船呼びT

 空を覆う灰色の雲が溶けて浮かんだような、濁りのある水面だった。光の反射が薄いだけで、海は深く、重いものに見える。濃紺の波が絶え間なく動いているのをじっと見つめていると、徐々に港の際へ向かっていく足を引きとめるように、嗄れた声が言った。
「昔はもっと、大きな船が当たり前に停まっていたもんだ。この町も漁師がずいぶん減った」
 水面を覗き込んでいた、呼々(ココ)が振り返る。首元まで伸びた白髪を革紐で括った老人は、呼々の顔を見ると、持っていた杖で地面をこつこつと叩いた。何の意味があったのか分からずに立ち尽くしていると、落ちそうで見ていられないからもう少しこちらへ下がりなさい、と言われて、慌てて数歩港から離れる。代わりに老人との距離が、数歩狭まった。重そうな瞼の下に深い皺が入っているが、眼光の強い、怒らせたら怖そうな老人である。
「船は好きか? 大きな帆船だ」
 その印象を抱いてしまったおかげで、呼々は老人の質問に頷くしかできなかった。だが、実際に嫌いでもない。船そのものへの興味や知識はそれほど多くなかったが、父の帰りを出迎えに港へ来ることは多いので、海も船も幼い頃から見慣れたものではある。老人は呼々の返事に、そうかと言って微かに笑ったように見えた。それからすぐに、視線を海の彼方へ向けて口を開く。
「昔、わしがまだずっと若かった頃だ。大きな船を、呼んだことがあった」
「呼んだ?」
「ああ、そうとも。こんなふうに」
 浅黒い両手を触れ合わせる仕草を見せて、老人は頷く。頭上を一羽の鴎が、旋回しながら飛んでいった。
「朝靄の中で手を叩くと、霧でかすんだ水平線の向こうから、その船は来た」
「お爺さんのところへ?」
「記憶が正しければな」
 間髪入れずに返されて、呼々は戸惑う。堂々と語られ始めたものが、突然曖昧に思えた。老人はそんな呼々の様子も意に介さず、遠くのどこかを見つめたままで独り言のように続ける。
「何せ、何十年も前の話だ。夢のようだったということしか覚えとらん」
「……ふうん」
「ちょうどこんな、今日の空の色に似た霧のかかる朝だった。そっくりだ」
 記憶が正しいかどうか分からないというわりには、真っ直ぐな視線だった。まるで老人の目には、今も彼方にその船というのが見えているのではと思わせるような。つられて海を見てみたが、呼々にとっては何の変わりもない、いつもと同じ海である。言葉を続けなくなった老人に代わって、訊ねてみた。
「今は、やらないの?」
「手を叩くのをか? 試したところで、もう来るまい。現れないと、確かめることになるだけだ」
 老人はそれきり、口を閉ざした。呼々に話しかけていたことさえ忘れたかのように、じっと海を見つめている。潮の香りが吹き抜けて、呼々もそれきり、何かを聞くのをやめた。十時を知らせる鐘がもうすぐ鳴るだろう。少し、風が出てきたようだ。

「おかえり」
 後ろ手に閉めたドアの音が、バタンと響く。玄関でスリッパに履き替えてリビングへ戻った呼々を出迎えたのは、この時間に聞くことの少ない声だった。
「父さん。ただいま」
 新聞から顔を上げて、珈琲を一口啜った父と目を合わせる。青い縦縞模様のシャツを着ている。休日の一張羅だ。
「港を見たか? 海が時化て、船を出せそうになかったな」
「ああ、うん。風が強くなってきたかも」
「だろう。さっきから雨の匂いがする、今日は休みだ」
 言われて呼々は、そういえばそんな匂いがしたかもしれないとドアをくぐる前のことを思い返した。港からの帰り道、潮風に混じって確かに、湿った土のような香りがしていた気もする。漁師である父は、呼々よりもずっと天候の変化に敏感だ。父が言うのならあれは雨の匂いだったのだろうと思った。
「しかし、おれのほうが先に戻るとは思わなかった。手紙を出すだけなのに、どこまで行ったんだ」
 新聞へ視線を戻しながら、父が尋ねる。呼々は一瞬、パンの篭に伸ばしかけていた手を止めたが、すぐに干し無花果の入ったパンを選んでテーブルに着いた。
