。王家に必ず生まれる、一人目の王女。何度、代が替わっても、この忘却の力だけは必ず王家に継がれていく。彼女たちは皆、国民の前には現れず、結婚もしない。そして短命だ。自分たちの後に生まれた兄弟、姉妹に子供が生まれると、一人目が必ず女児であり、その力を継いでいる。まるで魂そのものが転移したように、忘却の王女は息を引き取る。下に生まれた兄弟と歳が近ければ近いほど、彼女らの生涯は短く、呆気ないものであることが多い。
「五年は、奪わないでしょう。貴方の時間を」
「え?」
「対になる記憶の力を持つ者が傍にいてくれると、王女は安定するのです。ユリアは貴方より、一つ下。すぐ下に弟のイースがおり、十八になったら隣国の第二王女と結婚が決まっています。早ければ、二十歳を迎える前には次の王女が誕生している。十八からユリアの傍に仕えていただいて、五年。遅くとも、貴方が二十三歳になるまでには、貴方をこの務めから解放することをお約束します」
 王の言葉は、少年のタガンが理解するには多少の時間を必要とさせた。淡々とした声で、微笑みを崩さずに語られた内容に頭が追いつくに従って、彼は顔を歪めた。この人は、なんて。指が震えることも、歯が鳴ることもなかったが、タガンは胸に湧いた苦い熱の飲み下し方が分からなかった。
 なんて、冷酷な人だろう、と。微笑みの奥にある感情の泉が、鏡のように真っ平で、そこには何ものも存在していないのではないかとさえ思った。


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