シヰラカンスと月の檻U

 それから、何年が過ぎたでしょうか。魚は変わらず、海底を、星をくわえて泳ぎ続けていました。岩陰を点々としながら、鯨の歌だったものをぼんやりと口ずさみながら。時折、星に興味を惹かれて近づいてくるものもありました。星はそのたび、彼らと話したり、話さなかったりしましたが、最後には決まってそれじゃあねと言って、再び魚と泳ぎ始めます。
 いつしか魚は星と、星は魚と行動することに、何の疑問も持たなくなっていたのでした。もう何度眠って、何度季節が変わったか、どちらもよく覚えていません。それほどになっても、まだ時々、星の話すことには魚の知らない言葉が鏤められていることがあり、そういうものを見つけたときは、真新しい宝物を掘り出したように感じました。
「輪廻」
 口の中で繰り返した、たった今まで知らなかったその言葉に、星がそうと答えます。
「生まれ変わることよ。命が終わって、そうしたらまた生まれ変わるっていうの。面白い考え方だと思わない?」
「考え方、って。本当のことじゃないの?」
「さあ、命が終わったこと、思い出せる限りではまだないから。もしかしたら輪廻、したこともあるのかもしれないけれど、分からないわ」
 それもそうか、と魚は納得します。白い、目のない魚が隣を泳ぎ去っていきました。光を感じ取ることのない彼らは、星の存在を気にかけません。白い光が、その滑らかな尾鰭をどれほど透かしても、振り返る気配もなく暗闇へ消えてゆきます。
「地上ではね、輪廻を信じてみたり、星になるって言い方もあったり……命の終わりを、とにかく色んな言葉で語っていた気がするわ」
「じゃあきみも、かつての誰かなの?」
「まさか。星は、星よ。少なくとも、私は生まれたときから星だった」
「でも、もしそれが輪廻だとしたら」
「ええ、そうね。分からない。誰かが、私になったのかもしれない。誰かだった魂が、星の形に生まれ変わったのが、私なのかもしれないわ」
「それで今は、僕と、海の底にいるんだ」
 何だか不思議だな、と思ってそう言えば、星にはそれが可笑しかったのか、そうねと声を上げて笑いました。きらきら、ゆらゆら。星が笑うと周囲の光が震え、照らされた小さな暗闇が揺らめいて、静けさに埋め尽くされていると思った海底が少しだけ騒ぎます。
「そうね。貴方と、海の底にいるの」
 一頻り笑ったあとで、星は満足そうにそう言いました。それから、思い出したようにそういえばねと続けます。
「海を、すべてのものが生まれ、還る場所だって言っているのも聞いたことがあるわ。そうだとしたら、ここはその海の底だから、最果てね」
 ふうん、と魚は頷きました。
「じゃあ、きみは落ちてきたんじゃなくて、還ってきたってことか」
 星は、すぐには何も答えませんでした。驚いたように、息を呑んで黙っています。魚は驚かれた理由には思い当たりませんでしたが、ああでも、と思い直して言いました。
「やっぱり、違うかな」
「どうして?」
「ここは、冷たくて暗いから。こんな真っ暗な場所のどこかから、きみが生まれたとは、あまり思えないかもしれない」
 ね、と星を一度、砂に下ろして問いかけます。魚はそうして、星と初めて出会ったときのことを思い出していました。ずっと、上のほうにしかないのだと思っていた光が、砂の下から現れたときのことを。掘り返した鰭の、治るのに時間のかかった傷も気にならなかったくらい、魚にとっては後にも先にもない、鮮やかな思い出です。
 魚を見上げる星もまた、そのときのことを思い返していました。宇宙から吐き出され、地上を通り越して、衝撃で燃え尽きそうに熱い体で水面を裂き、海へ飛び込んだときのことを。
 みるみる遠くなる宇宙、比べ物にならないほどにざわめく世界。初めて触れた、水。銀の魚の群れ、くぐもっていく海鳥の鳴き声、徐々に遠ざかる水面、浮かんでいく泡、藍色の海豚。岩に当たって欠けた刺が一つ、煌きながら漂って、遠く届かなくなっていったのをぼんやりと見送りました。宇宙を追い出された体は、抵抗のできない力に引き寄せられて、あとは海底まで真っ直ぐに沈んでいくほかなかったのです。
 そして、最後にその体は勢いよく砂地へ飛び込み、何も見えなくなったのでした。
「……確かに、私が生まれたのはここじゃないのかもしれない。星は普通、宇宙で生まれるものだもの」
「やっぱり」
「でも、嫌いじゃないの」
 星の言葉に、魚はえっと驚きました。
「冷たくて、暗くて、本当に世界の底みたいな場所だけれど。それでも何だかここって、宇宙と似ているのよ。……そして、宇宙には絶対になかったものも持っている」
「ここにあって、宇宙にないものなんてある?」
「あるわよ。自由が」
 自由。その響きは魚の記憶のどこかで、前にも聞いた気がすると、かすかに共鳴しましたが、それがいつのどんな記憶だったのか、はっきりとは思い出せませんでした。ただ、前に聞いたときも、それは星の声だったように思います。焦がれ、震えるようなその声の揺らぎに、何より覚えがありました。
