船呼びU

 それがなぜなのか、答えない理由さえはぐらかされ続けたと、いつだったか父さんの母さんはどんな人だったのと父に尋ねたとき、教えてもらった。
「じゃあその父さんの父さんとやらは、どうしているんだ」
「分からない」
 老人の問いに、呼々は首を横に振った。同じことを、自分も父に聞いたことがある。父が言うには、父が母と結婚して、粉雪の降る朝に呼々が生まれた。その日の午後に、行方が分からなくなったそうだ。
 そうか、お前も親父になったか、と。嬉しそうに笑って、病室の窓辺で呼々を抱き上げたそうだ。元気に育てよ、と言って、その帰り道を最後にどこへ向かったのか分からない。呼々が十二を過ぎた今でも、戻らないままだ。
「仕様のない男だな」
 ずっと黙って聞いていた老人は、灰色の髭の浮き出た顎を撫でてそう呟いた。先ほどまではいなかった鴎が、海の向こうから少しずつこちらへ向かってきている。風見鶏はそれをじっと待つように静かだ。呼々は少し考えてから、でも、と切り出した。
「父さんは、怒ってないみたいだった」
「ほう?」
「前に僕も、何も言わずにいなくなるなんて勝手だねって言ったんだ。そうしたら、おれが家族を作るまで待っていてくれたんだろう、って」
 遅かれ早かれ、きっといつかはこうするつもりだったのさ。寂しくないの、と素直に聞くことができずに、非難するようなことを言った呼々に対して、父は笑ってそう言った。分かるの、と聞けば、何となくな、と答えた眼差しを思い出す。窓の向こうでパセリを摘む母の背中が、右に左にと揺れていた。
 おれには、ほとんど記憶がないが、親父にとっては違うんだろう。それがいなくなったという父の母を指しているのであろうことは、呼々にも何となく理解できたものだ。それが結局、記憶が残っているからどうしたということになるのかは分からなかったが、父は自分の父親が姿を眩ませたことについて、むしろどこか誇らしげであった。やっと自由にしてやれたのだと、そう喜んでいるようにも見えた。だから呼々にとっても祖父の失踪は、虚しいものだという印象がない。
「殊勝なことだ」
「それ、どういう意味?」
「お前には早い言葉だったか。分からんでもいい」
 老人はそう言うと、節くれ立った指で杖の柄を擦った。舵の形をしている。この辺りでは土産物として、船をモチーフにしたものは多い。だが地元でそれを使っている人間を見るのは、あまりないことだった。
「話し込んだが、一つ、肝心なことを聞いていなかったな」
「何?」
「お前の名前だ。何でも構わん、何と呼んだらいい」
 握りやすそうな形をしているな、とぼんやりそれを見つめていた呼々は、老人の言葉にゆるゆると顔を上げた。何でも、と言われても、名など一つしか持ち合わせていない。
「呼々」
「ふむ、悪くない名だ」
「お爺さんの名前も教えてよ」
 答えて尋ね返すと、老人は当たり前のことを言うかのように、言った。
「歳を取ると、用心深くなるんでな。内緒だ」

 それから数日が過ぎた夜、呼々は目を開けると港に立っていた。初めは自分がここで何をしているのか分からなかったが、段々と記憶がはっきりしてくる。夢か、と思った。明かりを消してベッドに入ってから、ここへやってくるまでの一切が飛んでいる。ということはきっと、これは夢の中なのだろう。
「――――……」
 夜明けの一歩前くらいの時刻だろうか。ミルク色の霧が、背後の町から足元、そして海上までしっとりと立ち込めている。その彼方に、一隻の船がいた。
 帆船だ。大きさは遠くてよく分からないが、ここからでも帆船であることが確認できるということは、それなりに大きいだろう。港で一番大きな船と同じくらいかもしれない。
 呼々はその船をもう少し近くで見たいと思い、一歩、二歩と足を進めた。だが小さな港を何歩か歩いたくらいでは、広い海の彼方に浮かぶ船との距離が変わったようには思えず、それもそうか、と溜息をつく。その瞬間に、辺りの霧が一斉に舞い上がり、夢の景色を覆い隠した。

「綺麗な夢を見るのねぇ」
 オレンジマーマレードの甘酸っぱい香りが、温かいトーストから昇る空気にのって広がる。夢で見た未明の景色を話してみると、母はそう言って洗い物をしていた手を止め、微笑んだ。
「綺麗だった、かな」
「違うの?」
「……ううん、違わないと……思う」
 歯切れの悪い返事を返して、呼々はトーストをかじった。鍋にかけたミルクはもうすぐ適温を迎えるが、今日は蜂蜜を切らしているので甘くならない。それが少し惜しい。
 母の答えは決して可笑しなものではなかったのだが、呼々にとってはどうにも、的確なものに思えなかった。綺麗だった、と言えば確かにその通りなのだが、それだけではない。かといって不気味であったとか、そういうわけでもないから説明のしようがないのである。ただ、綺麗という一言だけで済ませるには不思議な夢であった。まるでそう、自分の体が小さくなって、絵本の中の見開きページにそのまま入り込んでしまったような。
「帆船の夢なあ。おれは何となく分かるぞ」
「え?」
「昔、よく似たのをおれも見た。そういえばちょうど、お前くらいの歳の頃だったかもしれん」
 妙な夢のお陰で、早起きだった今朝は父がいる。このあと漁に出るのだろう。茶色い、ごわついた仕事着だ。目を丸くした呼々に、遠い記憶を手繰るようにして続ける。
「何度か続けて見たんだが、霧の向こうに船がいる。それだけの夢だった。怖いことも起こらないが、変わったことも起こらない。ただ突っ立ってそれを見ているしかできずに、気づくと霧に囲まれて、目が覚めている」
「同じだ。父さんも見たなんて、たくさんの人が見る夢なのかな」
「いや、それはどうだろうな。おれも何人かに話したが、同じ夢を見たって言ってる奴を見たのは、今が初めてだから」
 言って、父はカップに半分ほど残っていた珈琲を飲み干した。そろそろ出かけるということだろう。時計を見ればまだいつも目を覚ます時間より早いが、呼々も話を切り上げて、冷めかかったトーストを口に運んだ。はい、とその隣にカップが置かれる。鍋にかけてすっかり忘れていたミルクは、母が様子を見ていてくれたらしい。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
 玄関先まで父を見送りに出て行った母の背中を眺めたまま、ぼんやりと今日の予定を立てる。真っ先に埋まったのは、このあと港へ行こう、ということだった。

