船呼びW

 手のひらの上でオカリナを転がして、呼々は徐々に白み始めた空を見た。紺色の夜空の一枚向こうに、青空の影が覗いている。ベッドに横たわってみても、目を閉じるとガラス越しに唸る風の音と、頭の中を占領しているたくさんの話が交ざり合って眠れない。幾度となく寝返りを打ったあと、結局起き上がって、ベッドを抜け出した。

「朝靄の中で手を叩くと、霧で霞んだ水平線の向こうから、その船は来た」
 ざあ、と風に打たれた海面の、震える音が轟く。夜明けの一歩前の薄暗がりの中で、その白髪はとても柔らかなものに見えた。声も発していないのに、足音だけで誰が来たか分かっているのだろうかと、呼々はその場に立ち止まる。或いは、誰が来ても一言目はそれと決まっているのか。
「今朝は、ずいぶん早いな。子供はまだ寝ていていい時間だろう」
 ああ、でもそういえば。二度目に会ったとき、同じ人間と二日続けて話すのは久しぶりだとか何だとか、そんなことを振り返ると同時に言っていた気がする。近くもないがそう遠くもない、曖昧な記憶を手繰り寄せて緩く笑った呼々に、老人は怪訝な顔をした。そうしていると、このところ潜められていた眼光の強さが浮き彫りになるが、今となってはあまり怖そうだという印象もない。今はここにいない、鴎のようだとは思った。鳥のような目をした老人は、隣へ並んだ呼々にふっとその視線を和らげる。
「口が利けないなら、それでも吹け」
「え?」
「左手に、握っとるだろう。せっかく持ってきたんだ、音を聴かせてくれんか」
 沈黙を保っていた呼々の左手を指して、老人は珍しく頼みごとをするようにそう言った。固く握っていた手のひらをゆっくりと開けば、白いオカリナが転がり出てくる。適当な穴に指を押し当てて、潮風を深く吸い込み、息を吹き込んだ。どこか汽笛の音に似た丸みと勢いを持つ音が、霧の中を真っ直ぐに、海へ向かっていく。
「……下手くそめ」
 最後に音が震えたのを聞き逃さず、老人はそう吐き捨てた。反論するように力を込めて吹いた音が、甲高く空を突く。静まり返った町を背にしてそれは予想外に大きく響き、思わず唇を離してから、呼々は後ろを振り返った。どの家の窓にも、目を覚ました気配はない。
 再び海を見れば、そこにも彼方に水平線がぼんやりと広がっているだけだった。あの夢で見たような、大きな帆船は見当たらない。ギイギイと、父の船と裏の漁師兄弟の船が並んで停められている。それは夢の中にはなかったもので、呼々はぽつりとくぐもった胸の内を口にした。
「……秘密を覗いているみたいで、分からないんだ」
「何がだ」
「このまま僕が、夢の続きを見続けてもいいのかどうか。父さんさえ知らなかった、お爺ちゃんの話を、僕が知ってもいいのかどうか」
 オカリナを握る手に、力がこもる。呼々にとってそれは、父にすべてを話せなかったことの本当の理由でもあった。すべてを知った父がこの老人をどう思うか、もちろんそれを気にしなかったわけではない。ただそれ以上に、何よりも祖父のことを思えば多くを聞けなかったという父を置き去りにして、自分が顔も覚えていない祖父の過去を垣間見ようとしている。父に対してだけではない。祖父に対しても、ドアを叩かずに土足で踏み入ってしまったような心地だ。
 だが老人は俯いた呼々の横顔を覗き込むと、ほんの一瞬、その重そうな瞼を見開いて、ふっと細い息を吐いた。
「なんだ、そんなことを思って黙り込んでいたのか」
「そんなこと、って」
「そう難しく考えなくていい。見てやってくれ。きっと、そう望んでいる」
 あまりに迷いのない口調でそう告げられて、呼々は弾かれたように顔を上げた。どうしてそんなことが言えるの、と。そう言うつもりだった口から、たった一言、どうしてと理由を尋ねる声がこぼれる。