「坂の上のポストへ行っただけだよ。帰りに港を回ってきたから」
「なんだ、海の様子でも気になったか? お前も漁師の家の子供らしくなってきたな」
「毎日通るんだ。でも波のことなんかは、まだよく分からない」
 珈琲は飲めない。冷蔵庫から出したミルクを鍋にかけて、先にパンをかじる。呼々は毎朝、朝食の前に散歩へ行くのが習慣だ。漁師の父は朝が早く、呼々が起きる時間には天候次第で家にいたり、いなかったりするため、朝食を両親と揃って食べる決まりはない。大概は一旦外へ出てから、帰ってきてパンと飲み物で済ませている。今朝はたまたま、そのついでに手紙の投函を頼まれた。
「いつもこんな時間なのか?」
「大体そうだよ」
「よく腹が空かずに歩いてこられるな。おれなんか、起きた時点で毎朝空腹だっていうのに」
 ミルクが程よく温まったようだ。パンをくわえたまま鍋のところへ行き、適当な匙を取ってかき混ぜる。カップに注ぐ前に、蜂蜜を少し垂らした。瓶がもう軽くなっているが、不透明なので覗きこんでも残りはよく分からない。
 港を回る習慣はいつものことだが、あの老人と話したのは初めてだ。見かけたこともなかったように思うが、この町の人間だっただろうか。聞いてみたいと思う反面、呼々は父が散歩の行き先について、それ以上追究してこなかったことにほっとしていた。父よりもずっと年上の知らない人間と話したことについて、どこか言いにくさのような、妙な躊躇いがあった。多分あの老人の話が、どう説明したらよいのか分からない、何とも言えない内容だったせいも大きい。
 ホットミルクに口をつけたところで、新聞を閉じた父が窓へ目をやり、あっと呟いた。
「雨だな」
「え?」
「未鳥(ミドリ)、おおい未鳥。降ってきたぞ」
 見れば、窓ガラスに点々と細い線がついている。それは見ている間にもぽつりぽつりと増えてきて、父の声を聞きつけた母がリビングへやってきた。
「本当だわ、ありがとうお父さん。お昼頃までは大丈夫かと思っていたのに。洗濯物、しまわないと」
「母さん、ただいま」
「ああ、呼々。おかえりなさい、戻ってたのね」
 父は母を名で呼ぶが、母は父を水(ミ)渡(ト)とは呼ばない。呼々と同じで、お父さんという呼び方をする。奥の部屋で破れた網を修繕していたらしい母は帰ってきた呼々に微笑むと、椅子にかけた帽子をとって被り、少し慌ただしく階段を上っていった。パンを残り一口で頬張り、ホットミルクで流し込む。空になったカップを持って立ち上がった音に、父が顔を上げた。
「そういえば、おれの船は無事だったか? これくらいの風なら、特に心配もないとは思うんだが」
 呼び止められて、思わず口ごもる。港の景色を見たのだからそれくらい覚えているはずなのだが、今日は老人と話していたせいで、それ以外の記憶はいつもより曖昧だ。ぼんやりとだが、何とか帰り際に見た光景を思い出した。裏の漁師の船とその兄弟のよく似た船が並んでいて、その奥に停まっているのが父の船である。手前の二隻がくっついて揺れていて、船も兄弟のようだと思った。そのとき隣に、見慣れた船も並んでいたはずだ。
「平気そうだったよ」
「そうか、ありがとう」
「うん」
 ベランダから戻った母が、階段を下りてくる音がする。手伝うこともなく終わったようだ。
 呼々はカップを片づけると、入れ替わるように階段を上って自室へ戻った。一階よりも雨の音がはっきりと聞こえている。本棚から造りかけの模型を取り出して、机の上に広げた。完成すれば帆船になる。
 海に面したこの町では、模型といったら船しか売っておらず、さらに言えば子供の遊び道具といったら模型くらいしか置いていなかった。晴れの日はともかくとして、雨が降ってはこれくらいしかすることがない。必然的に皆、持て余した時間の分だけ模型作りが上手くなる。この町の大人は大抵、男女を問わず手先が器用だ。

 翌朝、いつもの習慣で港へ向かった呼々は、昨日と同じ背中を見つけて足を止めた。潮風にもつれた白髪が、丸まった背中の上で揺れている。海は昨日と違って、明るい光の断片に眩しく輝いていた。老人は今日も、杖を片手に遠くを見つめている。