「宇宙には、自由がなかったの」
 知らない言葉について話すときと同じように、魚は口を開きました。いつもと同じ、何百回、何千回と繰り返してきた質問の一つのように、星の核心に触れたのです。星は、素知らぬふりをしました。魚と同じ、飽きるほど繰り返した会話の中の、ほんの新しい糸口を見つけた瞬間のように、曇りのない声で答えます。
「なかったわ」
「どうして」
「月が、そこにいたからよ」
 月。その名前は、何度となく聞き覚えがありました。丸くて、大きくて、眩しいもの。星や魚と違って、どこにも同じ姿の仲間を持たないもの。海の満ち干を操っている、遥か遠く、宇宙のもの。魚の暮らすこの海と、星の生まれた宇宙を繋いでいる、夜空の目のようなもの。
「私たちは、生まれてから消えるまで、空のどこを歩くか細かく決められているの。軌道といって、季節によって少しずつ違っていくけれど、自分の意思では一歩たりとも、外れることは許されなかった」
「え……」
「月が、全部見ていたわ。宇宙のものは皆、月の檻の中で生きているようなものよ。軌道を外れなければ、処罰を受けることもないけれど……、外れると、宇宙から追い出されてしまう」
「……」
「そういう、宇宙の掟なの」
 嫌になっちゃうでしょう、と冗談めかしておどけた星に、魚は呆然としました。一つの大きな目が、何もかもを見通す世界。最も輝くものが、何もかもを支配している場所。楽園の反対を、魚はまだ知りません。考えて考えて、最果てという言葉を思い出しましたが、眩しい光がすべてを取り決めている空の世界は、そんなものよりずっと恐ろしく、冷たいものに思えました。
 そして同時に、星がここに落ちてきたことの本当の意味を、察しました。
「きみは、それを破ったんだね」
「不可抗力よ?」
「そうなの?」
「ええ。生まれてから長い時間が経って、軌道に沿って進むだけの力がなくなってきたの。ふらふらしていたら、いつの間にかそこを踏み外していたみたいで」
「……」
「でも、そうね。それでもいいわって、どこかで思っていたのかしら。どう思う?」
 問いかけられて、魚は小さく笑いました。何だか星が、本当に分かっていないように見えたからです。星はいつだって、魚の知らないことを数多く知っていて、答えられないことなど何もないのではないかと思うほどでした。だからそんな星が、よりによって自分自身のことを聞いてくるのが、何だか妙に物珍しかったのです。
「僕は、」
 また星をくわえて、魚は一つ、泡を吐いて答えました。
「きみが落ちてきてくれて、嬉しかった」

 どこまでも青い暗闇の中から、白い光が現れます。次いで、その後ろに魚の姿は浮かび上がるのです。前方を照らす星の光が、ふいに瞬いて、また灯りました。暗闇に再び、光が滲みます。老いた魚のゆっくりと動く鰭が、海底に影をもたらして、揺らします。
「あの岩陰で、一休みしよう」
 魚が提案すると、星も分かったと答えました。尾鰭を動かして、見えてきた大きな岩の下を目指します。
 あれから何年、あるいは何十年が経ったでしょうか。魚はかつての倍ほどにも大きくなり、体は厚く、鱗の青は一層深い色となっていました。背鰭には切れ込みが入り、胸鰭は所々擦れ、額から鰓にかけては古い傷跡が残っています。
 長い年月を生きた証が、あちこちに刻まれていました。感覚も鋭く研ぎ澄まされ、周辺に敵がいないことを、無意識のうちに感知します。
 張り詰めていた眼差しをふっと和らげて、魚はそのまま、岩陰へ潜り込むと、重い体を段差へ寄せて休みました。様子に気づいた星が、ねえ、と声をかけます。
「私を下ろして、少し、深く息をしてみたら」
「でも」
「時間は、いくらでもあるんだもの。あてがあるわけでも、お腹が空いたわけでもないでしょう? だったら、ゆっくりしましょう」
 言い包められたようで苦笑しながら、魚は頷いて身を起こしました。言葉を使って話すことに関しては、何年経っても星のほうが上です。魚が一つの返事を思い浮かべている間にも、星は二つ、三つのことを話します。それでも、いつもは魚の答えを待ってくれるのですが、時々こうして遮るときは、それ以上の意見を聞く気がないときの合図でした。
 岩の切れ間の少し奥、拓けたように広まっている海底に、そっと星を下ろします。星の光が柔らかく辺りを照らし出しましたが、たった今くぐったと思った入り口までは届かずに、魚の顔を照らしただけに過ぎませんでした。近頃、星の光は以前に比べて弱くなりました。眩かった輝きは淡いものに変わり、時々、ふっとそれが消える瞬間さえ訪れます。