 老人は、遠く凪いだ海のような、穏やかな目をしていた。
「歳を取ると、大切なものは減ってくる。だからこそ、自分の目で確かめるのが怖くもなるんだ」
 老人はそう言うと、ポケットから何かを取り出して呼々に差し出した。一瞬、受け取るのを躊躇ってじっとその目を見つめ返したが、奥の奥までは覗けない。ゆっくりと開いた手のひらの上に、オカリナのときと同じ、人の温もりの残ったものが置かれる感触があった。だが、オカリナと違って今度はとても軽い。
「冒険をしてやってくれないか。じじいの代わりにな」
 それは、四つに畳まれた手書きの地図だった。風が吹いたら飛ばされてしまいそうなその地図を、呼々は開いた両手で掴んで、真っ直ぐに老人を見る。朝日が水平線を乗り越えて昇り始め、その首元でちかりと、眩しく光るものがあった。瞑りかけた目を、もう一度開く。確かめてみれば帆船を下げた、古めかしい銀の首飾りだった。

 大小まばらなボトルシップが、壁の一面に並んでいた。ざり、と靴底が床を擦るたび、砂の匂いが舞い上がる。壊れそうな音を立てるミシンが、初夏の日差しの中で忙しなく動いていた。石灰を散らしたように、光に当てられた塵が揺らめく。
 町の外れの白い家に、その人物は住んでいた。ペンキの所々剥げた引き戸の横に、細い字で水押(ミオシ)と書いた表札が一つ下がっている。窓際に置かれたアイビーの緑と水気を残した土だけが、この家にも時間は流れていることを静かに語っていた。カタカタと一定の速さで動き続けていたミシンを、細い腕が抱くようにして止める。
「五十年くらい前の、こんな季節だったかしら。一隻の船が、沖にある小島に難破したの」
 深い、澄んだ水のような声が沈黙を裂いた。ミシンの音が静まった部屋に、壁掛け時計の音が入れ替わる。カチリ、カチリ。砂の粒を積もらせるように、その音は響いた。柔らかく温かく、どこか寂しく。
「古かったけれど、この町で一番の大きな船だったわ。マザーと呼ばれていて、腕のいい漁師たちが毎朝、今日もよろしくと言ってくれた」
 長い、緩やかなウェーブのかかった茶色の髪に、窓から入る日差しが被さって眩しい。背もたれの低い、小さな椅子にきちんと腰かけて話すその人は、入り口の脇に立ったままの呼々を振り返ることもなく話し続ける。
「大切にされていたから、最後のときも皆を守りたかった。まるで海の神様が癇癪を起こしたみたいに、急な嵐だったけれど」
「……」
「雨風よりも早く、水に触れている私には分かったの。だから流れに逆らって、沖の小島を目指した。港へ戻る余裕はなかったわ。小島に着く頃には波も荒れて、海はすっかり怪物みたいになっていたけれど」
「……」
「……誰にも、怪我はさせなかった。無事にどこか陸へ上がれれば、きっと他の漁師が探しにきてくれるって分かっていたから」
 声が、かすかに震えたように、一瞬引き攣る。呼々はそれをかき消すように、小さくうん、と相槌を打った。
「嵐が治まった翌朝には、迎えの船が来て皆を連れて帰ったわ。すっかり壊れてしまった船に、乗っていた人も乗っていなかった人も、皆が手を合わせた。泣いている人もいたわ。……連れて帰れなくてすまないって」
「帰れない?」
「マザーは、他のどの船より、ずっと大きかったのよ。引っ張っていける保証がなかったの。でも、船はそれで良かった。初めから、そうなる覚悟で小島に向かったの」
「……」
「それで、良かったの。だけど、不思議ね」
 潮風がふいに舞い込んで、呼々は視線を横へ向けた。本棚の横にもう一つ、白い枠の窓が開けられている。遊歩道を越えて遠くに、見慣れた港が見えた。晴天の今日は、船がほとんど残っていない。
