東の果ての海の上に、その国は浮かんでいる。堅牢な石の壁に囲まれて、藤の花の咲き狂える大和の国。他国からの侵略を許さず、鶯の鳴いた年に閉ざされたその国は、西の外れの上空に浮かべた空の港でのみ外交を行い、その地上は他に類を見ない文化の根城として発展してきた。倭と呼ばれる文明が色濃く花開き、踏みにじられることなく咲き誇る。
 生活の作法、信仰、服装から食、娯楽に至るまで。すべてが独自の誕生と習合を繰り返し、膨張し、育まれてきた。
 そしてそれは、人間そのものにも例外ではない。

〈二〇五五年 首都・藤狂〉

「はいっ、どうぞ」
 にゃあ、と真っ直ぐに伸ばされた少女の腕の先で、茶白の子猫は一声鳴いた。赤い舌がちろりと覗く。少女よりもさらに五つは年下と見える少年が、ミイヤ、と呼んでその手を差し出した。
「ミイヤ、怪我は? どこに行ってたんだよ、どれだけ探したと……」
「木の上に登っちゃって、下りられなくなってたみたい。そこの公園にいたよ。怖かったみたいで震えてたけど、動かなかったぶん、怪我もしなかったんだね」
「お姉ちゃん……」
「大丈夫だよ、ほらほら抱っこして。はい、これでもう目を離さないように!」
 飼い主の少年に子猫を返した少女は、その柔らかな毛の生え揃った首に、袂から出した赤い紐を結んでやる。少年の目がぱっと輝いた。彼は嬉しそうに、うん、と頷く。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「何のその、お安い御用よ」
 私にかかればこれしき。得意げに笑った少女に、少年は憧憬の表情を浮かべた。子猫は慣れた匂いにすっかり安らいで、紺色の袖で早くも舟を漕いでいる。目の前の通りを、カンカンと銅の椀を叩きながら、水売りが走り抜けた。
「かっこいいね、万屋って」
 片手を振って、そう言いながら少年は店を後にする。出口まで見送りに出た少女は、気をつけて帰りなよ! と叫んで両手を振り返した。
 達成感と充足感が、胸を満たしていく。今日もまた、依頼を不足なくこなした。問題が春雪の下で氷の解けるようにふわりと解消され、依頼主の表情が綻び、予め受け取った報酬を何の気兼ねもなしに仕事料として頂戴できる。この瞬間のとても一言には表しがたい安堵と喜びを、何と言ったら良いだろう。
 そう、あえて一言に詰め込むなら。
「――最高!」
「なに、デレデレした顔してんだよ。稚紗」
 ごん、と脳天を軽い濁音のつく衝撃が襲った。春の湯殿に立ち昇った煙の如く、今まさに、最高潮を迎えようとしていた幸福の奔流がぶくぶくと泡に帰していく音が聞こえる。
 それは傍目に見ている者からも容易に想像がつくようで、通りを行き交う人が皆、ちらりと少女を見ては同情と好奇の入り混じった視線を向けた。稚紗(ちしゃ)と呼ばれたその少女は、からくりが下手な人形師に操られてでもいるように、ギギギと音を立てそうな緩慢な動きで背後を振り返る。
 いつの間に現れたのか、そこには少女と年頃を同じくした、銀髪の少年が白々とした顔で彼女を見下ろしていた。
「伊澄くん、何の用」
「別に。ただ、公園通ったら、猫が猫助けしてたらしいって噂が聞こえてきたからさ。どうにも知り合いに心当たりがあるような気がして」
「う、噂?」
「そう。派手に木登りして、枝から枝に渡り歩いて、最後のほうは軽い見世物状態だったって」
 まさかと思って来てみれば。自らが伊澄(いずみ)と呼んだ少年のどこか咎めるような声音に、稚紗はそろりと視線を背けた。両脇だけ肩を掠める短い黒髪が、いいところだったのに、という表情をありありと浮かべた横顔を滑らかに零れる。その頭の上で、ぴくりと二つの耳が動いた。彼女の持つ髪と同じ、つやのある黒い毛並み。
「――いくら、化け猫っていったって。そうやって無茶やって、何度か落ちたと思うんだけど? いい加減、お前は懲りるってことを覚えろ」
 良薬は口に苦し。伊澄の言葉に、稚紗は無言で耳を不機嫌に倒した。背中では同じく真っ黒な尻尾が、苛立ちを示して左右に揺れている。琥珀色の双眸は無言で伊澄を睨みつけたが、彼もまた、浅葱色の眸で冷ややかにそれを受け流すのだった。
 万屋・猫の手。ここは少女であり化け猫である、稚紗の営む、いわゆる何でも屋である。
 遥かこれより千二百と数十年前、この国は持てる技術のすべてを駆使して、鎖国に踏み切った。時の実力者、藤原一門が示したその方法とは、結界のまじないを書き綴った石の壁で、この国を端から端まで覆ってしまうこと。陰陽の術と見せかけたそれが容易には破られなかったのは、本来であれば調伏するものである陰陽師が、調伏されるものであった妖たちと手を組み、そのまじないに人外の干渉を加えたからなのだ。大国からの陰陽術の急速な渡来を怖れていた妖はこれに賛同し、人とその怪なるものとは手を取り合った。以来、すでにその製法は明かされた今となっても、外壁にかけられた術が破られることはない。大和の国はここに、独自の発展と衰退、そしてまた発展を遂げ続けている。
 外壁に隔たれた国の中で、協力関係となった人と妖は次第に交流を深めていった。他に交流するものがなかったことも、その目覚ましい進展の一つの理由と言えるだろう。人と妖とは、互いに残された唯一の異文化であった。そして同郷である。その血が交わり始めるのに時間はかからず、鎖国から三百年を迎える頃には、すでにこの国に純粋な人間も妖もほとんど見かけなくなっていた。


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