「同じ人間と二日も続けて話すのは、何年ぶりになるか」
 近くまで行くと、足音に気づいて振り返った老人はそう言い、水平線へ向けていた眸をしばし呼々へ移した。だが、すぐにまた海へと戻す。
「今日は天気がいいな。船がちっとも残っとらん」
 老人の言葉の通り、昨日は港に繋がれていた船が今日はほとんど見当たらない。沖へ目を凝らすと何隻か浮かんでいるのが分かったが、水面の反射が忙しくて、数えるほど見つめてはいられなかった。
 ちらと隣を見れば、老人はそれでも海を見ている。
「朝靄の中で手を叩くと、霧で霞んだ水平線の向こうから、その船は来た」
「お爺さん。昨日聞いたばかりだよ」
「ああ、話した気がするな」
 ゆっくりと開かれた口から出た話があまりにも記憶に新しいものだったので、呼々も口を挟まずにはいられなかった。キイキイと大きな鉄の風見鶏が回っている。昨日と違ったところと言えば、鴎がいるかいないかくらいだ。老人の話の内容に変化はない。
「だが、もう一度思い出したんだ。お前の顔を見ていたら」
「そういうものなの」
「じじいの話は退屈か?」
 老人はそう言って、皺の刻まれた指で呼々の顔を真っ直ぐに指し、ふいに瞬きをして問いかけた。呼々は思わず、自分がそう聞かれるような顔をしていたのだろうかと表情に力を込める。同じ話だ、と思ったのは事実だが、そこまで深く退屈を覚えたわけではない。慌てて首を横に振る呼々に、老人はくつくつと笑った。
「本気にするな、何も叱ったつもりはない」
「え?」
「冗談の利かない奴だな。お前、家族はどんなふうだ?」
「どんな、って」
「父さんとか、母さんとか、誰かいるだろう。誰がいる」
 その問いかけに、呼々は一瞬答えていいものかと躊躇した。だが、黙り込むことも気が進まず、風見鶏の鳴き声を背にしたまま正直に答える。
「父さんと母さんがいるよ。兄弟はいないんだ」
「それだけか。どうりでな」
「それがどうかしたの?」
「ああ。年寄りに慣れていないだろう。一緒に暮らしたことはないのかと思って聞いただけだ」
 図星を当てられて目を瞠る呼々に、老人はほれまた、と笑った。どうやらこうして話している今も呼々がわずかに緊張していることに、初めから気づいていたらしい。後ろに隠しているつもりだった包み紙を見つけられたような居心地の悪さに、不貞腐れて口を噤めば、そう拗ねるなと一蹴される。
「じじいとばばあはいないのか。父親にも母親にも」
「母さんにはいるよ、でも遠くの町にいるんだ。ケレディスの町」
「はあ、そりゃ遠いな。汽車でずいぶんかかるだろう」
 老人の言葉に、呼々も頷いた。母はここからずいぶん離れた町の出身で、二十四の頃に嫁いで来たらしい。二年ほど前にその実家へ出かけていったが、汽車に揺られすぎて体中が痛くなるほど遠くの町だった。母の両親はもうずっとそこに暮らしている。
 穏やかだがこの町の人々より都会的で華やかな生活をしており、呼々にはあまりケレディスの料理やもてなしが性に合わなかった。野菜や果物を透明な皿に盛りつけた食事より、日の下に干した魚のほうが口に慣れている。それも手伝って、特に呼々からあちらへ行きたいとせがむこともなく、交流はお世辞にも深いとは言えない。
「父さんのほうはこの町の生まれだけど、父さんの母さんは、父さんが小さい頃にいなくなったらしくて」
「亡くなったのか?」
「ううん、よく分からないんだ。死んじゃったのか、出て行ったのか、父さんも知らないっていうし。父さんの父さんが、教えてくれなかったんだって」
 母の両親以上に詳しいことを知らないのが、父の両親だ。呼々にとってはどちらも顔を見たことさえない。父は子供の頃に母と離れ、それから父の父親、つまり呼々からすれば父方の祖父に当たる人に育てられたというが、彼は妻について話すのを極端に避けたという。

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