そして、千二百年という果てしない月日が流れた今。その交流の名残はすべての人の身に、確かに現れている。
「仕方ないじゃん。できることやらないのって、後味悪い」
「お前のできる、は、たまにできないだろうが」
「煩い、伊澄くんは早く帰って駄菓子でも売ってれば」
「失せ物探ししか仕事の来ない万屋に、皮肉られるほど悪い店じゃないんでね」
 ほら、と伊澄は片手に提げていた袋を、今にも噛みつきそうな稚紗の目の前に突き出した。何を、と次の言葉を継ごうとしていたその口が、みるみる弛んでいく。ぱあ、と光の射す音が聞こえてきそうに目を輝かせた稚紗の口許から、八重歯が覗いていた。最大級に笑ったときの、何とも手っ取り早い指標だ。
「母さんが、お前にって。麩菓子と金平糖、他にも飴とかいくつか入ってる」
「うんうん!」
「……あんまり顔突っ込むと、また耳に引っかかって窒息しかけるぞ」
 稚紗の身に現れた妖の性質は、化け猫だった。両親は父が豆狸の血であるから、母のほうの性質を強く継いだのだろう。母も化け猫である。赤子は誰しも生まれるときに、両親から人間としての遺伝子と、そのどちらかから、妖としての遺伝子を受け取る。この国ではほとんどの人が生まれながらに、人と妖、二つの性質を持っているのだ。それはもちろん、目の前の少年にも例外ではない。
「お母さん、元気?」
「相変わらずいかつい」
「自分がお父さん似だからって、またそういうこと言う。今度言いつけちゃうから!」
 彼の母は、般若だ。厳しい、怖い、という意味の比喩ではなく、般若の血が現れている。額には大きく捻れた二本の角があり、唇は血のように赤く吊り目。中々に迫力のある外見だが、中身は気立てのいい、下町のおかみさんという印象の人である。
 彼自身は父のものである、一目連の性質を継いだ。おかげさまで捻れ角はなく、風を操る竜らしく、涼しげな色の目をしている。
 取引だ、と言って伊澄が一度は差し出した袋を高々と上げた。言いつけるならこれはやらん、ということなのだろう。稚紗はにやりと笑った。身長が何だ。猫に高さでものを挑むなど、笑止千万である。
 両足に力を込めて、思いっきり跳ねる。途端、稚紗の目線は伊澄の頭を易々と追い越した。いただき。伸ばした手の先を、袋がさっと逃げる。伊澄も稚紗の脚力には慣れたもので、一度では取らせない。尚も稚紗がその腕の先目がけて飛びつこうとしたとき、通りを歩いてきていた足音の一つが、二人の傍らで止まった。
「……お忙しいところ、すみません」
 細い、少し緩慢な口調の声が、戸惑いがちにそう呼びかける。今や衿を掴んだり腕を取り押さえたりと、それこそ猫の喧嘩のようになっていた稚紗と伊澄は、その声にぴたりと動きを止めて振り返った。
 齢十五、六といったところだろうか。稚紗たちとほとんど同じ年頃に見える、美しい少女がそこに立っていた。濃淡を織り交ぜた紫の、華やかながら品のある絞り染めの着物を身につけている。鼈甲の簪を一つ、片側に編みこみを作った象牙色の長い髪に挿している。
「万屋・猫の手はここですか?」
「は、はい」
「ご主人の、稚紗さんという方はどちらに……?」
 掴んだままになっていた伊澄の衿を離して、稚紗は慌てて自分がそうだと名乗った。少女はまあ、と顔を綻ばせて、大輪の牡丹のように微笑む。
「わたくし、記喜と申します。貴方にお願いがあってここへ参りました」
「お願い?」
「はい。――わたくしに、町での暮らしを教えてはいただけないでしょうか?」
 薄墨のような、澄んだ眸が真剣な眼差しを向けて、そう言った。稚紗と伊澄は互いに顔を見合わせ、稚紗はひとまず、一歩ずつ帰ろうとする伊澄の腕を掴んだのだった。

「梅昆布茶しかないんだけど、いい?」
 居間か客間か、どちらでもある小さな畳の室内に、梅の香りが漂った。四人程度が囲める四角い座卓の、その周りに茣蓙を三つ並べる。二つを隣り合わせにし、一つを向かいに置いて茶を淹れて戻ってくると、伊澄と少女が斜めの位置に腰を下ろしていた。少女の向かい、伊澄の隣が一つ空いている。湯飲みを三つ、熱いから、と一言かけながらそれぞれの前に並べ、稚紗は残った茣蓙にようやく腰を落ち着けた。
 改めて、正面に座った依頼主の少女を見る。緩やかに波を作って広がる象牙色の髪。前髪は真っ直ぐに切り揃えられ、その下から覗く目は薄墨色に澄んでいる。紫の着物に、山吹の帯と黄緑の帯紐。紅葉の一枝を模した、鼈甲の簪。
 どう見ても、この辺りに住んでいる少女の格好ではない。控えめに見てどこかの羽振りの良い商家の娘、もっと正直に言えば貴族の娘ではないかと見える。化粧一つ施していないのに白粉をはたいたように白い肌も、そう思わせる大きな一因であった。
「町での暮らしを教えてって、例えばどういうこと?」
 正座をし、姿勢を正して稚紗は聞いた。梅昆布茶にはまだ手をつけられていない。湯気を立てるような熱いものを口にするのは、昔から苦手だ。舌の先が、とんでもなく悲鳴を上げるのである。
「どのようなことでも。具体的には、食事や生活の仕方、町の雰囲気や、人がどのように暮らしたり働いたりしているのか……です」
「……ずいぶん規模がでかいな」
 記喜(きき)と名乗る少女の返事に、梅昆布茶を啜っていた伊澄が呟くように口を挟んだ。伊澄くん。依頼主の話を遮る行為に稚紗は咎めるような声を上げたが、記喜が大丈夫ですとそれを止めた。


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