「子供のくせに、散歩が好きな奴だ。面白いものなんて、特別ないってのに」
 ざあ、と水のせめぎ合う音が今日も響いている。群青に凪いだ海はどこまでも穏やかで、無数の船を乗せて舞う大きな絨毯のようにも見えた。それを一望できる港に、その人は今日も立っていた。逆に言えば、ここから目に入るものなんてそれくらいしかない。
「お爺さんが、それを言うの。僕より先に来ていたじゃないか」
「律儀に口答えしおって。返事がなければ、知らんふりをしてやったのに」
 面白いものなんて、特別ない。老人はそう口にしながら、相変わらずそんな港に佇んでいる。腰が少し丸まっているのに、いつからここにいたのだろうと呼々は内心思った。椅子に座らなくても、辛くないのだろうか。無論、そんなものがないからこそ、こうして立っているのだろうけれど。
「知らんふりって、どうして」
「性懲りもなく、じじいの話につき合わされてもいいのか」
「別にいいよ。……指、痛くない?」
 ばさばさと、白い大きな翼の舞う音がうるさくて、いつもよりも声を張り上げる。ここで会うことはもう何度目かになるが、老人の周りに鴎が集っているのを見るのは初めてだった。海上を飛んでいるときはどうとも思わなかったが、間近で見ると一羽一羽が存外に大きい。集まっているのは三羽なのに、長い嘴が老人の手にしたパンを啄むたび、指を持っていかれやしないのかと背中のあたりが冷や冷やする。
「食われているのは、パンだけだ。朝飯はいつも取られる」
「えっ、それ朝ごはんだったの?」
「胃袋に入らんことは分かっていたがな。お前も食うか」
 保存を利かせるためだろうか、硬く焼かれたパンを半分ほどちぎって、老人はそれを呼々へ投げるように渡した。咄嗟に受け取ってしまって、あっと思う間もなく、手元に鴎が迫る。柔らかだが鋭い風切り羽の音が、経験したことのない近さで鼓膜を打った。何とかもう片方の手で下側をちぎって食べてみたが、鴎の咀嚼の速度には敵う気がしない。
「とろくさい奴め、全部食われたか」
「全部じゃない」
 パンを口に残したまま、くぐもった声で反論した呼々を見て老人は笑った。上下する翼の向こうに、銀を詰めた歯が覗いては隠れる。やがて呼々の手の中にもうパンがなくなったことを確かめた鴎が再び空へ戻ったときには、とっくにその笑みもしまわれていた。パンの表面についていた薄い塩の風味が、潮の香りと混じって喉につんと残る。
「今日は、どうしてここに来たんだ。通りすがりか?」
 その香りにつられるように海を見た呼々へ、老人が尋ねた。うん、と肯定の意味もなくぼんやり頷いてから、呼々は海と港を交互に見やって、口を開く。
「……夢を見たんだ。うまく説明できないんだけど」
「夢?」
「そう、港に立って船を見る夢。それだけの内容だったんだけど、何だか、この港みたいだったなって思って」
 みたい、というよりは、まさしくこの港だった。確信が持てなかったが、実際に来てみるとやはり、あの夢の中で歩いた港は今こうして立っている港であると分かる。この町以外の港を見たことがない。だからだろうか、とも考えはしたが、知らない人や知らない家、知らない町を夢に見ることはある。それでも港は、見慣れたこの場所を見た。
「変な夢だよね。お爺さんは見たこと、ある?」
「……」
「大きな帆船だったよ。霧が濃かったけれど、遠くにずっといるのが見えて――」
 話しながらふと、呼々は前にもどこかでそんな話を聞いたことがあった気がして、目の前の老人を見た。ああ、そういえば。初めて会ったときに、よく似た話を語っていたではないか。返事を期待してか、自然に言葉が止まってしまっていた。老人はそんな呼々の目をじっと見つめ、呟くように答える。
「……夢、か。確かにそんな夢も見たかもしれん」
「お爺さん?」
「夢か現か、迷うとはわしも弱くなったもんだ。お前にこれを渡してみるとしよう」
 え、と聞き返すより先に、老人はポケットから何かを取り出して呼々へ突き出した。ずいと差し伸べられた手の下に、手のひらを広げてみると硬い感触が転がってくる。
「好きにしてくれ、どこだったか遠くの町で、若い頃に買った土産物だ。音はまだちゃんと出る」
 それは白い、大きな鮫の歯のような形をしたオカリナだった。白いと言っても経年の影響か、光に照らされると象牙色をしている。だが、大切にされていたのだろう。罅や汚れはほとんどなく、首から提げていられるように茶色の紐が括りつけられている。迷うように見上げてみれば、老人はただ呼々を見つめて頷くばかりだった。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -