第W章


「……やめておけ。無駄だ」
「どうして?」
「お前も分かっているとおり、この方は本来、言葉を翌日まで覚えておくことは不可能だ。お前が教えたところで、残るものは」
「なんだ、そんなことか」
「な……」
「アド。言葉を覚えるかどうかなんて、どうだっていいと思わないか。……見てみてよ」
 タガンはそう言って、自分が手にしていた絵本をユリアに預けた。ユリアはそれをしばらくぼんやりと眺めたあと、自分の指でページを一つめくる。紙の擦れ合う音が、静寂に響いた。夕景に変わった絵の中を、白い鳩が飛んでいる。
 ふ、と。ユリアはかすかに微笑った。アドが思わず息を呑む。クリーム色のカーテンを滑り落ちてソファへ注ぐ光の下で、その笑顔はとても、幸福なものに見えた。物語は一方向に進むということを知らない手は、気紛れにページを進めたり、遡ったりする。タガンはそれを、間違いだと否定はしない。時折、ユリアの視線が留まる場所に描かれたものを見つけては、淡々とした声でそれの名前を教えた。
 灯台、太陽、水飛沫。雲、魚、砂、足跡。
「最近、アイビーを千切る癖がなくなったよ」
「……」
「精神が安定した今、彼女にはこの塔の中で暮らす時間を埋めるものが必要なんだ」
「……ああ」
「アド、貴方たちは僕に書庫の本を貸し出してくれたり、生活に不足しているものはないか、親切に聞いてくれる。それは僕の、白の塔での時間が退屈だろうと思うからだろう。それは本当に、僕だけだと思うのか?」
「……」
「気づかないふり、知らないふりをしても、それこそ無駄だ。貴方たちだって、本当は疑問に思っているだろう!」
 否定を許さない、強い口調に、アドは自分の首の後ろがすうっと凍るのを感じた。叫んでいるのは丸腰の、息子に近い歳と言ってもいい田舎の若者だ。だが、目の前で言葉を放つ青年の中に、逆らうことのできない何ものかが揺らめいているのが見え隠れする。それは今、タガンであり、タガンでないものだった。見知った青年の身を借りている、彼の中の、遥かな昔からこの世界に存在し続けてきた記憶の力。
 それが、アドのこめかみに冷たい汗を一筋、流させたものの姿だった。ビリジャンの眸の奥に、何かがいる。剣でも、拳でも敵わない。戦って傷つけられるものでもなく、抗って切り捨てられるものでもない、大きなものが。
「……それが無駄だと、言っているんだ」
 外套をきつく握り締めて、萎縮した喉から振り絞るように、アドは低い声を上げた。そのかすかな震えに、タガンの意識がふと冷静さを取り戻す。頭の芯が冷えてくると、徐々に驚きが胸へ広がった。
 人に、こんなふうに何かを叫んだことなど、これまでにほとんどないことだった。
「知らないふりをしたくてしているわけではない。我々は、そうしなくてはならないのだ。王宮の、王に仕える者として」
「……アド……」
「忘却の王女という存在を、受け入れていくためには必要なことだ。もう何百年と続いている繰り返しを、今さら断てると思うのか。対になるものを信仰することが、この国を護っていることはお前も知っているはずだ」
「……」
「情が湧いた、などという理由で、我々がそれを覆して……王国に何かあったら、取り返しがつかない。王国には、建国という始まりがある。だから、いつかは必ず、終わりが訪れる。それを少しでも引き伸ばすために、王宮がある。永遠ではないものだから、私たちは存続のために動き続けなくてはならない」
「……」
「……そのための、無関心だ。一人の人間として扱ってしまったら、後に残るものが大きすぎる。続けていけない」
 アドは俯いて、ユリアから視線を背けた。沈黙にぱらり、ぱらり、と絵本をめくる音だけが続く。角度を変えた日差しが、ページの上部に書かれた文字を照らしていた。――ごらん、あの鳥はどこまでいくんだろう。
「認めるのか、犠牲が身近にあることを」
「そうだ」
 タガンの問いかけに、アドはきっぱりと頷いた。途端、タガンは言葉を失くしたように、唇を噛んで横を向いた。その反応に、今度はアドが動揺し、眉間に皺を刻んだ。
 タガンにとってはどちらも無意識の態度だったが、それはあまりに、先ほどまでのアドを凍りつかせた《記憶の騎士》とは別人のようだったのだ。歳相応の青年の、威圧感などまるでない、悔しさとやり場のない感情の隠しきれない横顔だった。苛立ちと無力と沈黙と矛盾と、あらゆるものに圧しかかられて、整理のつけられない思いを持て余している。ただの十九歳の、タガン自身の顔であった。
「……すまない」
「それは、何の謝罪なんだ」
「お前への謝罪だ」
 予想をしていなかった答えだったらしい。タガンがわずかに目を見開き、アドのほうへ向き直った。どういう意味だと訝しんでいるのを隠しもしない眼差しに、アドは漆黒の目を伏せ、爪先を見て口を開く。
「お前は、前からユリア様のことばかり口にするが。私の目から見れば、お前もユリア様と同じ、犠牲だ」
「え……」
「残される者、という意味での、犠牲だろう。そういう意味でも、私はお前にも、あまりユリア様に情をかけてもらいたくはない。お前は言ったな、王宮に馴染むなどとんでもないと。そうであれば、いつかはまたここを出て行くんだ。そんなふうに情を持った接し方をして、お前は心の何割を、この場所に残すつもりなのだ。抜け殻にでもなる気か」
 その言葉に、タガンは眸を驚きに染めた。そうしてそれから、ゆっくりと、笑った。くつくつと肩を揺らし、それから声を上げて笑った。一度は項垂れた首が、再び持ち上げられる。アドはその両目と視線を合わせた瞬間に、首筋を氷の手が這ったようなあの感覚が湧き戻ったのを感じて、はっと身構えた。
「貴方は、嘘吐きだな」
「どういう意味だ」
「出て行ったところで、どうせまた戻ってくる。生きている限り」
「……それは!」
「だってそうだろう。十年後か、もう少し後か。忘却の王女がまた育って、僕はまたここに帰ってこないとならない」
 六年前は、無垢なものだった、と思う。先王マルシスの言葉を、嫌悪することに精一杯で、追及することを知らなかった。忘却の王女は、次の王女が生まれると命を落とす。けれど、記憶の騎士は違う。それならばユリアの次の王女は、そのときが来たら、誰を必要とするのだろう。


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