「それでいいと思わなかった人が、いたのよ。若いけれど皆の中心にいた漁師で、数え切れないくらい、一緒に海へ出た人が。何度も何度も、仕事の合間を縫って、何とか引き取りにこようとしてくれたわ」
「……ふうん」
「難しかったみたいだけれどね。オカリナの好きな、調子のいい人で、どんなに無理だと言っても諦めようとしなかった」
 淡々と語る声に、懐かしむような笑みが交じる。
「だから、会いに行ったの」
 背を向けたままのその人、水押は、そう言って白い袖口で一度、頬を押さえた。そのまま両手を膝の上へ下ろし、そっと握る。震える背中を見ないように、呼々は自分の爪先へ視線を落とした。白い、昼に近づいた日差しが石の床を伸びて、隅へ向かっている。
「しばらく一緒に暮らしたけれど、姿が変わらないことに気づかれてしまうのが怖くて、逃げ出してしまった」
「……」
「でも、遠くへは行けなかったの。こうして足があるのだから、その気になればどこまでだって行けるはずなのに。結局はこうして、私を呼ぶ声の聞こえる距離から離れられないんだわ」
「水押」
「もう、何十年も声なんて聞こえないのだから、今さら呼んでくれることもないのでしょうにね。それでも、もしかしたらまだ、もしかしたら、って」
 椅子の動かされる音に、呼々は顔を上げた。柔らかな髪が、背後の窓から差している光を遮って揺れる。逆光の中で、微笑んだ眸を見た。
「――水渡は元気にしている?」
 濃い霧のかかった、朝の海の色。なんて深く、鏡を見ているような色だろう。初めて見たはずの顔は、どこか呼々の母、未鳥にも似ていた。だがそれ以上に、と、呼々は手のひらで自分の瞼を押さえてみてから、ゆっくりと瞬きをして答える。
「元気にしてる。漁師をやってるよ」
「そう」
「きっと会いたいと思うな。でも、水押。今あなたを待っているのは、父さんじゃない。父さんは、あなたのことを覚えていないから」
 深く、息を吸ったら。太陽の光に輝く海の色に、胸の奥まで染まった気がした。目の前の細い体が、強張る気配がする。けれど伝えるべきだ、と思った。考えるよりも早く、言葉は自然に唇からこぼれた。
「あなたのことを本当に待っている人は、もっと別の場所にいるよ」
 だから、と。言いかけた口を、ふと噤む。おおい、おい。波の音に交じって、どこからかそんな声が聞こえてきた気がした。初めは確信が持てなかったが、徐々にはっきりと聞こえてくる。次いで何かを真似るような口笛と、手を叩く音がした。
 目を見開いた水押の体が、金色に包まれていく。日差しではない。はっとして確かめるように開かれた両手へ、呼々はポケットから取り出した白いオカリナをのせた。水押の藍色の眸に見つめられたまま、その手を取って、オカリナを握らせる。水押の指の先は、とっくに金色に染まっていた。
 ――おおい、おい。呼んでいる声が、聞こえる。手を離して微笑めば、水押は頷いてオカリナを胸に抱いた。その体が、待っていたと言うように金の光の粉となって弾け、窓枠を鳴らして吹き込んだ一陣の風に乗る。巻き上げられた砂に、呼々が一瞬、目を瞑ってから窓辺へ駆け寄れば、遠く晴れた港へ向かって金色の風が吹いてゆくのが見えた。風は、群青の海の上を真っ直ぐに渡ってゆく。
 呼々は腕を伸ばしてその窓を閉めると、ボトルシップの並んだ家を後にした。引き戸を閉める間際、ふわりと揺れたアイビーの緑に、家を出てくるとき庭で水遣りをしていた母の姿を思い出す。蜂蜜を買いに行くといって出てきてしまったから、きっとそろそろ帰りが遅いと思い始めている頃だろう。
 オカリナを入れていたほうと逆のポケットに手を入れて、四つに畳まれた地図を取り出す。呼々はそれを来たときと反対の方向へ回して、日の当たる路地を歩き出した。

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