 魚も、それに気づいていないわけではありません。緩やかな変化は、ここ数ヶ月の間で、急速に勢いを増して訪れたかのように思えました。季節が一つ巡る前のことを思い返せば、いつも目の眩むような光がそこにあった気がします。それが遠い昔の記憶と混ざり合っているのか、本当にそうだったのか、どちらでもあったし、どちらでもなかったようにも思います。
「ねえ」
「何?」
「眠るの?」
「いいや、まだ」
 声をかけられて、いつの間にか目を閉じていたことに気がつきました。弱くなった光でも、星がそこにいると、まだ魚の瞼の裏は白く染まります。だから時々、目を閉じているのに開けているような錯覚に陥りました。そういうときは大概、宇宙の夢を見たような気持ちになります。
「きみは、本当に眠らないね」
「そういう生き物だって、分かったんじゃなかったの?」
「とっくに分かったつもりだったけれど、やっぱり、不思議だよ」
 この両目には、映したことがないはずの宇宙を。それは星が、宇宙の話を何度となく聞かせてくれたからでしょうか。あるいはやはり星が、いつだったか、深海は少し宇宙と似ているのだと言っていたからでしょうか。宇宙に似ているというこの場所に、宇宙にいた星がいるからでしょうか。分かりませんが、魚はそのたび、頭の後ろのほうで月の話を思い出します。
「知らないことが、たくさんあるよ」
「そうね」
「まだ、きみのことにだって」
「それは、私も同じだわ」
 魚はそれには返事をせず、代わりに少し微笑みました。海底に沈めた体から力を抜いて、白い光に震える景色を眺めます。黒い岩のごつごつとした線の一本一本に、光は細かく触れては影を作り、その斜面を流れていました。
「ねえ、きみ」
 思えば、出会ってから今日まで、名前も持たずに、共に過ごしてきました。たずねれば持っていたのかもしれませんが、必要がなかったからです。声を上げても返ることなどほとんどないこの深海で、きみ、と呼べるほど近くにいたのは、星だけでした。反対に、ねえ、と呼ばれて答えることができるのも、魚だけでした。
 無限の生き物がいるのに、嘘のように出会うことの少ないこの場所で、世界は広く、自由でした。そして二人きりでした。
 何、と星が答えます。魚は一つ、呼吸をして、ずっと考えていたことを口にしました。
「きみがきみでなくなって、僕が僕でなくなったら。僕がきみになっても、いいかな」
 どういう意味、と星が問い返します。魚は頷いて、横たわるように身を休めたまま、穏やかに言いました。
「星になるっていう輪廻も、あるかもしれないんだろう。それなら僕は、生まれ変わったらきみになって、宇宙を見に行こうと思うんだ」
「宇宙を」
「そう。だからその体を、今度は僕に譲ってよ。代わりに、空っぽになった僕の体を、来世は一度、きみに預けるよ」
 魂が生まれ変わるということを、教えてくれたのは星でした。あれはもう、何年、何十年前の話だったでしょうか。気づいていないわけではありません。記憶が古びたのと同じだけ、この体も、歳を取っています。
 剥離のときが遠くないことは、魚にも分かっていました。体を剥がれた魂は、どこへ還るのでしょうか。すべてのものが生まれ、還る場所がここであったとするならば、旅路は短いものになりそうです。もしかしたら、見知った道かもしれません。この数十年、星と一緒に、この最果てを自由に泳いで回りました。
 宇宙であったとするなら、案内には困らなくて済みそうです。瞬きを繰り返す星に、魚は言いました。
「それで僕ら、もう一度出会って、それぞれに見てきたものを話そうよ」
 この体を譲って、月の檻の中へ。きっと、想像もつかないくらい、こことは違った生涯を送ることになるのでしょう。けれど魚は、その先に待つものを想像すれば、決して悪くない日々だと思いました。定められた軌道に沿って、歩き続けて、そうして最後には罰されるように追い出されたとしても。
「……いいわ」
「約束」
「ええ、きっと見つける。今度は、私が貴方を」
 最果てに着けば、その長い話を待っている一匹の魚が、きっといるのです。
 さて、と深く閉じた目を開いて、魚は体を起こしました。海底は静かです。荒れる気配はありません。二度、三度、軋む尾鰭を動かして岩の切れ間から、外を探りました。広大な青い闇が、その両目に広がりました。
「休憩は、もういいの?」
「うん。どこへ行こうか。きみは、どうしたい?」
「それならこのまま。できるだけ遠くまで、行ってみたいわ」
「いいよ。そうだ、鯨の歌、歌ってよ」
 星をくわえて、魚は再び岩陰を抜け、海底を泳ぎ始めます。冷たい水の感触が、星の光と混じり合いながら、体を包んで後方へと流れ去っていきました。何度歌っても毎回違う歌が、暗闇の先へ向かって響きます。透明な一本の糸となって伸びていくその声に導かれるように、魚はゆっくりと、その彼方へ迷わずに泳いでいきました。


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